後章・走れ若者
早朝のことだ。
稲緒は蹄の音で目を覚ました。誰かが馬でやってくる。昨日の村人たちはみな徒歩でやって来たが、さてこれは何者であろうか。
「そなたが雷の子か」
高い声に呼ばれて顔を出すと、大楠の前に、馬に跨る若い男がいた。烏帽子に紋付袴、腰に剣を提げているところを見ると、明らかに村の者ではない。
「私は国司の篠田為成と申す者。答えよ。そなたが村人の話す雷の子であるか」
「おう、おう。いかにも俺……いや我こそが天の御使い、雷の稲緒であァる」
稲緒はまた虚勢を張ったが、内心では少なからず動揺していた。国司だの殿様だのというから、村長のように脂ぎった年増男だとばかり思いこんでいたが、意外や意外、目の前に現れた為成という奴は若く精悍で、瞳の冴えた色男。人間の歳はよくわからぬが、おそらくは二十かそこらだろう。もう少し幼ければ女の子にも似た面影を残しながら、しかし決してなよなよとした感じではなく、細いなりに一本芯の通った面構えをしている。腰の剣も虚仮脅しの飾り物などではなく、しっくりと腕前に見合ったものと思われる。
「村の者より報せを聞き、夜通し駆けて参った次第。一つ聞かせ願いたい雷の子よ。そなたは何故、私とふさのめでたき事を拒むのだ」
女みたいな面のくせに、強い目をする。鷹のような目に真っすぐ射抜かれて、稲緒はちょっとたじろぎそうになった。
それでも、へそに力を込めて踏ん張った。
「お前の結婚は、不正だからだ」
「なに不正だと。なにが不正だというのだ」
「お前はふさを嫁に取る見返りに村の税を軽くしてやると、村長に吹き込んで篭絡したのであろう。己の高い立場を利用して、ふさではなく父親を口説いた。それが不正だというのだ。我は全てをお見通しであるぞ。まっこと男らしくない奴め。そのような振る舞いをして、恥ずかしいとは思わぬのか。ええ?」
――どうだ、どうだ、図星だろう。稲緒は得意になってまくしたてた。この気に食わぬ優男が痛い所を突かれて、オロオロと狼狽えるものだと思っていた。
ところが為成は少しも動じず、かえってますます瞳を尖らせた。
「何を馬鹿な!」
「ば、馬鹿だと……。お前、この稲緒を馬鹿だと言ったか」
「いや失敬。口が過ぎた。だが雷よ。そなたの考えは、酷い間違いだ」
「間違いとな」
「私は見返りなど、一言も申しておらぬ。村の税を軽くするのと、ふさを嫁に欲しいというのは、まったく別の話だ。私は昨年より国司の任を賜り、前任の者から仕事を受け継いだ。ところがこの前任の者がとんだ不埒者で、領地の実態などろくに調べもせず、手前勝手にでたらめな税の取り方をしておった。しかも過分に取ったものをくすねて己の懐に入れていたというから、話にならん。その悪行を暴いて蹴落としてやったのがかくいう私というわけだが……それはともかく、国司となった私は改めて領地を検分し、その土地に見合った年貢を取ることに決めた。この村を訪れたのもそのためだ。そして案の定、田畑の広さや人手の数に対して、あまりに税が重すぎるとわかった。今後この村の税を軽くすると言ったのは、そういう事だ」
「う、ううむ」
「検分を終え村長にその結果を伝えようとした矢先、ふさが茶を差し出しに来た。嫁入り話が出たのはその時だ」
「なぜ嫁にしようとした」
「これは愚な事。惚れたからに決まっておろう」
稲緒はどきりとした。なんと真っ直ぐな物言いをする奴であろう。
「私はふさに一目で惚れた。かような草深い地になんと可憐な、気立ての良い娘がおったものだと驚いた。言葉を交わしてますます惚れた。だからその場にて父親である村長に、ふさを嫁にしたいと申し入れたのだ。それを税の話と混同したのは、これ村長の勝手な勘違いであろうよ」
「畜生、あの脂ぎったじじいめ。話が違うではないか」
聞いてみれば早合点。村長も、その話を聞いた稲緒も、とんだ間違いをしたものだ。稲緒が頭を抱えるのと反対に、為成はそっくり返らんばかりに胸を張っている。
「いかがかな雷よ。誤解は解けたかな。これで私が不正な振る舞いをする者ではないとわかったであろう。ここに罪などない。故に罰もいらぬ。雷よ、そなたのあるべき天へ帰るがよかろう」
稲緒は呻いた。きりきりと歯を噛んだ。されど唇はまだ笑っていた。まだとっておきの切り札が、稲緒を奮い立たせる勇気が残っているのだった。
「馬鹿者、馬鹿者め。そういうところが罪なのだ」
「なに、まだ言うか」
「いまお前がしゃべったことは、全てお前の考えだ。お前の都合だ。お前はふさの気持ちを考えておらぬだろう。父親に承諾をさせたところで、ふさの気持ちを承諾させたわけではあるまい」
「それは、だな」
為成は唾を呑んだ。
