かみなりの夏
狸汁ぺろり
前章・雷落ちる
青天の霹靂という言葉の通り、まったく突然ごろごろぴしゃり。
ぽっかりと開けた夏空に見合わぬ、物凄い雷鳴であった。
人々も驚いたが、最も驚いたのは誰であろう。落っこちた雷自身だったのである。
「ええい畜生、なんたることだ」
山のふもとの森の中。ひと際大きな楠木が、真っ黒に焼けて爛れていた。
その楠木の裂け目からひょっこり顔を出したのは、まだうら若い、人の形をしたものだった。これが雷である。
名を、
背が高く、隆々と盛り上がった鼻と、獣のように大きな口は、時に鬼とも称される。
稲緒はその大きな口からぺっと唾を吐き捨てると、恐怖と困惑の混じった顔色で、辺りを見渡し始めた。
――空が遠い。とんでもなく高い所にある。周りは木ばかりだ。土の香りが濃い。
こんな景色は信じられない。稲緒は何度も目をこすった。
「なんてこった。年端もいかぬ稚児雷ならいざ知らず、雷神稲妻の長子であるこの稲緒ともあろう者が、己の不注意で雲から落っこちるなどなんたる醜態だ。えらい事だ。まずい事だ」
空にはぽつりと小さな雲一つ。さっきまで稲緒が乗っていた雲だ。雲は主を失い、早くも霧消としていくところだった。もう、あれに乗って空へ帰ることは叶わない。
「こんな事が親父に知られたら、とんだ大目玉を食らっちまう。まさしく雷を落とされるとはこの事だ。いや冗談じゃねえ。親父の怒声は雲を割り地に響き、千里先の海の水さえ揺らすというのだから、間近で怒鳴りつけられちまっては、ハテ、俺はどうなってしまうのだ。目を回してそのまま眠りから覚めぬかもしれん」
空を睨んでも他に雲はなく、無情な青空が広がるばかり。しかし雲があったとて何になろう。雷は神の一種だが、その神通力は雲の上にあってこそ。下界へ落ちた稲緒はいまや人と何の変りもなく、雲へ昇る手立てさえ見当たらぬ。
「……天の定めた気候によれば、この山に雨が降り、雷が轟くのは、あと二日も後のこと。二日経てば親父や弟たちの乗った雲が東からやって来て、このあたりに嵐をもたらす。その時になれば親父の神通力で、俺を雲の上まで引っ張り上げてくれるだろう。稚児雷が落っこちた時など、俺もそうして引っ張り上げたことがある。おおしかし、それまでにはあと二日もある。それまで何もせず、ただ漫然と、ボーっと過ごしていたのでは、雷の端くれとしてあまりに恥じゃあないか。親父には叱られる。弟たちには笑われる。落ちてしまったことはもう取り消せないが、せめて自力で天に昇り、少しは取り繕っておかねば、俺はもう雷としてやっていけんだろう。やれそれにしても、やっぱりどうにも、どうしたものか、どうしたものか」
稲緒はしきりに頭を捻り、うんうんと唸っていたが、やっぱりどうにもなりそうにない。
と、そこに村の方から一人の娘がやってきた。質素な衣を纏うているところは明らかに近在の村娘に違いないが、野にある人には珍しく、白い玉肌にかっきりと目鼻が冴えて、都に出しても小町で通る器量ぶり。薪拾いでもしていたのか、細い体に見合わぬ大きな籠を背負っている。
娘は大楠を見上げると、はっと瞳を張り、驚愕の声をあげた。
「まあ、大楠様が真っ黒に!」
絹裂くような悲痛な悲鳴であった。
「お、お、誰だ。誰だ」
驚いた稲緒が楠木の裂け目から顔を出すと、娘はまた、「あれえ」と大きな声をあげて、かわいそうにブルブルと震えあがった。無理もない。無惨な大楠と、その上に佇む稲緒の形相。さぞ恐ろしいことだろう。
ところが、どうしたことか。
樹上から娘を見下ろす稲緒まで肩を震わせ、鼻息を荒くしているではないか。その目はギラギラと熱っぽい光を放っていた。
「あの娘だ! おおあの娘が、俺のすぐ目の前にいる……」
