第六章

第六章

剣持は、いつまでも縁側で鹿威しばかり見つめていた。

由紀子はそれを、不思議な気持ちで眺めていた。先ほど、叱られたことがまだ頭に残っているのだろうか。それにしてはずいぶん長く、悩んでいるような気がする。

ジョチと沖田先生は、まだなにか話していた。そうなると、由紀子はまた自分のする事がなくなってしまったような気がした。

「剣持さん。どうしたんですか?」

由紀子は剣持にそう尋ねた。

「あ、まだ眠っていらっしゃいますか、水穂さん。」

と、剣持は、やっと我に返ったようにそういった。

「それでは、朝ご飯食べさせなければいけないですね。それでは、すぐにいかなければ。」

急いで立ち上がろうとする剣持であるが、足が悪いため、ちょっとふらついて、また座りなおさなければならなかった。

「ちょっと待って。」

由紀子は、思わずそう言葉が出てしまった。本当は聞いてはいけないかもしれないけど、なぜか出てしまったのである。

「何ですか?」

剣持は、由紀子の方を振り向いてくれた。

「い、いえ、その剣持さん。なんでそんなに悩んでいるのかなと思って。」

由紀子がちょっと聞いてみると、

「ええ、僕は水穂さんの大事なことを見落としてしまっていたかなと思いまして。いや、本当なら見落としてはいけないことを、見落としてしまったんだ。同和問題のことについて、全く知らないなんて、介護人として、失格なのかもしれません。」

と答える。由紀子は、それを聞いて、彼を慰めてやりたくなった。

「そんなことないわ。いままでよくやってくださったじゃない。そんなに自分を責めなくていいんですよ。そりゃ、知らなかったこともあると思うわよ。だけど、そこまで自分を責める必要なんかないわ。そんなに、落ち込まなくても。」

わざとおどけた顔をして由紀子はそういうが、剣持の顔は真剣そのものだ。それでは、いけないという顔をして、真剣に悩んでいる。

「剣持さん。誰でも初めは知らなかった事だってあるじゃありませんか。そこから少しづつ学んでいけばいいんですよ。」

「いいえ。」

剣持は、強く言った。

「余命わずかと言われる水穂さんのような患者さんに、少しづつ学んでいけばいいなんて、悠長なことは言ってられません。そんな重大なことは、予め知っておかなければ。それを踏まえて、ああいう人には、出来るだけたのしかったという、毎日を多くしていかなくちゃ。だって、これまで散々病気でくるしんできて、もう、この世界ともさようならしなきゃいけないんですから。」

その言い方は、本当に自分を責めていることがわかる言い方で、このままでは、自分を責め続けて、だめになってしまうのではないかと、由紀子は思ってしまうのだった。どうしてそんなに真剣な気持ちで居られるのだろう。こんなに真剣身をもって、仕事をしている介護人を由紀子はまだ見たことがないと思った。例えば、老人ホームの介護人なんて、仕事内容がきついとか、給料が安いとか文句たらたらで、肝心のお年よりの世話なんて、いい加減そのもので仕事をしている人ばかり。それと比べると、剣持は正反対だ。なぜそんなに真剣そのものの顔つきで、仕事をしているのだろう。

「ねえ、剣持さん。あたし、ちょっと聞いてみたいことがあるんですけど。伺ってもよろしいかしら?」

と、由紀子は聞いた。

「何ですか?」

剣持は、悪い足をヨイショと由紀子の方へ向ける。

「あの、剣持さん。どうして、そんなに介護という仕事に対して、熱意があるというか、真剣な顔してやっているのですか?」

剣持は、そうですねえと考えこんで、

「こんな話をしてもいいのかどうか、わからないのですが、、、。」

少し言葉を詰まらせながら、こう話し始めた。

「以前、僕が、足が悪くなった理由、話しましたっけ。」

「いいえ、聞いてないわ。ただ、事故にあったと聞いただけよ。」

由紀子はそう答える。

「ええ、そうなんです。紛れもなく事故にあったんですよ。一部の人は事件と言っていましたが、警察は事故として片付けてしまったんです。」

「どういう事でしょうか?」

剣持の話を聞いて由紀子はそう聞いた。

「え、ええ。つまりこうです。丁度その時、介護施設の従業員研修会で、都内に出ていました。まあ、ご存知だと思いますが、都内は狭い割に人が多くいますから、当然電車の駅も人が沢山居ますよね。よほどの田舎電車でない限り、駅が開放されていることはないでしょう。東京駅何か見てくれればわかると思いますけど。」

「ええ、知ってるわ。私は、今でこそここに住んで居ますけど、出身は都内なんです。」

剣持が話し始めると、由紀子はそう相槌を打った。

「ああ、そうですか。それでは想像していただくのも、早いかもしれないですね。僕が、都内の何処の駅なのか忘れてしまいましたが、非常に人が多い事で有名な駅のホームを歩いていた時の話なんですが。あの、世界一人が多いことで有名な駅です。」