「それはこれから確かめるところだ。あの娘は慎み深い故、その場ですぐにハイハイと返事はせなんだが、いじらしく面を染めてうつむくあの姿、よもや悪い返事はするまいよ」
「自惚れめ」
どこまでも自信のある為成に対し、稲緒は真剣に腹が立ってきた。
「いいか自惚れ、よっく聞け。我……えい、もう俺でいい。この俺は既に、ふさの心を知っているぞ」
「ふさの心を……? そなたが。何故に」
「ここでふさから聞いたのだ。昨夜のことだ。この木の根元で、二人きり肩を並べて、ふさの真の心を聞き出したのだ」
「二人きりで……! それで、それで、ふさは何と申しておったのだ」
「よォっく聞けい!」
とうとう狼狽えだした為成を前に、いまや稲緒は得意の絶頂。山震わすほどの蛮声で、言の大雷を叩きつけた。
「ふさはな、お前への嫁入りを望んでおらぬと、確かに言ったのだぞ!」
「そ、それは真か」
「真だ。お前にしろ、村長にしろ、己の都合ばかりでふさの嫁入りを決めてしまっているが、ふさはそんな事、ちっとも望んではおらぬのだ。しかしあの娘は優しい。優しいが故、お前や父に面と向かってそうとは言えず、雷である俺にだけ打ち明けたのだ」
男同士のぶつかりに、女の名を持ち出すのはちょいと卑怯な気もしたが、これが一番大事なことだから、稲緒は力いっぱい主張する。
なんと言ってもこれは真である。真は強い。心が揺るがない。心持ちとしてはついでに、「お前のことを大嫌いだと言っていた」とも付け加えたいのだが、それを言っては嘘になる。嘘になるなら言わぬことだ。その場しのぎの嘘をつくと、かえって心は弱くなるのだと、稲緒は昨日から痛いほど味わっている。
「あの娘が私を拒むだと……」
稲緒の真から発する言葉に、さしも自信家の為成でさえも、額に汗をにじませ苦悶の表情。
「雷よ。もう一度言え。ふさは間違いなく、私の嫁になりたくないと、確かにそう告げたというのか」
「う、うむ、うむ」
嫌な事を聞きやがる。嫁入りを望んではいないとは言ったが、嫁になりたくないとは言っていなかった。しかし結局同じ意味であろうと、稲緒は綱渡りする猿のように、慎重に考えながら頷いた。
「そうか。ふさは嫌なのか」
おやっと稲緒は目を丸くした。ふさが嫁入りを望んでおらぬと聞いて、為成の落ち込みようはどうやら本物のようである。
してみると、為成の惚れ方も本物ということではないか。単に色男の自信が崩れただけとは思われぬ。ふさを清く、美しいと真剣に考えているからこそ、その人に拒まれることが苦しいのではないか。
「それでも……」
為成は歯の隙間から呻いた。
「それでも、私はふさを諦めぬ」
「なに、これだけ言ってもまだ、お前は自分の欲を通すというのか」
「ふさが私を望まぬのは、私のことをよく知らぬからだ」
落ち込んでいた為成の目が、再びきりりと稲緒を貫いた。
「私とふさが出会ったのはまだ一度きり。ほんの少し挨拶を交わしただけだ。私の方はその一度で惚れたが、ふさはまだそうなっていない。雷よ、聞け。私は焦るつもりはない。ふさが自らの心で嫁入りを望むまで、私は幾度もこの村を訪れ、精一杯の真心を伝え続けよう。さすればいつか必ずや、我が恋は叶うはずだ」
為成の言葉にも嘘はない。真である。己の宣言を信じている。
その真っ直ぐな目が稲緒を困らせる。為成は本当にそうするのであろう。惚れた女がいるのなら、己が誠意を何度でも見せつけてやろうというその態度、それは男として決して悪いものではなく、むしろ匂い立つほど力強い青春である。
なれど、なれば程、稲緒は為成よりも強くあらねばならぬのであった。
「またしても自分勝手な事ばかり言いおって。望まぬ相手にしつこく付き纏われては、ふさがますます嫌な思いをするとは考えぬのか」
「初めは嫌われたとしても、いずれは心変わるであろう」
「いいや変わらん!」
「なんの変えて見せようぞ!」
樹上と馬上で睨み合い、瞳の火矢は飛び交えど、かくも議論は平行線。互いに一歩も引かぬという構えに膠着し、目を逸らすことも出来なんだ。
その奇妙な老人が割り込んできたのは、この時である。
「ほ、ほ。若人たちよ、熱くなっておるの」
大楠の後ろからぬっと顔を出したのは、なんとも風変わりな翁だった。頭のてっぺんはつるりと禿げ上がっているくせに、雪のような顎髭はふさふさと伸びて、簡素な衣の裾まで届いている。体が妙に傾いているのは、右足がないためらしい。右腕もない。左腕に杖を持ち、左足で立っているから、体全体が左に傾いている。
いつの間にこんな人物が近づいていたのか、稲緒は全く気が付いていなかった。急に脇を突かれたようで、ひやりと汗をかいたものだ。
「ダ、誰だ、お前は」
「この山に住んで居るジジイじゃよ。村の者たちから離れて暮らしておるがの」
