第十話 邂逅(二)
少女がお腹を満たすと、主人はもう馬の用意を済ませ、荷台に少女が乗る場所を作ってくれていた。初めて乗る荷馬車にこわごわ乗り込んだら、主人の合図と同時に馬が元気よく歩き出す。畑の間をがたがた揺られていくのは車とも電車とも違って、こんな状況なのに不思議と胸が膨らむ。しかも主人の手綱捌きがうまいのか、全く酔いもしない。むしろお尻が軽く弾むのが楽しいくらいだ。
畑のある一帯を抜け、城のある市街へ近づくにつれ、少女を乗せた荷車の左右に民家や商店が増えてきた。馬車が進むほどに人の往来が多くなり、物売りの声や走り回る子供のはしゃぎ声が賑やかになってくる。道をすれ違う人の数や店先の賑わいは少女を助けた夫婦の家の周りの静けさ、長閑さとは対照的であり、豊かで活気ある城下の表情だ。
「ずいぶん栄えた街ですね」
「そら、うちの畑のあたりと比べるとなぁ。でもどっちもいいもんだ。街っていってもあくせくはしてないし、治安もいいぞ」
主人の言う通り、行き交う人々の様子を見るからに平和で暮らしやすい街なのは間違いなさそうだった。老若男女、道々で挨拶や軽口を交わしている人がたくさんいる。少女が馴染んでいる学生都市や地方の小都市も似た雰囲気があり、同じように大犯罪がないので評判だ。
だがその街の景観は少女の慣れ親しんでいるものとは違っていた。燃料で動く車は一つとして見当たらないし、頭上を走る電流の導線も無い。歩道の両脇に並ぶのは無表情な蛍光灯ではなく、蝋燭を包み込んでぶら下がる趣のあるランタンである。いかにも素朴な暮らしぶりを感じさせる風景は、いつだか映像で見た古来の伝統を残す外国の村にも似ていた。
確かに自分が旅行に来たのは歴史の古い街であり、まだ昔の風情を残すところだという評判はあった。
——ひょっとしたら街全体で旧来の生活様式を再現しているのかしら。観光業や伝統保護政策とか?
歴史的景観を条例で守る場合もあるというのを読んだことがある。左右を見回し、そうした地域の在り方と共通するところを探してみる。しかし何か違和感があるのだ。
そもそものはじめ、目指していたのは
ただ、もしそうだとしたら可能性として思い至るのは、いまの状況がまだ夜行列車の中で見ている夢であるとかいうことで、さもなければ非現実的な物語の中でしか起こり得ない。
荷台で揺られつつ思考を巡らせた結果、まずは城とやらに行ってみようと決めた。どのみち来た道は消え、地図も宿に置いてきてしまったので、戻るにもどちらに行っていいのか分からないのだ。ひょっとしたら建物の一部が残っているのかもしれない。古い城の建物が行政庁として使われることなら少女の住む地方でもあったのだし、そういうことかもしれない。城まで行けば宿との位置関係が取り戻せる可能性だってある。それに――ある意味、幸運なことに――旅行中なので何としても大急ぎで帰らねばならない、ということもない。差し当たり夜まではまだ時間がある。
もしこれが通常ならば半狂乱になってもおかしくない。ただ旅の時にありがちなことに、少女の頭の現実感も若干、薄れていた。焦っても仕方がない。
——第一、ここには私も知らない古いものを知りに来たんじゃないの。次にいつ来られるか分からないし、見られるものを見てくればいいわ。
そんなふうに達観するほど、少女には妙な落ち着きが生まれ始めている。
道すがら聞くところでは、荷車で送ってくれている旦那の家は林業を営んでおり、畑は夫人の実家のものだそうだ。街には数日に一回訪れ、今日も受注を受けた材木やら暖炉用の薪やらを届けて回るということだった。
「ついでに家に必要な細々したもんも調達するつもりだよ。明日から連休になっちまうからな」
「じゃあこれ、全部売り物なのね」
「そうさ。届けちまって、代わりに買いもんして載っけてくってわけだ」
なるほど、がたごとと少女が揺られている荷台には、長短様々に切り揃えられた材木が長さ太さごとに分けられ、それぞれ束ねられて載っていた。切り口には美しい木目が流線を描いている。
街道を行く間に左右を観察していたら、家々や商店に色づいた葉と細い枝を編み込んだ輪飾りがかけてあるのが目に止まる。それぞれの家で飾りの大きさは異なるが、輪の上の部分に共通して赤と茶の木の実を六つ繋げた小さな輪が付いており、その輪に刺さる形で
同じ輪飾りを持って歌い走る子供達にも、道々何組もすれ違った。幼い高い声で楽しそうに、律動的な調べを繰り返している。
刻み記せよ 我が命
「おじさん、あの歌は何ですか?」
「ああ、
旦那は手綱を持ったまま、民家の軒先の飾りを指差した。
「祭りの時にはあれに鈴つけてな、鐘楼が鳴ったら輪っかを皆で振って、太鼓に合わせて踊るのさ。舞がある本祭だけじゃない。前祭と後祭も賑やかでなぁ。子供の頃から毎年、祭りはわくわくするもんだ」
いろくれないに……と旦那も口ずさみ始める。声は小さいが楽しそうに、子供達と同じ高揚を滲ませて。