さっきまで胸中を占めていた親父の怒り顔もどこへやら、稲緒の瞳はじぃっと娘に釘付けになり、頬は火照り、肌は粟立ち、心臓の音はそれこそ雷鳴のようにやかましく、じんじんと痺れるような感動に、息を吸うのもままならぬ有様だった。
「おお、おお、娘よ。娘」
稲緒としては精一杯、優しい声のつもりだった。
「そんなに怯えることはない。何も恐ろしいことはないのだ」
「あれ、なにをおっしゃいます。あなたは何者なのです。このように恐ろしいことが起きてしまって、怯えずにいられましょうか」
怯えていながら娘は気丈で、大きな瞳を真っ直ぐに稲緒へ向けて、強い抗議を示している。その瞳の美しさ。力強さ。怯えていなければもっと可愛かろうと、稲緒はますますへこへこし始める。
「いやいや娘よ。悪いことなど起きはせぬ。お前たち下界の人には関わりのないことだ。そう青ざめるでない。怯えるでない」
「いいえ、悪いことならすでに起きておりまする。なんと無残な、大楠様のこの御姿。私ども村人の大切な守り神が、あれこの通り、真っ二つに裂けてしまって……」
「なに、守り神とな。やっ! やっ! やっ!」
稲緒は楠の根元を見下ろし、さっきは気付かなかったものを見た。
楠木の根元には、人の手による太い注連縄が巻かれていた。その前の白木の台座には、御神酒と思わしき盃まで供えられていた。稲緒が仰天したのも無理はない。これは神木である。人々の信仰を集める神なる木である。
雷の子とて神の端くれ。下界の人々にとって信仰というものがいかに重大なものか、よく知っている。ましてそれを損なう罰当たりなど、もっての他である。稲緒の顔に玉のような汗が噴き出した。
「やれなんとまあ、なんとまあ……。これは神木だったのか。お前たちはこの木を崇め、奉っておったのか」
「はい。この山と村の古くからの守り神、大楠様にござります。この木を崇め、祝い祀ることが私どもの務めであり、幸せでありましたのに……。その大楠様がこのような御姿になってしまい、ああ、恐ろしいことです。私の胸はもう、もう……張り裂けてしまいそうです」
誇張でない証に娘の瞳からは、つーっと大粒の涙。
稲緒は何と慰めたものかわからず、ただオロオロと慌てるばかり。
「いや悪かった。悪かった。何も悪気はなかったのだ。俺はただお前の……そのう、あのう。とにかくお前を悲しませるつもりはなかったのだ。嘆くでない。泣くでない。あっ。あの声は何だ。また誰か来やぁがる……」
「おうい、こっちだ! 雷が落っこちたのはこっちだぞぉ」
やってきたのは大勢の人々であった。稲緒と娘がオロオロしている間に、山から、村から、ぞろぞろと、大勢の人々が集まってきて、大楠を取り囲み始めた。彼らもまた、焼けた大楠と、樹上の稲緒に驚き、興奮の声をあげた。
「なんと、これは一大事!」
「誰の仕業じゃっ。あの、木の上におる小僧は誰じゃ」
「大楠様を足蹴にするなど不遜な奴め。さてはあやつが不幸を招いたか」
「袋叩きじゃ。袋叩きじゃ!」
信仰の力は恐ろしく、大楠に集った村人一同、老若男女の区別もなく、寄ってたかって稲緒をやっつけようと、恐ろしい声をあげている。山仕事から駆け付けた連中であろう、鎌を持っている奴がいる。鉈を持った奴もいる。丸太を抱える力の強そうな奴らいる。
まったく稲緒には災難続きで、顔色も赤くなったり、青くなったりと忙しい。今また血の気がさぁーっと引いて、頭の中では相変わらず、どうしたものか、どうしたものか、とそればかり。
しかしいよいよ、どうにかせねばならぬ時がきた。
今にも屈強な若者が一人二人、鬼の如き形相でこちらに向かってきそうだった。たかが人間と言えど、地に落ちて神通力なき稲緒にはとても太刀打ちできそうもなく、このままでは哀れ、神の端くれたる雷の子が、人の手によって討たれ潰えることとなってしまう。
稲緒は肚を決めた。
「あいや待たれい、人々よ!」
