終章
終章
「でも、やっぱり、理事長。」
剣持は、今度はきっぱりといった。
「僕はやっぱり社会勉強をして、出直してきます。ですから、一度解任していただけないでしょうか?」
「そうですね。」
ジョチも、剣持の勉強をしようという熱意に負けて、考え込んでしまった。
「どうしてそんなに、今回のことを悔やむのですか?単に、ミスをしただけのことですよ。」
「ええ、だからこそ、責任を感じるんです。僕の犯したミスにより、水穂さんどころか、由紀子さんまで傷つけてしまいました。介護される本人を傷つけてしまうのは、もちろんいけないですし、その回りにいる人まで傷つけたわけですから、僕は引き下がるべきなのではないでしょうか。」
「そうですか。しかしですね、優秀な介護人を失うという、こちらの損害を考えてください。唯でさえ、人が足りずに閉口している介護現場で、あなたのような、優秀な人材を失ったら、余計にこちらは、人手不足で、良心的な介護を提供することもできなくなります。一人でも、人材を失うことは、避けたいのですが。」
ジョチがこう言って説得すると、剣持は、少し黙った。多分、揺れているのだろう。それほど、剣持さんにとっても、今回のことは、大きかったらしい。
「ええ、確かにそうかも知れませんが、僕はやっぱり、自分のしたミスにたいしては、ちゃんと、決着をつけてからやり直そうと思っているのです。なんだか、中途半端な片付け方では、人間の命を預かる以上、いけないような気がしてならないんです。」
剣持は、そういうことを言うのであるが
、ジョチさんは、にこやかにいった。
「なら、それならばそれで結構なことです。しかしですね、もう介護現場では、人手不足で喘いでいる状態ですから、あなたを解任するということはできません。やり直すというのであれば、その間違いを頭に留めたまま、仕事に励んでください。」
「しかし理事長、そんな中途半端なやり方では、水穂さんにも申し訳がたちません。」
剣持は、もう一度反論するが、
「いいえ、その間違いを覚えていられるからこそ、あなたは優秀な看護人となれるのではないかと、思いますけどね。もし、間違いを忘れてしまったら、どんどんおごり高ぶって、悪徳な看護人となってしまうかもしれない。看護する上で大事なことは、相手より上にたってはならないことですから。いまのミスを覚えていれば、確実にそれは守れます。」
さすがは理事長と呼ばれるひとだけあるな、と、由紀子も思い直した。それだけはやっぱり貫禄がある。
「それでは、これからも、看護人として、水穂さんのそばに付き添ってやってくださいませよ。」
ジョチさんが剣持さんの肩をたたく。
「ええ、そうですね、しかし僕は、何だか水穂さんに申し訳が立たないのですが。それでは、行けないのでしょうか。」
「ええ、そうでなくて、ミスをしたことを、忘れないでいてくれればそれでいいのです。そうしないと、人手不足が。」
「わかりました。そうします。」
と、剣持は言った。
「ええ、これからも続けてください。それでは、引き続き看護人として、水穂さんには仕えていただきますからね。」
剣持はまだ、何か不安そうな様子だったが、とりあえず頷いた。
「じゃあ、少し遅くなりましたけれども、水穂さんに朝食を。」
「はい、了解です。」
剣持はまたたちあがって、ヨイショと台所へもどっていった。ジョチさんが、またうとうとしている水穂の肩をたたく。うとうとしているというよりは、ぼんやりとしていて、反応を示さなかったというほうが適切かもしれない状態であった。多分、沖田先生から貰った薬がよく効いていて、考える時間を与えないようにしているのだろう。
「さあ、朝食にしましょうね。水穂さん。あなたもこんな立派な看護人に付き添って貰っているんですから、もう少し、体をよくするように努力してもらわなければね。」
ジョチさんが、またそんなことをいった。由紀子はそのさまをまたみている。結局、剣持さんの解任をすることはせず、このまま看護人として、いつまでも続けていくんだろう。それでは、永久にあたしの居場所はなくなっちゃうんだわと、由紀子はそう思っていた。
「持ってきました。エンドウ豆のポタージュスープです。杉ちゃんが昨日作ってくれたもので。」
剣持が、お椀に入れた、薄い緑色のスープを持ってきた。エンドウ豆のスープなんて、珍しいものを作るものだ。でも、栄養価が抜群なのは、その色を見ればわかる。杉ちゃんという人は、やっぱり料理に対しては、天才的であった。
「じゃあ、水穂さん。今日もしっかり食べてくださいませ。たぶん栄養もあっておいしいと思いますので。」
と、剣持は、水穂の口元まで匙を持っていくのかと思われたが、なぜかそれを由紀子に渡した。