「さて、着いた。ちょいと待っとれ」
少し開けた広場で旦那は荷車を止めて降りると、荷台に積んであった材木の中から短めのものを一束抱えてそばの家に入っていった。
広場からは四本の通りが伸びている。荷馬車が来た方から見て右手の通りを見ると、すぐ先はいまいるところよりもう少し大きな広場になっているらしかった。
そこに建つのは、高い時計台。
むき出しの石組が土台部に見え、その上に横向きの木板が胴部を作る。各層を成す木は上部に行くにつれて細い木になる。その周りをいくつもの蔓が巡り、生きているが如く上へ伸びる。螺旋を描いて上る蔓は一番上で一つに集まるとぐるりと胴部を回り、葉を茂らせて冠を作り、そこに文字盤のはまった小屋の形の最上層を載せている。すっくと立つその姿から感じるのは、威厳、誇り――いや、言葉に表せば物足りない。むしろ言葉にするとその品位が失われてしまうようだ。
文字盤は
遠目から見ても、文字盤の中央のあたりは周りよりも強く輝いているのがはっきりと分かる。光の源は薄紅に色づいているらしい。水晶か何かだろうか。刹那的に落ちる光線は鋭く、思わず瞼の上に手のひらをやってしまう。
少女は時計台の建つ広場の向こうに視線を移した。そこは小高い丘になっていて、色付いた木々が斜面を覆い、その中に美しい白の尖塔が見える。童話の挿絵で見た城のようだ。尖塔の頂点には金色の球体が乗り、そこに旗がはためいている。なるほど、あれが向かおうとしていた城か。昔の姿を再建したのかもしれない。
左手の道は見通しよく伸びており、赤と臙脂を基調とする建物が並んでいた。繁華街の方面なのか、人が多い気がする。
ぐるり四方を見回していると、旦那がやや若めの、歳の頃三十代半ばくらいの男を連れて出てきた。少女を見ると男は物珍しそうに言う。
「あれま、ほんとにそっくりだ。こりゃあ、間違われたら騒ぎになりそうだな」
男はしげしげと少女を見て、ふむふむと頷く。旦那はそうだろう、と軽く流して少女に向き直った。
「わしはこれからまだ色々届けて買い物して帰るが、嬢ちゃんは城に行くんだろう。市場の方に行けば城に向かう者もいると思う。市場見るだけでも外のもんには面白いだろうしな。ただ嬢ちゃんの時間の都合はわからんし、街も見たかったら長くかかるかしれんから、ここの宿に泊めてもらうよう、こいつに頼んだ」
宿が気に入らなきゃ、うちまで乗っけてきてもらうといいよ、と旦那は付け足す。どうやら男は宿の主人らしい。気に入らないとは失礼言うな、と返し、男は続けた。
「しかしさあ、お嬢ちゃんこの顔じゃ、周りじゅう大騒ぎになるかもよ。いくらあのお転婆娘がしょっちゅう城下に来てるとはいえ」
「あぁ、確かにな。じゃ、嬢ちゃんこの帽子やるから被っとけ。市場やら街やら見ようにも、あちこちで呼び止められたら面倒だろ」
旦那は頷くと、自分の被っていた毛織りの風船帽を少女の頭にずぼりと被せた。旦那の禿頭が太陽の下で光る。
「旦那、頭寒いんじゃねーの」
「うるさい黙っとけ。お前も十年後にゃこうだ」
「十年後は早過ぎるだろ。それと残念ながらうちの家系は禿げねえよ」
やりあう二人に何を言ったらいいのかわからぬが、どうやら自分はこの近辺の有名人にそっくりらしい。そしてそれは、とりあえずのところ隠したほうがいいらしい、ということは少女も把握した。それが誰なのか気にもなったが、聞いたところで分からないだろう。それに、いまは知らぬ街を見て回る時の期待と好奇心と、少しの心地よい緊張が混ざった、あの静かな興奮が湧き上がってきていた。
「おじさん、ありがとうございます、送っていただいたのも、帽子も。一応泊まるところはもうあったのですけど、どう帰ったらいいか分からなくなっちゃったし……お言葉に甘えて、帰る前に疲れたら休ませてもらいます。お城もあそこに見えるのですよね、行ってみます」
丁寧に頭を下げる少女に宿屋の若主人の応対はにこやかだ。
「城はあそこに見えてるとおりだよ。木に隠れてちょっと歩くようにも見えるけど、なに、見た目だけでそんな遠くないさ。歩いても行ける。市や街を周って疲れたら明日でもいいし。そしたら馬で連れてってもやれるからな」
宿の主人にしてみれば、普段は無骨な旅人か、気はいいが上品さとやらはどこかで学び忘れてきた商人ばかりが泊まり客だ。心根がまっすぐな顔立ちをし、いかにも情操教育を受けてきた風の若い娘を迎えるのは――城から身分高い破天荒な娘がお忍びで来た時を除いて――まずなかった。自然と歓迎の気持ちも倍になる。
「じゃ、嬢ちゃん、まずは市に行ってみるがいいさ。ぐずぐずしてると閉まっちまうからな。明日は市場やっとらんから、城を見るよりそっちが先だろう。よそから来た人にゃ珍しいもんも見れるだろうよ」
じゃあまたな、と旦那は荷車を動かし、繁華街と思われる方へ去っていった。
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