突如稲緒は立ち上がり、高い大楠の樹上から、群がる人々をはっしとばかり睨みつけた。親父の稲妻には遥か及ばずとも、それは大した蛮声であった。あまりの威厳に、怒れる群衆も思わず縮み上がったほどだった。
「俺は……いや我は、天に轟く雷神稲妻が長子、稲緒と申す者である。天からの御使いである! 者ども頭が高い。ひれ伏せ、ひれ伏せーえい!」
「げつ、げっ、あなた様は天の使者。はは、ははーっ」
稲緒は必死である。必死であるが強者を気取らねばならぬ。その命がけの強がりが功を奏したか、信心深い人々は二歩も三歩も引き下がり、得物持つ者はそれを捨て、草土の上に額をつけてひれ伏した。人々がバタバタと頭を下げる様は、上から見ると一種の偉観であった。
ところがここにただ一人、人より遅れて頭を下げた者がいた。稲緒の言葉を疑うのは誰であろう、他でもないあの可憐な娘である。なにしろ稲緒の態度がさっきまでとずいぶん違うのだ。娘は濡れた瞳に戸惑いを滲ませて、それでも一応、他の連中に合わせて頭を下げたのだが、あの娘の腹には、いったいどのような考えが渦巻いているのであろう。
(しまった。しまった。あの娘に余計なことをしゃべったか。ええい、しかしもう後には引けん。このまま押し通すしかあるまい)
稲緒は娘の態度に内心ハラハラしていたが、今更後には退けまいと臍に力を込めて、再び胴間声を張り上げる。
「よいか、我は雷。かの大いなる神、
「いいえ、とんでもありませぬ」
村人の一人が面も上げず、怯えきった甲高い声で返事をした。ぶくぶくと豊かに肥え太り、他の者より少しだけ高貴な身なりをしているのは、きっとこの村の長なのであろう。
「私ども一同、決して決してそのような、不遜な考えを抱いてなどおりませぬ。ただあまりの事に驚き、我を忘れ、貴方様が何者であるかなどと考えも及ばなかったのでございます。心よりお詫びいたします故、どうか私どもの非礼をお許しくださいませ」
「うーむ、その方。村の長であろうな。下を向いたままモソモソ喋られては聞き取りづらい。お前だけ面をあげよ。我はもう怒っておらぬ」
「ハッ! ありがたきお言葉にござりまする。それでは粗末な面ですが、あげさせていただきます」
そろそろと村長が面を上げれば、粗末とまではいかずとも、脂ぎった中年の顔が、恐れと媚びに歪んでいた。
「恐れながら雷様。一つお聞かせ願いとうことがござります」
「はて何ぞや。言うてみよ」
「雷様は何故、我らの神木である大楠様を焼かれたのですか」
「ううむ。その事か。ううむ。うむ」
雷様はちょっと考えると、また精一杯胸を張り、必死に答えを捻りだした。
「控え、鎮まれ、とくと聞け。我がこの大楠を焼いたのは、お前たちに罰を下すためである」
「なんと、我らに罰ですと」
村長のみならずその場にいた一同、そんな馬鹿なという声が、ざわざわと風のように広がった。
「雷様。何故に我らが罰せられねばならぬのです。我らは大楠様を祀り、天津神を敬い、日々の務めをいっぱいに果たしておりまする。いったい何の罪を犯したと仰せられるのですか」
「何の罪だと。何の罪を犯したのかだと。我にそれを申せというのか。なんの、それには及ばぬ事。それはお前たちがやった事だ。お前たち自身がよく知っておるはずの事であろう。我が申すまでもない。お前たちの心当たりを言うてみよ」
「ハテ、何ぞや。私めには何も心当たりなどござりませぬが……。雷様、大変申し訳ありませぬが、しばしこの場に集う者どもと、罰を下されるような罪について、話し合いをさせていただいては構いませぬか」
「おう好きにしろ。好きにせよ。とくと話し合え。そして見つけるのだ。神木を焼かれるほどの大きな罪を、誰かしでかしているに決まっているのだ。そうでないと我が困るのだ」
「ハテ、困るとはいったい……」
「いや、いや、何でもない。とにかく話せ。話し合え。全員、面を上げてもよいぞ」