「え?あたしが?」
と、由紀子は驚いてしまう。
「ええ、由紀子さんにお願いします。やっぱり大事なことは、大事な人にしてもらわわないと。もちろん、専門的なことは、僕たちがしますけれども、あなたは水穂さんの事を、本気で好きなようですから、その生きがいも僕たちがとってしまってはなりませんから。」
そんなことをいう剣持さんに、由紀子は驚いて、初めは、受け取ることはできなかった。
「いいんですよ。由紀子さん。由紀子さんだって、水穂さんの世話をしたいという願望があるでしょう。うまく食べさせるやり方は、教えますから。本当はご家族がすることですが、その家族がない水穂さんの場合は、好意を持ってくれている由紀子さんがするべきでしょう。」
「ありがとうございます!」
と、剣持さんに言われて、うれしくなった由紀子は、思わず、やったあと叫びたいくらいであったが、其れはやめにしておいた。
「由紀子さん、でも、うまく食べさせるにはコツがあるんです。無理やり食べさせても、水穂さんは、食べてはくれません。うまく食べさせる体の向きというものがあるんです。ちょっとやってみましょうね。」
剣持は、そう言って水穂を布団のうえに座らせて、バックレストを背中にあてがってあげた。
「このくらいの角度のほうがたぶん食べられると思うんです。今までは寝たままだったのですが、バックレストが手に入ったので、出来る限り食事をするときは、食事をするんだと、本人にも頭を切り替えられるように、座ってもらった方がいいんですよ。」
なるほど、そういう意味もあるのか。由紀子は真剣になってそれを聞いていた。
「じゃあですね。いきなりご飯を食べさせるとまた詰まってしまう可能性もないわけじゃないので、一番先にお茶かなんか飲ませてあげるといいんです。そこにある吸い飲みを取っていただけますか。」
剣持に言われて由紀子はその通りにした。剣持は、渡された吸い飲みを受け取って、そっと、水穂さんに中身を飲ませた。いきなり食べ物を食べるのではなくて、なにか水分を取ってからのほうが体も食事をとる体制になってくれるという。其れは、看護を専門的に学んだ人でなければ、わからないところだった。
「よしうまくいきましたね。じゃあ、次は本番です。由紀子さん、お匙を水穂さんのところへもっていってください、この時もコツがあって、食べさせるときは、水穂さんの目に入るように匙を動かすのがコツなんです。そして、お匙は、水穂さんの口元からしたから上に動かすようにしてあげてください。」
「わかりました。」
由紀子はちょっと緊張して、その通りに、お匙を口元へもっていった。
「はい、そして食べ物を無理やり突っ込むのではなくて、水穂さんの舌の上に乗せるようなつもりで中身を入れてあげてください。」
ちょっとこわごわとであったが、由紀子はその通りにした。剣持に首をなでてやって、飲み込むのを促すようにと言われ、それでは、とその通りにしたときは、やっと食べてくれたと、ほっとしてしまったのであった。
「よし、それで、飲み込んだのを確認したら、もう一回、食べさせてやってください。」
「はい!」
と、由紀子は強く言った。
「由紀子さん、そんなに気合を入れてはいけませんよ。看護というのは休みなしの事業なんですから、本当に気軽な気持ちでやらなくちゃ。あ、いい加減という意味ではないですよ。そこがちょっと難しいところだけど、其れはしっかり力を抜かないといけないところでもあるんです。」
剣持はまたそういった。其れも又、ひとつのコツなのかもしれなかった。
「そんなことまで教わってしまって、、、。」
由紀子は照れくさそうに笑う。
「いいえ。由紀子さん。昔の人であれば、看病何て当たり前にこなしていたものでした。それが、ビジネスになってしまう何て、本当に最近の事で、本当に短い間です。僕たちは、いろんなことを他人任せにしてしまう時代を作ってしまったんですね。其れは、いずれ限界となってしまうでしょうから、由紀子さんも教わっておいた方がいいと思いますよ。」
「そうですね。理事長は、そういう事までわかっちゃうんですね。」
と、剣持はそういわれて照れくさそうに言った。由紀子は、それではやっと、自分
のやくめが与えられてほっとしたと思った。
「これからは、由紀子さんと二人で水穂さんを見ていきましょうね。」
剣持が由紀子にそっと言って、由紀子はしっかり頷いた。やっと、なにか胸の重しが取れたような気がしてきた。
Le Coucou カッコウ 増田朋美 @masubuchi4996
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