そう言ってニタリと笑った翁の皺くちゃ顔からは、右の眼球が失われていた。当人は陽気にすましているつもりらしいが、稲緒と為成の両人は、しばし共に顔を見合わせあい、妙な奴が割り込んできやがったと声にならぬ会話をした。
「ほ、ほ、そう訝るでない、若人たちよ。山を下ってみれば、なにやら熱い物言いが聞こえてきて、ついここで盗み聞きをの。ほっほっほ。お熱いのは結構じゃが、このままでは埒が明かぬと見受けられる。そこでひとつ、年寄りから助言の一つでもくれてやろうかと、こうしてしゃしゃり出てきたわけじゃ」
ぺこりと禿頭下げて翁は笑うが、どうにも怪しい。稲緒は眉をひそめて、
「ジジイの出しゃばることではない。引っ込んでおれ!」
と突っぱねたが、憎々しいのは為成の態度。
「翁よ。そなたの助言とやら、どうかお聞かせ願いたい」
などと鷹揚なところを見せつける。
「ほー、ほー、さすがは若くして国司になられた篠田為成殿。器量が大きくてござる。いや年長の声を聴くものは成長いたしますぞ。ほっほっほ!」
「ええい、うるさい。言いたいことがあるならさっさと言わぬか」
翁まで調子に乗るものだから、稲緒も忌々しいながら、そう聞かざるをえなくなった。
「おうおう、雷殿もそう申してくださるか。ならばちょいとお耳を拝借じゃ。……ええ、オホン。一人の女子をめぐって、若い男が睨み合い。引けと引かぬと言い合って、埒が明かねばやること一つ。遥か太古の人の時代より、これはもう果し合いにて決着をつけるのが常道というものでごじゃる」
「果し合いだと」
稲緒と為成の声が揃った。稲緒はチラリと為成の剣を見た。
「左様、左様。為成殿と雷殿。互いに不正なし、待ったなしの真剣勝負をすることで、勝った方が己の意を通し、負けた方は潔く引き下がるのじゃ。つまりこの場合、為成殿が勝てば、娘を口説き落とすため幾度でも村を訪れてよかろう。雷殿はそれに文句を挟むことは許されぬ。しかし雷殿が勝てば為成殿は娘を諦め、嫁入り話を破談にする。そういう事でどうじゃ」
「おう、それは良い」
真っ先に応じたのはやはり為成であった。
「その条件であれば、たとえ私が勝ち、ふさに挑んだとて、嫁入りを受け入れるかどうかはあくまでふさの意思にかかっておるのだから、この勝負で我らがどう決めたところで、ふさの心をないがしろにするものではない。私はそう考えるが、雷はどうだ」
「お、おう」
急にいろいろ言われて稲緒はしばし上の空を眺めたが、よく考えてみると、そう悪い話ではなさそうである。
なにしろ稲緒には時がない。
天の定める気候によれば、明日の朝には雲が出て、父たちが西より現れ、雷を降らせる。その時になれば稲緒も空へ帰らねばならない。まだ空は晴れているが、雷の嗅覚で空を嗅げば、遠くかすかに湿った風を感じられる。
己が空へ帰った後、ふさはどうなるか。このまま決着をつけず稲緒だけがいなくなってしまっては、為成は間違いなくふさに挑むだろう。それはならぬ。避けねばならぬ。ふさを守り通すには、為成の自惚れをへし折り、諦めさせるより他ない。それを翁が提案し、為成も乗り気であれば、これは乗るしかなさそうだ。
「うむ、そうしよう。我も勝負で決めるのが良いと思う。しかし約束は守られるのであろうな。後になって反故にされたりしては意味がなかろう」
「この篠田を侮るか雷よ。私は男だ。決めたからには二言はない。そなたこそ、負けた後で駄々をこねたりはせぬだろうな。雷の泣き声はやかましいと聞くからな」
「なにをっ!」
またも熱くなりかけたところで、翁はほっほと笑う。
「よし、よし。よろし。それでは双方、それで構わぬな。ならばついでのこと、勝負の題目も儂に任せていただきたいのじゃが」
「言ってみろ。まさか、まさかとは思うが、真剣勝負といったところで、まさか本当に剣で勝負をするわけではあるまいな」
「ほほほ、心配めされるな雷殿。いかに命懸けの恋だとて、本当に命を奪い合う必要もあるまい。儂が提案したいのは早駆け。すなわち駆けっこじゃよ」
「走れと申すか」
「いかにも為成殿。この山の頂に、古い土塚がごじゃる。そこに儂の片割れ、兄弟のような者が待っております故、山を登り、先にその者の手に触れた方が、あっぱれ勝者となりまする。単純ながら明快で、こんなところでいかがじゃろうか」
「やる!」
「やろう」
今度の返事は、稲緒の方がちょいとだけ早かった。
雷神の祖である建御雷は剣の神でもあったが、大平天満な雲のこと、もう長く戦などなく、稲緒は剣など扱ったこともない。故に真剣で戦えなどと言われたらどうしようもないところだったが、ただ山を登るだけならば、まだ勝機はありそうに思えたのである。
「それでやろうではないか。おい為成、馬を降りろ。それに乗るのは卑怯だぞ」