「ははーっ」
さあさあ一同騒然としたものだ。村人たちが雁首揃えて、罪とやら、罰とやらについて話し合うのだが、もとより善良な人々のこと、大した話は出やしない。
「おい誰か、近頃なにか悪いことをしでかしたか」
「おい九平。お前このあいだ俺にぶつかって、食いかけの餅を落っことしさせたじゃねえか。あれじゃないだろうな」
「馬鹿を言うな。あれのことならお前、あの後饅頭をおごって埋め合わせをしたじゃあねえか。そういう手前こそどうだ。このあいだ山仕事の間、しばらくどっかに消えていなくなってやがったが、あの時お峰も一緒に村から見えなくなっていたというぜ」
「まっ、あんたそれは本当かい。あたしという女房がありながら……。えいっ、悔しい。こうしてくれるわ」
「わっ、た、た、引っ掻くない。そりゃ誤解だ。間違いだ」
「ありゃ悔しいったらありゃしない。悔しいったらありゃしない」
何が何やらゴロゴロと、違う雷が湧いてはいるが、そんなことで神罰を下していては雷の沽券に関わる。もう少しマシな罰はないものかと、首をかしげる稲緒の耳に、何やら聞き捨てならぬやり取りが聞こえてきた。
「女房といやあ、村長、おふさももうすぐ嫁入りじゃったな」
「えっ、あ、そうじゃ。ふさも間もなく嫁入りじゃ。そういえばふさはどこじゃ。おお、そこにおったか。ふさ、ここへ参れ。父のそばへ寄っておれ」
と、村長に手招かれて寄ってきたのは、なんと他ならぬ、稲緒が関心を寄せるあの娘ではないか。そうするとあの娘はふさという名らしいが、それが嫁入りするとは聞き捨てならぬ。
「ちょっと待て。あ、いやしかと待て。村長よ。今、その娘が嫁に行くと申したか」
「はあ、はあ。仰せの通りでござります。これは私の一人娘のふさと申しまして、父に似ず大変できた子なのですが、近々この夏の間にも、他所へお嫁に行くことになっております」
「なんだってえ!」
たまげる稲緒の瞳はくらくらと、眩暈を起こしたように回っている。赤くなったり青くなったりの顔色が、今度は首元から耳の先まで真っ赤に染まって、ふさの姿もまともに見えぬ有様だった。
――あの娘が嫁に行くのか。嫁というのはつまり、そのう……誰か他の男のものになるということだ。誰か他の男が、あのふさの手に触れ、身近で匂いを嗅ぎ、頬など寄せ合って、お、お、なんてことだ。口など吸ったりするのだろう。ふさが。あのふさが。おお嫌だ嫌だ。
「ならぬ! ならぬ事だ!」
真っ赤に轟く稲緒の声に、村人はおろか、風の音さえ、ざっと控えて黙り込む。
「そのような事は、許されぬ!」
「あれ雷様、何をそのように憤られます。これは何も悪い事ではござりませぬ。娘もそろそろ嫁入りを考えて良い歳です。それにお相手の方はこのあたり一帯をお治めになる若き国司、篠田
「なに、国司だと。どうせロクな奴ではないのだろう」
「なんの、なんの。為成様はじつにご立派な方にござります。まだ国司の任に就いたばかりでございますが知恵の優れる事、情に厚き事など、齢重ねた家老たちより頼もしいとの評判で……。それにふさを娶った暁には、この村の年貢なども以前より軽く改めるおつもりらしく……」
「おう、それだ!」
ついに鬼の首を取ったぞと、稲緒の目に力が宿った。
「お前はその為成とやらに年貢を軽くしてもらう心づもりで、娘を嫁にと差し出したのであろう」
「い、いいえ、いいえ、そのような事は。決して決してござりません。嫁入りの話は為成様の方から申された事で……」
「しかしお前は話に乗ったのだろう。それだ、それだ。我が最初っから言いたかったのは、それが罪なのだ。よいか、すぐにその嫁入り話を破談にしなければ、この村になお、恐ろしい災厄が下るかもしれぬぞ」
「な、なんと、それはあまりにご無体な! 貴い方から持ち掛けられた縁談を、我らの方で断るわけにはいきませぬ」