何処の駅なのか、由紀子は大体想像が出来た。あの駅はたしかに大河のように、人が絶えず流れている。

「その駅の階段を降りて、電車に乗ろうとしていた時、おばあさんが一人、歩いていたんですよ。その後に、若い男がすごいスピードで歩いてきました。おばあさんはよけきれないでしょうし、そのまま歩いていれば、まちがってホームに突き落されて、電車にでも引かれたらたいへんなことになります。僕は、急いで、おばあさん!と言いながら、おばあさんの方へ駆け寄ったつもりでしたが。」

ここで剣持の言葉は切れた。その次に何が待っているだろうか。

「ええ、そうしたらですね。そのチンピラから、変な言いがかりを付けられてしまったんです。まあねエ多分、僕が正義の味方気取りで飛び出して来たのがいけなかったんですね。僕は、そのチンピラからぼこぼこに殴られて、動けなくなるまでやられました。幸い、駅員が通報してくれて、一命はとりとめたんですが、僕の足は悪くなりました。それで、勤めていた介護施設も首になったんです。それで僕は、どうしようもなくなってしまって。」

「ちょっと待ってよ、剣持さん。それでは明らかにチンピラのほうが悪いって誰でもわかる犯罪じゃないの。もし可能であれば、被害届を出して、警察に訴えてもよかったのではありませんか。足が悪くなった事だって、損害賠償を請求するとか、出来なかったんですか?」

由紀子は、急いで当たり前のように知られていることを言ったのだが、剣持は首を縦には振らなかった。

「いいえ、そんなこと、金さえあれば何でも出来てしまう物です。そのチンピラが、なんとも地元で有力な人物の息子であったらしくて、警察に金が回ったらしく、結局僕が勝手にぶつかってきたことになってしまいました。助けてあげたおばあさんも、認知症がかなり進んでいて、正確に事件のことを思いだしてはくれなくて、結局そういうことになってしまいました。」

何とも不条理な話だ。普通の人であれば、ここで引き下がってしまった剣持を、裁判に訴えればいいのに、弱虫とからかうこともあるはずだが、由紀子は水穂の問題で、そういうことは経済的に豊かな人でないと出来ないことを知っていたので何も言わなかった。

「そうなんですか。裁判に訴えたくても、弁護士を付けるのにお金がいるとか、いろいろありますものね。私、その気持ちわかります。法で救えると偉い人は言いますが、それはお金のある人だけの話ですよ。ない人はただ、不条理に黙って耐えるしかないでしょう。」

代わりにそういった。剣持はそれを聞いて、やっとこれをわかってくれる人がいたかと、ほっとした顔つきになった。

「ええ、まあ、そういう事です。その通りでした。あしが悪くなってすぐに介護施設も解雇されてしまい、何とか一人で生活していかなければならなくなった僕は、しかたなくインターネットで商売でも始めようかと思って、その基礎知識のためにパソコンの講座に行ったんです。何しろ、介護施設にいたときは、碌に時間もなくて、パソコンの知識なんてまるでありませんでしたからね。その時に、講師の先生と、話していた理事長とばったり会ってしまって。」

「そうなんですか、、、。」

由紀子は、ほうとため息をついた。

「まあ、そうなんですよ。僕は理事長の自宅兼店舗の焼き肉店に連れていかれて、その不条理な事件のことを話し、介護をしたいと意気込んでいたのに、される側になってしまったと話したら、理事長が、其れなら、障害者でもできる介護があると理事長に言われて。僕は、こうして事業を起こすことにしたんです。介護される側になってしまった人の失望感をわかってやれるのは、あなたのような人でなければダメだって。あなたは、それを伝えてやれる経験をした人だって。もし、開業資金が足りないなら、僕が買収という形で、何とかしてあげるからとも言われたんです。僕は、こんなことをしてもらって、恵まれすぎているほど恵まれているわけですから、昨日のようなミスをしてはいけないんですよ。そういう事ですから、気にしないなんて言ってはいけないんです。」

恵まれているか、、、由紀子は、そういわれて、自分の境遇とは、全く違う人がいるんだなと感じだ。そうなると余計に自分は、必要ない存在になってしまうのだろうか。

「水穂さんも、剣持さんに世話してもらったほうが、よほど良いのかしら、、、。」

ちょっと半分泣き出してしまう由紀子に、またきゅきゅという音が聞こえてきた。

「ちょっと手伝ってくれませんか。食事させたいので。」

「あ、理事長の声だ。」

剣持はそういってヨイショと立ち上がった。由紀子はそれを引き留めようとはしなかった。

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