「言われるまでもない」
為成はさっと馬から飛び降りると、腰の剣も邪魔だとばかり帯から抜いて、馬の鞍に預けた。
「ようし!」
稲緒も大壇上から飛び降りるが如く大楠の裂け目から飛び出して、為成の眼前にずしんと降り立った。比べてみるとやはり稲緒は体はでかい。ふさには指一本触れさせぬと鼻息荒く、まさし怒れる雷神の形相。それを下から見上げ、一指も揺るがぬ為成もまた肝が据わっている。
「ほーほー、よい火花が散っておるのお。さてさてそれでは始めとしようか。今から出れば日が暮れる前に山頂へたどり着けるであろう。夜っぴて降れば帰りは宵かの。それでは双方、用意はよいかな。勝っても負けても恨みはなしじゃぞ。それでは、始め!」
翁の合図に乗せられて、若人二人悍馬の如く。若き情熱燃やしに燃やして、未知なる山へ飛び出して行った。
さて飛び出したとは言ったものの、そこは山だ。生半に走って登りきるというわけにはいかぬ。初めのうちは村人の使う山道を登っておれば良かったが、山登りとは上へ登るばかりにあらず、時に下り、時にぐねぐねと右へ左へ折れ曲がり、しかも上へ行くほど人の通りも少なくなるためか、道そのものも夏草などが生い茂り、次第に怪しくなってくる。
――ええい、面倒だ。と山をろくに知らぬ稲緒は痺れを切らし、とにかく上を目指そうと、道を外れて藪の中に突っ込んでいったのが間違いだった。
「へへい、ぜへい、ちくしょう」
まだ昼にもならぬというのにはや疲労困憊、息は絶え絶え、喉の奥が焼けるように熱い。なにせ普段は空の上の雲暮らし。地べたを歩くことなど思いもよらぬ。だいいち素足である。蔓延る草や突き出た枝が足に絡み、血の滲んでいるところさえある。
高い所から見下ろしてばかりいた稲緒は、山を登るという行為がこんなに大変なものであるとは知らなんだ。
「ちくしょう、待て、待てぇ……」
荒い息の合間から恨めしの声をあげはするが、それを聞く相手は見当たらぬ。
為成はどこへ行ったのか。為成とて烏帽子委に袴といった山登りに適さぬ恰好で、国司なるものが山道に慣れているとも思えぬが、どこをどう進んでいるのやら、まったく姿が見当たらず、物音一つ聞こえやしない。
見えぬと不安が大きくなる。
よもや為成はとっくに稲緒を突き放し、遥か先へと行ってしまっているのではないか。
――ならばもうどんなに頑張っても、もう追いつけぬのではないか。
そもそも、今進んでいるこの方角は、本当に山の頂へと向かっているのだろうか。
そんな思いが稲緒の脇腹をきりきり突っついて、もうやめろ、もう倒れてしまえと訴えかけてくる。もうさっきから幾度となく、立ち止まって地面にべったり座り込んでしまいたくなっている。
しかし、足を止めようとするその際に、必ずふさの言葉が蘇った。
「望みません」
ふさは確かにそう言った。控えめながら、しかし確実に、為成に対して拒絶の意思を示したのだ。あの優しい娘がだ。稲緒にはその意思を託された自負がある。
もしも己が勝負に負け、為成がしつこく村に通い続けたら、ふさはその熱意をいつまでも撥ねつけられるだろうか。出来ないだろう。出来ずにいたからこそ、嫁入り話が進んでいたのだ。父親や周りの大人たちにまで強く勧められてしまったら、ふさは心では望まぬまま為成に嫁ぐことになってしまう。それだけは避けねばならぬ。止められるのは稲緒だけだ。
「ふさ。ふさ。待っていろ。俺が必ずお前を守ってやる」
未熟な体を押し上げるのは、若い情熱一つだけ。
道はいよいよ険しく、もはや未開の地も同然の荒れ野山。されど稲緒の思いに応えるが如く、一つの御印が現れた。
それは突き出た枝に引っかけた、一本の白糸であった。
何故このようなところに白糸が。それもまだ新しい。と、なれば考えるまでもなく為成のものだ。おそらく袖かどこかを引っかけて解れた糸を歯でちぎり、そのまま捨てていったものに違いない。
それを見た稲緒は頭にかっと血が上り、腹の痛みも薄れて消えた。
「ちくしょう、あいつ根性がありやがる!」
糸は稲緒が為成より遅れているということを示すと同時に、為成が同じ道を進んでいるということも示していた。
ならばまだ希望はある。
まったく姿も見えず居所も掴めぬ相手が、少なくとも己の歩む先に存在すると判別できたのは、真っ暗な夜道に灯火を得たような救いであった。
また幸いなことに、よくよく見ると、ところどころで枝葉が折られ、草の踏みつぶされた跡がある。為成が拓いた道である。それと気づいて後を辿るのは、今までよりいくらか気が楽であった。
ところが、稲緒は考える。
このままでは為成に勝てぬと、思い知る。後発のずるさで追いつくことは叶ったとしても、そこからどうやって先へ抜きんでて、為成に後塵を拝ませることが出来るものか、とんと見当がつかぬ。