「貴い人だと。人の分際で、貴い人だとな。お前はそいつの言うことなら断れず、そのくせ我の、いや神の言うことならば、断われると申すのか」
「いいえ滅相もござりませぬ」
「ならば我に従え。その話を確かに破談にしたと聞かされるまで、我はここを離れぬからな。さあ今すぐその為成とやらへ使いを出せ。さあさあ話はもう終わりだ。行け、行け、散れ、散れ、すぐに去れ」
「は、は、はははーっ」
と、言う話になった。
怒り狂う雷様の権幕に、哀れな村人たちはすごすご引き下がることとなった。
渦中にあるはずのふさは、己を渦巻く突然の事態に対し、何の言葉も抗議もなく、ただ黙って父について行った。稲緒はそんなふさの態度に半ば感謝し、また一方では恐れつつ、去っていく背中を未練たらしく見送るばかりであった。
夜になった。
空には星が煌めけど稲緒の胸の内は晴れやらず、かえって黒雲の垂れこめる思いであった。
「ああ、どうやら俺はやりすぎた。いかに己が身を守るためとはいえ、天の御使いなどと勝手に謳い、神木を焼いた罪をごまかしたばかりか、ふさへの一方的な想いのために人間たちへ無茶な望みを押し付けてしまった。これでは罪の上塗り、恥も上塗り、やれ今更の事ながら、俺は己の軽率が恨めしくてかなわぬ」
稲緒は未だ、例の大楠の裂け目に居座っていた。神木に対して無礼の上塗りであることは承知の上だが、そこより他に留まる所も、行く当てもなく、なにより、夏といえども夜の風はうっすらと肌寒く、稲緒は大楠に挟まって風を凌ぐより夜の過ごし方を知らぬのである。
そうして夜風に怯え、ぶるぶると身を縮こまらせてばかりいると、物を考えることも、次第次第に悪い方へ、冷たい方へと転げ落ちていくのであった。
「いいや、いいや、今は俺のことなどどうでも良い。それより嘆くべきはふさの事だ。ひょっとするとこの俺は、ふさに対して、とんだ迷惑をしでかしてしまったのかもしれぬ。もしふさめが嫌々ではなく、本心からその為成とやらへ嫁ぎたいと願っていたのなら、アア俺のしたことはまったく下劣な横恋慕、下心に過ぎぬことではあるまいか。親父に叱られることも怖いが、あの娘に迷惑をかけ、これ以上嫌われてしまっては、俺はもう悲しゅうて悲しゅうて……空へ帰るより、いっそ地の底へ落ちてしまいたいものだ」
稲緒はしきりに嘆いて見せるが、腹立たしいことにさっきから、ぐうぐう、ぐうぐう、腹の虫が無粋な音をあげてたまらぬ。夜風の事、親父の事、ふさの事、色々な悩みがある中でこの腹の虫こそが、今の稲緒には一番の問題であった。
「畜生め。こうなるのだったら村の連中に、何か持ってこいと命じておけば良かったものを。余計な口を利いて怪しまれてはならぬと、さっさと追い返してしまったのが拙かった。腹が減っては知恵も回らん」
空にいた頃は、食物を司る天女たちが雲を渡り、桃だの栗だの諸々の食い物を配りまわっていたから、稲緒たち務めのある神々はただそれを待ってさえいれば良かった。しかしながら天女は地へは降りては来れず、また仮に降りて来られたところで、今の稲緒の有様では会うに会われぬ。
「こうなりゃ今は耐えるのみだ。飯に関しては、明日の朝連中が来てから頼めばよい。それからふさの事は、ふさの心を知らねばどうにもならん。俺が考えるべきはその事だ。空へ帰る事や親父に叱られぬ事より、俺自身が撒いてしまった問題を、きちんと片づけることが肝要だ。……やれそれにしても腹が減った。喉も乾いた。明日の朝まで、ただ待つのみの身は辛いものだ」
重ね重ねも不幸重ね、半分は己が撒いた種とはいえ、稲緒の嘆きは留まるところを知らず、このままでは一晩中でもそうしているように思われた。
ところがようやく稲緒にも、幸運の兆しらしきものが訪れた。
