第七章

第七章

まだ眠ったままの水穂さんの枕元で、二人の男は心配そうな顔をして、じっと彼を見つめていたのであった。

「今日は、本当にすみませんでした。」

剣持はあらためて座礼した。

「いいえ、もう、しかたないことはしかたないですから、二度と同じことは繰り返さないようになさってください。」

そういうジョチであるけれど、顔の表情は、言葉通りではないこともはっきり示していた。人間は時折、言葉とは正反対のことを考えている時もある。それを読み取れるかは別の話。

「理事長。」

剣持はまた改まってこう切り出した。

「なんでしょう。」

「僕を、水穂さんから解任していただけないでしょうか。今回の失敗で、僕はまだ世間のことをしらなすぎたなあと反省しているんです。それでは、もっと世界のことを知ってからじゃないと、こういう仕事というのは、出来ないのではないでしょうか。水穂さんだって、先ほど、沖田先生が仰っていたとおり余り、時間はありません。ですから、ああして気を使わせてしまうのは、やってはいけない事ではないかと思うのです。」

「そうですね、、、。」

たしかに、余命僅かな人に、負担をかけてしまうのは、本人にとっても、家族にとってもいけない事なのかもしれない。残りわずかな時間を、出来るだけ、楽しめるようにしなければならないというのは、当たり前の事というか、そうしなければならないというのは、言うまでもない事なのかもしれない。

「たしかにそうかもしれないですが、水穂さんには、世話をしてくれる存在というのはどうしても必要になるわけですから、多少の失敗はあっても、ついていてやらなければならないと思うのですが。」

「いいえ、理事長。それではなりません。やっぱり日本には、こういう事情があるってことを全部知っておかないと、介護人という仕事は務まりません。全部の人が、しあわせに生きてきた訳ではないという事もあるんじゃないですか。人間はいろんな事情があるわけですし。もしかしたら、僕たちと正反対の思いをしてきた人の世話をすることも、要求されるかもしれない。そうなった時のために、もうちょっと勉強しなければいけないと思ったんです。介護の仕事って、誰でも出来るようにみえるけど、そういう事じゃないじゃないですか。いろいろ、複雑な事情を背負ってきた人を看取る訳ですから、こっちがそれを受け入れる覚悟をしなければならないでしょう。そのためには、もっともっと人間について、勉強が必要だなあと、僕は思うんですね。」

「そうかもしれませんね、、、。」

ここまで感慨深い剣持に、ジョチもどう反応したらいいのか戸惑って、何も言えないで、黙っていた。

本当は、全部の看護人が、そういう精神を持っていてくれたら、また違って来るのかもしれない。最近では、介護施設であっても、酷い虐待が行われていることもあるし、治療をするはずの病院だって、患者を放置させて死亡させるという問題を起こしている所も多い。それを解消するには、やっぱり、人間の尊さについて学ぶしか無いのだろう。でも、そういうことは、一番大切と言われておきながら、勉強する機会がなかなか与えられないのが、日本の社会という物である。

「理事長、せっかく、会社起こすの手伝ってくださって、本当にありがたい事であったのに、何だか恩をあだで返してしまったような気がして、申し訳ありません。でも、こんなミスをしてしまうのであれば、僕はまだ、看護という仕事で会社を起こすなんていう資格はまだ無いのかもしれない。さっきあの時、同和問題何て気にしなくていいと言ってしまったのが間違いだったんです。まだまだくるしんでいる人は沢山いるのかもしれない。それだけじゃありません。他にも、助けが必要な人はいっぱいいる。だから、そういう人たちを受け入られるように、僕も、しっかり勉強して置かなくちゃ。介護人ってのはそういう人間でないと。どんな人でも受け入れられる精神がある人間でないと。」

その最後の言葉は、自分に言い聞かせている様であった。この人に取って、介護職というのは、もしかしたら天職なのかもしれなかった。

「そうですね。ただ世話をするだけじゃなくて、そういう精神をもっていてくれたら、また変わるかもしれないですしね。本当は、誰でもそうじゃないといけないんですけど、そうなる前に、人手不足という問題もあるでしょう。」