なにか良い手を打たねばならぬ。
歩きながら考え続けるが、相も変わらず息は切れ切れ、喉はカラカラ、これではどうにも良い考えは浮かびそうにない。まったく、歩く、走るというのはまどろっこしいものだ。いつものように雲に乗ってさえいれば、こんな山など軽くひとっ飛びだというのに。
「おう、雲だ!」
突如稲緒は閃いた。疲れた顔にぱっと光を取り戻すと、頭を捻り、しきりに見当をつけながら、方角を変えて東の方へ歩き出した。
雲には戻れぬが、雲に乗っていたころの記憶はある。その記憶を頼りに歩んでいると、やがて遠くに、湿った匂いが感じられた。その匂いに勇気を得て足を速めると、ふいに木々が開けて、広い川が現れた。
「しめたっ。雲から見た通りだ」
岩と水の一本道は、下方はふもとの村へ、上は山の頂近くまで続いているはずだ。藪の中をさまようより、この川を辿って行った方が、いくらか確実ではないか。
「おし。おれはまだやれる」
驚くほど冷たい清水を口に含んで、喉の乾きも収まった。
稲緒はまた登り始める。
そろそろ真昼を越えた頃だろうか。風の湿りが濃くなっているのは、水際にいるためだけではあるまい。西の空から、父たちの乗る雲が迫ってきている。
雷の子が額に汗を流し、這いつくばるように山を登っているなど、父が知ったらどんな顔をするだろうか。
「親父。おれを怒るのは構わねえ。弟たちに馬鹿にされてもいい。でもおれは、どうしてもこの勝負に勝ちてぇんだ」
砂利を踏み、大岩をよじ登り、先へ、先へとにじり登る。やがてどうにも越えられない岩壁が現れ、回り道を余儀なくされたが、それは稲緒にとってむしろ幸運であった。再び木の間を縫って歩いていると、ふいに横合いから人の影が飛び出してきた。
「あっ!」
「おお!」
為成だった。どこをどう歩いていたか知らないが、とっくに先へ行っているとばかり思っていた為成に、こうも上手く追いつけようとは、稲緒にとっても驚きだった。
「……ふん」
為成は鼻を鳴らすと、言葉もなく、肩をいからせて先へ行きだした。稲緒も負けじと後を追うのだが、それにしても為成の変わりようはどうだ。衣のほうぼうに引っかき傷を拵え、靴は泥に汚れ、ぜえぜえと荒い息遣いを押し殺しているのが背中から伝わってくる。満身創痍の一歩手前というところまで来ておきながら、烏帽子だけはきちんと被ったままでいるのが滑稽でもあり、矜持のようでもあった。
「……根性がありやがる」
稲緒はさっきと同じことを言ったが、ちくしょう、とは言わなかった。
互いに悪態をつく余裕もなく、つかず離れずの二人連れは、やがて木々のまばらな、妙にさみしいところに出た。開けた空にまだ日は高く昇っているが、そろそろ暮れに向かって傾き始める気配があった。
「待て」
先を行く為成が急に足を止めた。稲緒は慌てて立ち止まりながら、為成が見ている先を後ろから覗き込んだ。
「犬じゃねえか」
「うむ。犬だ。それもかなりでかい……」
道の先には一匹の犬が寝そべっていた。それは実に馬鹿でかい犬だった。それこそ馬か鹿の仔のような大きさだった。茶色というよりは黒に近い色をしていた。
息をのんで立ち尽くす二人を前に、犬はのっそりと身を起こした。立ち上がった犬が真っ黒な顔を向けた時、二人はまたぎょっと身を固くした。
その犬には片目がなかった。左の目が潰れて、そのために皮膚が引っ張られ、顔全体が醜く歪んでいた。
「山犬!」
稲緒はふさの話を思い出した。かつて村を襲い、大楠の枝に目を潰された山犬とは、こいつのことではないか。それ以来村の近くでは山犬の姿を見なくなったというが、よもや山の奥に潜んでいたとは、まったくの想定外であった。
あの図体を見よ。あれは兎や狐を食い殺しながら育った体ではないか。残った右目の獰猛なことよ。あれは修羅の目だ。縄張りに踏み込んだ外敵への警告か、自分を追い払った人間への恨みか、はたまた単純に、腹が減っているのか。いずれにせよ判っていることはただ一つ。こいつはおれたちを食うつもりだ。長い舌をぬるりと垂らし、牙の合間から涎を垂らしている。
「ど、どうする、為成」
「狼狽えるな。ケダモノは、背中を向けると襲ってくるのだぞ」
そういう為成の声も乾いて引きつっていた。為成は山犬の隻眼をはっしと睨み返したまま、そろり、そろりと腕を伸ばし、地面から棒きれを拾い上げた。
「そんな棒っきれで追い払えるのか」
「何もないよりは良かろう。そなたこそ、雷で脅してやれば良いではないか」
「む、無茶をいうな」
二人が言い合っている間、山犬はじっと二人の様子を眺めていた。為成の棒なぞ恐るるに足らぬと、太々しい目を光らせていた。鋭い鼻先をひくひくと蠢かせ、何かの臭いを嗅ぎ取ると、いっそう忌々しそうに唸り声をあげた。