村の方角からチラチラと、提灯かかげて歩く人がある。こっちへ来る。一人で来る。ハテ誰であろう。稲緒は楠の裂け目に身を隠し、そっと覗いて相手を見た。空に星はあっても月のない夜で、まだ灯りの他に姿は見えぬ。おう近づいてくる。寄ってくる。灯りの下に着物が見える。あれは人間の娘が着る寝間着のようだ。やっ。やっ。やっ。
「雷様。このような身形で申し訳ございません」
「おお、おお、そなたはふさではないか。よく来てくれた。よく来てくれた」
提灯かかげ楠の根元に立ったのは、稲雄が腹の底から待ち焦がれた、ふさその人ではないか。昼に白日の下で見た時と違い、暗闇の中、提灯の赤に染められたふさの寝間着姿よ。稲緒は一時悩みも憂いも消し飛んで、たまらずゴクリと唾を呑んだ。
「本当はもっと早く参りたかったのですが、村の人たちに姿を見られるのが気恥ずかしく、ついこのような刻になってしまいました。雷様、これを。粗末なものしか用意が出来ず恐縮ですが、心ばかりの食べ物を持参いたしました。どうぞお受け取りくださいませ」
「や、や、これは握り飯。おおその竹筒は水なのか。気が利くのう。嬉しい。俺は嬉しいぞ。ほ、ほ、ほ、とう!」
ふさの姿と飯を見て元気百倍、夏の夜風もなんのその、活力満ちた稲緒の体は楠から飛んで、ふさの眼前へどっしりと舞い降りた。
「まあ、雷様!」
地に降りて立ってみれば、雲の上で伸び伸びと育った稲緒の体は、並みの人間よりも一回りほど頭が高い。神の端くれなだけあって衣も立派なもので、髪は長く毛先が少しばかり縮れているのもふさにとっては物珍しい。そんな大男が熱の籠った目で己を見てくるのだから、ふさの方でも思わず目を逸らし、羽根をもがれた小鳥のようにブルブル震えるのも無理はない。
「おう、驚かしてすまぬ。ふさ、怖がることはない。早うそれを……」
と稲緒が手を伸ばした拍子にまたギュルギュルと、ひと際盛大なる腹の虫。これでは威厳もへったくれもない。稲緒は苦い笑みを浮かべながら、出来るだけ優しくふさの手から握り飯をつかみ取り、たまらずむしゃむしゃとやりだした。
その食いっぷりや、無垢な童の如く豪快なり。
初めは怯えていたふさの目も、夢中で飯をほおばる稲緒を見ているうちに、段々と落ち着きを取り戻し、やがて優しい姉のように温かいものへと変わっていった。雷も人も変わりない。ただの若い男と女がそこにはあった。
「やあ、食った。食った。落ち着いた。この礼は決して忘れぬ。――有難う、ふさ」
稲緒としては神妙に頭を下げたは良いが、さても憎らしいのは腹の虫。
きゅうきゅう。きゅうきゅう。
すきっ腹にいくらか飯が入ったせいか、かえって元気に鳴く始末。
すると、ふさは何やらもじもじしながら、いとも不思議な事を聞いてきた。
「あのう。雷様は、やはり人間のおへそを頂くのでしょうか」
「なに、へそを」
「はい。雷様は人のへそを取られるのだと、小さなころより教えられておりました。雷が鳴ったらへそを隠せと……。それで、もし、今の握り飯で雷様が満足されないのであれば、どうか、……ハァ、大変お恥ずかしいのですが、わたくしの、わたくしのおへそで良かったら……」
と、言いながら震える指で、寝間着の紐を解きだしたからたまらない。衣の裾が夜風に吹かれて、ひらひら、ちらちら。稲緒には目の毒だ。
「わあっ! わあっ! いらぬ。いらぬ! へ、へーくしっ!」
初心な稲緒はもう何度目か、またまた顔を真っ赤に染めて、ついでにくしゃみを一発引っかけた。
「雷様。わたくしのおへそでは不足でしょうか」
「いやいや、そうではない。俺に限らず、雷は人のへそなど取りはせぬ。お前が教えられたのは人間が勝手に作り出した迷信だ。もうよいから服を直せ。さ、さ」
「はあ、それでは……」
