交錯

第十三話 交錯(一)

 なぜ逃げたのか自分でもよくわからない。足が勝手に動いていた。頭のどこかが弾けて、走り出していたのには後から気がついたのだ。ドッペルゲンガーなどの怪奇現象を信じる性質たちではないが、目の前にいたのは自分だった。他人の空似であるとかそういう次元ではない。確かに自分だった。自分を見えないびょうで留める双眸がそう物語っていた。それは私がよく知っている――燃えるような、紅葉もみじの色を映した橙色。

 通りを突っ切って市の場外に飛び出し、少女は宿屋へ向かってさらに走り続ける。だが、上着の背中に何かがぶつかり、その予期せぬ軽い衝撃に前につんのめった。

 うあ、とよろけて手をつく。地面の横後ろにころころと靴が転がるのが視界の端に入った。その瞬間、片方が裸足になった白い足が目の前にざっと音を立てて滑り出る。

「お願い待って」

 先の少女だ。息が上がり肩を上下させるその姿からは、市場で衆目の前に立った時に見せた威厳と自信はもはや微塵も感じられない。それでも、全身から伝わってくる高貴さはそのままだ。広場で背筋を伸ばした時とは別人のような焦りと不安がその顔に浮かんでいるものの、瞳が放つ凛とした強さは、彼女が先の人物と同一人物であることを証し、そして、目の前にしても受け入れ難い衝撃。

 ――その姿は、瞳は、自分のそれの写しなのである。

 彼女は身をかがめ、靴を拾うではなく自分に手を差し出して起き上がらせた。そして衣服に付いた砂を優しくはたいてくれ、怪我はないかと問いつつ自分の手足や服に汚れや傷が無いのを確認したのち、深呼吸をして真正面から自分と向き合う。

「ぶつけて申し訳なかったわ。自分でもまだ気が動転しているみたいなのだけれど、貴女あなたは――」

 いえ、と、彼女は言いかけた言葉を飲み込む。

「自ら名乗りを上げぬままにお名前をお聞きしようとした愚行をお許しください。貴女は我が国の方ではないとお見受けいたします。名乗り遅れて申し訳ありません。わたくしは本国シレアをべる者の第二子、第一王女、名をアウロラ。国母の下に生を受けた幸運より姓は国の名に代わります。改めて非礼をお詫びいたしますが、事態は急を要するための行動としてどうかご寛容を。そして、もし差し支えなければ貴女のお名前を頂戴願えませんか」

 手を取られて丁寧な言葉を並べられても、頭の方が思考を止めるぎりぎりのところまで来ていた。しかし遠のきそうな意識を何とか現実こちらに呼び戻し、喉元からいま耳が聞いたのと同じ声を絞り出す。

「名前は、ウェスペル、と、いいます」

 かすれそうになりながらも口に出した答えは、無意識に姓を飛ばしていた。しかしアウロラがそれを気に留める様子はない。

「ウェスペル様。勝手を承知でお願い申し上げます。貴女は……」

 アウロラの言葉の続きは、脇の道から聞こえて来た陽気な笑い声と共に途切れた。商人の集団か。

「まずいわ。ここじゃ誰かしらに見つかっちゃう」

 どこか落ち着けるところは、と明らかな焦りの気色にウェスペルも反射的に申し出る。

「私がお世話になるお宿がすぐそばにありますけど」

 場所を聞いたアウロラは、そこなら、と頷き、ウェスペルの手を取る。商人たちがこちらの道へ曲がるより前に走り出し、二人は材木屋の主人が手配してくれた宿の扉の中へ駆け込んだ。

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