来る。
二人がそう直感した刹那、山犬はすでに駆けていた。
「来た!」
二人はとっさに左右に分かれた。
山犬は為成に向かった。
為成は足を止め、覚悟を決めると、飛び掛かる山犬の眉間目掛けて棒を振り下ろした。棒切れはめっきりと痛ましい音を立てて、地面にあたり砕けた。
「ぎゃっ」
為成が悲鳴をあげた。為成は山犬が横へ回り込んだのを見て、蹴り上げようとしたが、その足を噛まれた。山犬の牙は革の靴を貫き、為成はどうと倒れ込んだ。山犬はいったん靴を離して飛びのくと、倒れた為成に向かい、とどめの牙を剥いて再び飛び掛かった。
稲緒が木から飛び降りたのはその時だった。
「どりゃあっ!」
山犬が地を蹴り、その図体が宙に浮いた瞬間だった。稲緒の太い腕は山犬の首を抱き、落下の勢いで地面へ抑え込んだ。
死に物狂いの闘争となった。稲緒はそのまま山犬を抑え込み、出来る事ならば首の根をへし折ってやりたかったが、暴れ狂う山犬の膂力を前についに叶わず、とうとう後ろ足で胸を蹴飛ばされ、その拍子に腕の隙間からするりと逃げられてしまった。
稲緒の手から逃れた山犬はいったん距離を取り、姿勢を低くして、ぐるると唸っている。哀れ稲緒の奇襲は失敗し、なすすべもなく猛獣の餌食となりかけている。
「無念なり。こっちが本物の神罰であったか……」
為成は観念して目をつむった。しかし、稲緒は逆に目を見開き、はっしとばかり山犬を睨みつけた。
「馬鹿野郎。そんな弱腰でふさを守れるか。今はおじけた方が負けだ。見てろ!」
稲緒は力強く立ち上がると、為成を守るように両手を広げ、仁王立ちになった。
するとどうしたことか、あれほど兇暴な山犬が、それ以上襲ってくる様子もなく、徐々に頭を低くしはじめた。喉の奥からは不気味な唸り声をあげ続けているものの、鼻の頭は落ち着きなく、心臓の動きを示すかのように激しくひくついている。
稲緒がずいと一歩前へ出ると、山犬は弾かれたように頭を上げた。もう一歩踏み込むと、今度は尻が上がった。稲緒は思いっきり息を吸った。
「こらぁっ!」
山を震わすほどの大声で怒鳴ると、山犬はきゃんと吠えて立ち上がり、くるりと尻を向けるや否や、尻尾を巻いて一目散に逃げていった。
為成は倒れた格好のまま、山犬が走り去るのを呆然と見届けていた。
「これは一体、どうしたことだ?」
稲緒は低い声で答えた。
「あの山犬は、大楠の枝で目を潰されたからな」
成果を誇るでもなく、安堵の息をつくでもなく、稲緒本来のたくましい声だった。
「あいつは大楠が苦手なんだ。おれはその大楠で一晩眠った。おれやお前の鼻には匂わないが、あいつの鼻はおれの体に大楠の匂いを感じて、嫌がったんだ。最初に左右に分かれた時、丸腰のおれじゃなく、棒きれを持ったお前が先に襲われたから、多分そうじゃないかと思った」
「……待て」
稲緒が淡々と語るのを、為成は呆けたように黙って聞いていたが、突然陰気な声で口を挟んだ。
「……なぜだ」
「あん? だから大楠の匂いが……」
「そうではない。お前はなぜ、私を助けのかと聞いている。お前は大楠の匂いがついて山犬に襲われぬと、そう考えていたのなら、私を放って先へと行くことが出来たはずだ。何故危険を冒してまで、競争相手である私を助けたのだ」
稲緒は為成の言葉が途切れるのを待って、ゆっくりと口を開いた。
「ふさは、お前への嫁入りを望んでいないと確かに言った。だけど、ふさはお前のことを良い人だとも言っていた。だからさ。お前が山犬に食われて死ぬなんて、誰も望んじゃいない」
「雷……」
為成は何かを言いかけたが止めて、よろよろと立ち上がった。噛まれた靴からは血が滲み、額には脂汗がいっぱいに浮いていた。試しに一歩踏み出してみたが、鋭い激痛に顔をしかめた。
「しょうがねえな」
稲緒は為成の腕をとると、強引に肩を貸した。
「こんなところでボヤボヤしてたら、また山犬が戻ってくるかもしれねえぞ」
「お前、まだ私に同情するのか。私は競走を諦めたわけではないぞ」
「そんな事はわかってる。おれだって、てめえなんかに触りたくねえや。でも、ここでお前が死んだりしたら、それはそれでふさが悲しむだろうからよ。俺が大楠のおかげで助かったのは、たまたまだ。ここまで必死に登って来たのに、たまたまで決着をつけられてたまるかよ」
山頂までだ、と稲緒は告げた。山頂まではこうして肩を貸して連れていくが、いざ山頂に至り、翁の片割れとやらを見つけたら、そこから先は純粋に競走としよう。他に何の事情も考慮せず、とにかく勝った者が勝ち。
そういう事にしようと告げると、為成は黙って、稲緒に体重を預けた。