稲緒は竹筒の水を飲み干して、ふさが服を直すのを待った。いっそ頭から水をかぶってしまいたいくらい、己が顔の熱くなっているのが情けなかった。ふさの方が存外けろりと平静なのがいっそう惨めな思いにさせた。
「はしたない真似をいたしました」
「いや、いい。いい……。良い事だ。ところで、村長はどうしておる」
「父は、村の主だった人たちを集めてまだ話し合っています。わたくしは寝るふりをしてこっそり抜け出してきたのですが、みな頭を抱えて、夢中で話し込んでいました」
「どういう風になりそうなのだ。俺が話した通りに、みな従ってくれそうだったのか」
「はあ、それがどうにも決めかねているようです。しかし、為成様の御屋敷へはすでに報せの者を出しております故、そのお返事を待ってからだと申しております」
「待つのか」
「はい。待たねば何も出来ぬと申しております」
「待つのか……。待つのは辛い」
その時ゆるりと夜風が吹いて、稲緒の鼻がまたぞろムズムズし始めた。
「おう、夏だというのに今宵は冷える。ふさ、これに来い。この楠を風除けにしようぞ」
「まあ、大楠様を風除けに……」
「なに構わん。人を守るのが神木ならば、そなたを守れて楠も本望であろう」
「はあ、それでは……。大楠様。お膝をお借りします」
戸惑いながら、ふさは大楠の根の下に、稲緒と並んでちょこんと座り込んだ。
座ったふさはその白い手で、地より突き出た固い楠の根を、優しく労わるように撫でている。
「お前はよほど、この木を大事にしているのだな」
「ええ。大楠様は、私どもの村が出来るより昔から、このあたりの守り神でございました。山へ入る大楠様を拝みますと、様々な危険から身を守り、無事に家まで帰してくださるのです」
「ほほう。ならば山の主のようなものか」
稲緒は素直に頷いたが、それにしても気にかかるのは、楠の根を撫でるふさの手つき、指つき。まるで赤子か老人の背中をさするように、信仰を越えた親愛の情を宿しているように思えてならぬ。またその頬よ。親に抱かれる幼子のように、ほんのり朱に染まっているのは、ハテ提灯の火のためだろうか。
「半年ほど前、このあたりには大きな山犬が住んでおりました」
稲緒が何も聞かぬうちに、ふさはゆったりと語りだした。
「それはそれはとても大きな山犬で、山奥は無論、ふもとの村までにもしばしば姿を現して、人であろうと馬であろうと、襲って噛みつくのです。村の猟師たちが鉄砲を担いで討ちに参りましたが、わずかな手傷も負わせられなかったばかりか、逆に猟犬をかみ殺される始末でした。実を申しますと、私も危うく襲われるところでした」
「なんと」
「大楠様へお供えを届けに参ったところでした。突然、そこのやぶの中から山犬が躍り出て、後ろから私を押し倒したのです」
「あや、あや、それで無事だったのか」
「ええ、無事に済みました。私が悲鳴を上げた途端、大楠様の枝が一本ぽっきりと折れて垂れ下がり、山犬の目を突いたのです」
「目を」
「山犬は片目を潰されて山に逃げ、それ以来、二度とこのあたりへ姿を見せなくなりました。私どもが大楠様を特別にお慕いするのは、そのような事情があるためなのです」
そう言って、ふさはにっこりと笑った。これまでで一番美しい笑顔だった。
されど、稲緒はその笑みを、浮かれて見惚れることはできなかった。かえって、その照りつけんばかりの眩しさに、己の暗い影を暴かれる想いであった。
「それは。……それは悪いことをしたな」
稲緒は目をつむり、首を垂れた。
「お前たちがそんなにも大事にしている大楠を、こんな姿にしてしまって……。本当に、済まぬことをした。俺は悪い奴だ」
「あれ、雷様。そのように肩を落とさないでくださいまし。大楠様も大楠様ですが、雷様もまた、私どものために、天より降りてくださったのでしょう」
「おう、それがまた……胸に痛いのだ」