ジョチは苦笑いした。現実はそういう所なのだ。だからこそ満足の行く最期なんて、遠い遠い先のことになってしまう。

ふいに、布団の方からん、んんと声がした。

「あ、目が覚めたかな。」

「それではなにかたべさせたほうが、いいですかね。ちょっと持ってきてやってくれますかね。」

剣持は、ジョチにそういわれても、すぐに立ち上がることは出来なかった。それは、足が悪いせいではなかった。

「いいから早く。」

「あ、、、。はい。」

と、立ち上がって剣持は、台所に行こうとしたが、丁度そこへ水穂と目が合ってしまった。

「あ、申し訳ありません。本当に先ほどは。」

と、謝罪をする剣持であるが、水穂はそれを責めるような表情はしなかった。寧ろ、そのままここにいてくれという感じの顔であった。

「どうしたんです?」

剣持はもう一度、そこに座る。なぜかそのまま立ち去ってはいけないような気がしたのだ。

「いえ、そのままでいてほしいと思ったからです。」

と、水穂はしずかに言った。

「どうしたんですか。そのままでって、、、。」

心配そうな顔をしてジョチも水穂んの顔を見た。

「いえ、このまま続けていただいて構いません。僕が、もともと出自がまずかったから、今回のような事態を招いてしまったんだと思いますし。それは、剣持さんのせいではありませんもの。悪いのは僕の方です。だから、気にしないで続けてくれればそれでいいのです。」

丁度この時、剣持がいつまでももどってこないので、心配になって様子をみにやってきた由紀子だったが、ふすまに手をかけたその瞬間、その言葉を聞いてしまった。そして水穂さんが又自分を責めているのではないかと思ってしまった。

「ちょっと待ってください!水穂さんにそんなせりふを言わせないで!それでは、可哀そう過ぎます。もう彼に自分のことを責めさせるのはやめてください!」

慌ててぴしゃんとふすまを開けて、由紀子はそう強く言った。

「そんな事ありません。それは水穂さんが自ら発言した事です。僕たちがそう発言するように誘導尋問したことは決してありません。」

すぐにジョチがそう訂正するのだが、女という物は、愛する人が負の発言をすると、どうしてもそれをカバーしてやりたくなってしまうのだろうか。其れは、どうしても男の人たちには止められない発言になってしまうらしい。

「もう、水穂さんに同和問題のことは言わせないでやってくれませんか。あたしは、もう水穂さんにそれを口にしてもらいたくないんです。それだけじゃないわ。もう着物とか、食べるもののなかに同和問題に関連付ける物は一切使わないでいただきたいんです。その理由は、仕事として世話をしている

人には絶対わからないでしょうけど!」

「由紀子さん、その気持ちはわかりました。難しいと思いますが、その通りにするようにさせますから。由紀子さんは、何も心配しないで結構ですよ。」

ジョチさんがそういってくれたのだが、結構と言われれば言われるほど、怒りというものは増大してしまう様なのだ。由紀子はさらに語勢を強くして、こういうのだった。

「いいえ、剣持さんには水穂さんに謝ってもらいたいです!水穂さんは、同和問題のせいで酷く傷ついているんですし、其れのせいで体まで損なってしまったの!その元凶を、わざわざ持ってくるなんて、相当傷ついたでしょうし、ずいぶん負担もかかった事でしょう!それをどうして単なる過失で片付けてしまうんですか!どうしてそんな事簡単に出来てしまうのか、あたしは、それが本当に嫌で嫌でたまらなかったわ!」

声を荒げてそういう由紀子に、剣持さんが小さくなってそれを聞いている。ジョチは、気にするなと言いたげに軽く肩をたたいたが、剣持さんは小さくなったままだった。

「由紀子さん、怒らないであげてください。もうこういう操作ミスは、しかたないことだと思ってくださいよ。そういう同和問題を知っている人は、彼の年代だと、ほとんど知らないと思いますよ。」

ジョチの一言を聞いて、由紀子はまたわっと泣き出してしまった。由紀子に取っては、非常に大きな事であって、誰でも考慮してくれなければ困ってしまう事態だったのだが、それを知らないだなんて。あり得ない話だった。

「由紀子さん。本当に勘弁してあげてくださいよ。だって、水穂さんにはこの先世話人が必要でしょう。そのためには誰か人を呼んであげなきゃいけないんです。一般的に介護人を呼ぶとなるとたいへん何ですよ。だから、」

「かといってあたしは、水穂さんの体や心に無頓着に世話する人を、呼んでくれとは言っていません!」

由紀子は、ジョチさんに対抗して、そう罵声を浴びせた。

「いいえ、そんなこと、怒る必要はないんです。だって、同和問題と言いますのは、もともと当事者が悪いとしないと解決できない問題の一つなんですから。もうしょうがないじゃないですか。それは僕が勝手に悪いと思っていればいいだけの事。それだけの事です。」

どうして、、、?水穂さんそんなことをいうの?そう片付けてしまったら、あなたは又くるしむことになるのよ。

由紀子はそう言いたかったが、其れは水穂さんの目が許さなかった。

またわっとなく由紀子に、ジョチさんはそっと、彼女の肩に手をかけた。

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