二人連れの歩みはのろく、疲労は限界に来ていた。しかし一人でいるよりは心細くはなかった。道は明るく開け、障害となる獣も現れなかった。
「為成。お前はなんで、ふさに惚れているんだ」
「……」
「こんな目にあってまで、ふさを嫁にしたいのか」
「したい。あの娘は清らかだ」
「……」
「私は今年で二十二だ。縁談話なら腐るほどあった。中には見目美しい女もいた。だが、私はそいつらの心がどうにも気に食わなかった。ふさは違う。あの娘は私に媚びなかった。それでいて親切だった。私はふさと出会うために今日まで独り身でいたのだと、それが天命であると感じた。雷よ、お前はどうだ」
「ああ、ふさは清らかだ」
「そうだが、そうではない。お前は本当に、私や村長を罰するために、天から降りてきたというのか」
「……」
「お前は村に悪心ありと言って神木を焼いたらしいが、あの神木を最も愛し、焼かれて悲しんだのは誰だ。ふさではないか。お前が一番ふさを困らせているのではないか」
「ちくしょう、その通りだ! おれは、おれは、本当は、雲から落っこちただけなんだ。雲の上から下界を覗いて、ふさの姿を見つけた。遠くからチラリと見ただけだが、お前と同じだ。いっぺんで好きになった。心の色というか、魂から匂う清らかさがあった。それに見惚れてボーっとしていて、気が付いたら大楠に落ちていた。悪心がどうのっていうのは、それを誤魔化すための後付けだ」
「そんなところだろうと思っていた」
「笑うか」
「笑わぬ。ふさならば仕方ない。私が雲にいても落ちたであろう。……私とお前は、よく似ているな。世が世なら兄弟であったかもしれぬ」
「気色悪い事をいうな。……でもな。初めはその場しのぎの嘘だったが、今はもう真実だ。ふさが嫁入りをしたくないと言った以上、おれは何が何でもそれを叶える。勝ちは譲らねえぞ」
「望むところ。最後の勝負は、堂々とつけよう」
のろいながら、二人は歩いた。南の空から吹き込む風が、次第に湿り濃くなっていく。その風に背中を押されて歩いた。
すっかり日が暮れて、そろそろ一番星が見えようとする頃、二人はようやく山頂らしき場所にたどり着いた。そこは妙に開けた草っぱらになっており、真ん中に小高い土塚のようなものが盛り上がっていた。
土塚の上に、一人の翁が胡坐をかいている。
「おおーい。こっちじゃあ」
翁は二人に気付くと、歳にあわぬ元気な声をあげて、手を振った。
「わしに触れた者が、勝者じゃぞぉ」
稲緒と為成は無言で目を交わし、肩を離した。
為成は傷ついた足で、二、三度、土を踏みしめた。痛いが、走れるようだった。稲緒は横目でそれを見て、それで十分だった。
「ほう、ほう。双方、それで決着の用意は済んだかな。合図が欲しいか? ならばわしが号令をかけてやろう。それでは良いかな、良いかな……始めっ!」
翁の号令で二人は同時に飛び出した。駆ける速さも同じだった。
半ばまで横並びだった。
「うっ」
為成が呻き、体を傾けた。
稲緒は止まらなかった。止まってはいけなかった。男と男の真剣勝負だ。怪我があることも承知の上で勝負に挑んだのだから、それを理由に情けをかけることは、為成への侮辱でしかないからだ。
稲緒は突っ走った。為成も一歩遅れながら、それを取り戻さんばかりの猛追を見せた。
翁はすぐそこだ。二人の苦痛を知ってか知らずか、髭面を歪ませてニタリ、ニタリとほくそ笑んでいる。
稲緒はついに土塚を登った。近づいてよく見ると、翁は大楠のところに現れた奴と瓜二つだった。ただ、あっちは右足、右腕、右目がなかったが、こっちにいる奴には、左足、左腕、そして左目がなかった。残った右腕を稲緒に差し出している。
稲緒は声にならない雄叫びを上げて、翁の手に、己の手を叩きつけた。
「見事!」
翁がニンマリと笑った途端、その身体がふわりと宙に浮いた。稲緒は慌てて手を引こうとしたが、翁の強い力でぐっと掴まれて、共に宙へ浮き始めた。
「おい、これはどうしたことだ!」
突然のことに驚き、もがいたが、翁は手を離さず、二人の体はぐんぐん空へと昇っていく。
「どうしたことだ」
後について来た為成も面食らい、立ちすくんでいた。稲緒が少しでも足を緩めていたら追いていたかもしれないほど、すぐ側にいた。手を伸ばせばまだ届きそうだ。
「その手を伸ばすのはやめなされ、篠田殿」
翁はなぜか為成の名を知っていて、鋭く警告した。
「空へ連れて行くのは先着の一人のみ。この雷殿だけじゃ。そなたはまだ時にあらず」
「てめえ、いったい何者だ!」
「片割れじゃよ」
「なに?」
「お前様に真っ二つに引き裂かれた、大楠の片割れじゃよ。雷殿」
「げっ、そ、それじゃあお前らは、神木の精」
考えてみれば当然である。神が宿る故に神木なのだから。