嘘だからである。天の御使いなど、その場しのぎの嘘八百に過ぎないためである。隣に座るふさの清らかな信心に比べ、嘘ばかりつく己のなんと惨めなことか。
しかも、今更それを嘘だと明かす勇気も持てなんだ。おおそれさえ、そのほんの少しの勇気さえ、今の稲緒にあれば良いものを。稲緒はそうと知っていながら、今はただ胸の痛みのために、押しあがる涙を押し殺すのにいっぱいで、次の言葉を発することさえままならなかった。
その有様をどう解釈したのか、ふさがまたぽつりと呟いた。
「父は迷っております」
稲緒は耳だけそっちに向いた。
「父や、村の人たちは、雷様のお告げに逆らうつもりはありません。けれど、為成様とのお約束もまた、こちらから勝手には破りがたいことなのです」
「為成――おう、その為成だ」
稲緒の哀しみがぴたりと止んだ。少なくともここに一人、己より諫めねばならぬ奴がいる。
「その為成という奴は、そんなに恐ろしい奴なのか。たかだか同じ人間ではないか。そいつの言うことに逆らうと、お前たちに悪いことが起きるというのか」
「いいえ、為成様は決してそのようなお方ではございません。以前の御殿様はたいそう怖いお方でしたが、為成様はとてもお優しく頼りになるお方です」
おやっ。稲緒は妙なものを感じた。ふさの言葉の態度には、大楠と同じまでとはいかずとも、為成に対してはっきりと親愛の情を抱いているではないか。
よもやふさは、本心から為成に惚れているのだろうか。それは稲緒にとって痛恨である。
心のうちに広がる真っ黒な闇と戦いながら、稲緒は問うた。
「お前はどうなのだ」
「私、ですか」
「お前は、そいつの嫁になることを、心から望んでいるのか」
どれだけ心苦しかろうと、ふさを咎める声になってはならぬ。稲緒は懸命にそう務めた。
ふさはなかなか返事をしなかったが、稲緒は辛抱強く待った。ずいぶん待って、ようやくふさが口を開いた。
「……よく、わかりません」
「わからない……? 自分の事だろう」
「どうするのが正しいのか、わからないのです」
「正しいかどうかなど、今は関係ない。俺や村長の意思ではなく。お前の感情の話だ。お前が為成の嫁になりたいと願うか、願わぬのか、それだけを言えばよいのだ。俺は咎めぬ。誰も……誰にも文句は言わせぬ」
もし、ふさが嫁入りを望んでいたとしたら。その時は潔く、何もかも翻してしまおう。稲緒は固く心に誓った。天にも誓った。
「どうか正直に答えてくれ。お前がどういう答えをしようと、俺はそれを受け入れる。必ずやお前の味方をすると約束しよう」
「まあ、雷様が、私の味方になってくださるのですか」
「二言はない。お前は良い娘だ。誰からも守られねばならぬ。さあ、お前の心を告げてくれ。為成の嫁を望むのか。望まぬのか」
一瞬、二瞬と間をおいて、しかしこれまでの沈黙と比べれば存外早く、ふさは宿命の矢を放った。
「望みません」
その矢はぐさりと、稲緒の心臓を貫いた。
「よしっ!」
稲緒の胸に万雷轟き、熱い血潮がむくむくと湧きあがった。
こうなれば、もうどうなってでも、この娘を守らねばならぬ。たとえ発端が己の出まかせであっても、今やはっきりと、ふさが望まぬ結婚を強いられていると決まったのだ。そんな不当からふさを救えるのならば、神の端くれとして、また一人の男として、何が何でも救ってやらねばならぬ。
腹が決まると、稲緒はふさを村へ帰した。もっと傍にいたかったのはやまやまだが、あまり遅くなってはふさが困るだろうと慮った。
決戦は明日。為成の返事が戻って来てからだ。そう心に決めて、稲緒は大楠の裂け目に登って寝た。不思議な事に、ふさが訪ねてくる前よりも肌寒さは感じず、空腹も落ち着いていた。
そして翌日。
稲緒は馬の足音で目を覚ました。それが決戦の合図だったのである。
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