稲緒は今の今まで、そんな事なぞちっとも考えていなかった。
「お前様に裂かれたことで、大楠は半分死に、半分生き残った。わしは死ぬ方じゃ。死んで天へと至るついでに、お前様のことも一緒に連れて行ってやろうと思っての。ほ、ほ」
「て、てめえ! おれがいなくなったら、ふさはどうなる」
「その事ならすでに決着したであろう。お前様は勝負に勝った。それは為成殿も認めておる。為成殿は約束を守る男じゃと、お前様もよくわかっておろう。何も心配は要らぬ。それに何より、はじめっからふさの心は揺るがぬよ。ふさにはもう、心に決めた相手がおるのじゃから」
「えっ!」
「なに!」
翁の言葉に、稲緒と為成は雷に打たれたような声をあげた。
「ダ、ダ、誰だ。それは誰のことだ」
「わしじゃよ。山犬から我が身を守ってくれた、偉大なる大楠様にのう、ほ、ほ、ほ、あの娘は心底惚れ込んで、巫女となることを誓ったのじゃ」
「巫女!?」
どうりで清らかなわけだ。
稲緒は初めて、ことの絡繰りがわかった気がした。ふさは為成のことを良い人だと言っていたが、嫁入りは望まなかった。それはすでに巫女として、神に全てを捧げた身であったためだ。
ゆっくりと昇りながら、翁はなおも語る。
「為成殿より嫁入り話を持ち掛けられ、ふさは悩んだ。あの娘は優しいから、父が乗り気であることに突っぱねかねておった。どうにかならぬものかとわしに縋り、天に祈った挙句、落っこちてきたのがお前様じゃ」
「げっ。それじゃあ、俺を呼んだのはふさだったのか」
「神の冥利に尽きるのお。信ずるものに慕われ、頼られ、望みを叶えてやれるなど。胸を張るがよいぞ、雷の稲緒殿。お前様は確かに巫女を守り、神の務めを果たしたのじゃから」
「ふさ……ふさ……」
稲緒はもう抗う気力もなかった。
ふさを守ることができた。それは良いことだ。稲緒はそのために頑張ってきたのだから。
けれど胸に染み入るこの冷たいものは何だ。騙されていた。そう思えてならないのは何故だ。
「お前……最初から俺だけを連れて行くつもりだとしたら、ひょっとしてあの山犬はお前がけしかけたのか」
「ほっほっほ」
「ああ、やはりあいつはお前の眷属だったんだな。だとしたらもしや、山犬からふさを守ったというのも……」
為成に聞こえたのはそこまでだった。
稲緒は遠い空へと見えなくなり、声も聞こえなくなった。
星空にはいつの間にか雲が出て、小さな光がそこに吸い込まれるのが見えた。湿った風に吹かれるままに、為成は呆然と、空を眺めていることしか出来なかった。
為成は約束を守った。
山頂の土塚で夜を明かし、翌朝早くに下山した。不思議と足の痛みは感じられず、山犬に出くわすこともなかった。
村に着くと、ふさには会わず、村長にだけ会った。ふさの嫁入りを諦める事と、村の税なら心配はいらぬという事だけを告げて、すぐに立ち去った。
馬で城へ帰る途次、為成の鼻先に、ぽつんと雨粒が落ちた。空を見上げると西の空からどっと湧いてきた雲の群れから、バラバラと大粒の雨が降り注いだ。為成は雨を避けようともせず、ずぶ濡れになりながら、馬を歩かせ続けた。いっそ全てが洗い流されて清々しい気持ちだった。
やがてゴロゴロと雷鳴が轟いたかと思うと、立て続けにピカリ、ピカリと、あちこちに雷が落っこち始めた。あの雷を稲緒が鳴らしているのだと思うと、為成の鼻に熱いものが詰まった。
「雷よ。我らはちっとも、ふさの心をわかっていなかったのだな。清らかだと惚れて騒いでおきながら、あの娘の背後にちゃんと別の男がいたなどと、まるで考えてもいなかった。なんと間抜けな事か」
嘆く為成に降り注ぐ、雨、雨、雨。熱い目頭を冷ましてくれているようだ。
されど、為成の胸は、ますます熱く燃え盛るのであった。
「聞け、雷!」
雷鳴に負けぬほどその声は轟いた。
「私は強くなるぞ。此度はあの翁に負けたが、二度とこのような苦渋な舐めぬ。国司として、男として、私自身が成長し、次こそは必ず恋を掴んでみせようぞ」
――おう、やれ。やれ。
雷鳴に混じって、そんな声が聞こえた気がした。
――お前が恋を叶えて、子どもが出来たりしたら、この雷神が一度だけ力を貸してやる。命の危機に陥った時、天に向かって俺の名を呼べば、たとえ晴天であろうとも雷の加護が降り注ぐ。そのように子どもに伝えておけ。
「雷……いや、稲緒と言ったな。ありがとうよ」
その日の嵐は凄まじく、滝のような雨が降り、数え切れぬほどの雷が轟いたが、不思議と一本の木も焼くことはなかったという。
ごろごろぴしゃり。
でんでんぴしゃり。
かみなりの夏 狸汁ぺろり @tanukijiru
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