第五章

第五章

しかしその翌日の朝早く。

由紀子は、まだ寝ぼけ眼で、朝ご飯の支度をしていた所だった。今日は又雨が降るかなあ何て考えていたその矢先。

由紀子のスマートフォンが不気味な音を立ててなった。いつも流れてくる着信メロディの筈なのに、今日はなぜか、不気味な音に聞こえてきた。

急いでスマートフォンを取ると、

「由紀子さんちょっとお願いがあるんです。」

剣持さんの声だ。こんな時にあたしに何の用があるんだろうと思って、由紀子は、思わず電話を切りたくなった。

「お願いって何ですか?」

「由紀子さん。すぐに沖田先生を呼んできていただけないでしょうか。僕はクルマの運転が出来ないので、、、。」

この一言ですぐに目が覚めた。沖田先生の名前を出せば、すぐに水穂さんに何かあったんだとわかってしまった。理由なんてどうでもいい。ただ直感的にわかったのだ。

「もしかして水穂さんになにかあったんでしょうか?」

由紀子は急いで聞く。

「ええ、さっきから咳き込んだまま、呼びかけても何も反応もしないんですよ。」

ということは、なにか詰まってしまったのだろうか。

「わかりました。すぐあたし呼んできますから。そこで待ってて。」

「お願いします。」

こればかりは、剣持も、ちょっと心細くあるようだ。由紀子は、剣持さんのそういう所を見て、やっぱり彼も人間なんだなと思った。

急いで電話を切り、手早く服を着替えて、由紀子は沖田先生に電話をする。医者である以上、こういうことは必ず起こると知っているから、先生は、冷静に応答してくれた。そういう所はやっぱり心強かったのである。

由紀子が、沖田先生を連れて製鉄所に飛び込むと、四畳半の方から、丁度水穂が激しく咳き込んで居るのが聞こえてきた。ふすまを開けると、布団の周りが真っ赤になっている。多分、剣持が背中をたたくなどして、出すものを出すことには成功したのだろう。沖田先生がすぐに、たいへんだと言って、水穂の左腕に注射を打つと、やっと楽になってくれたのか、咳き込む回数は減って、うとうと眠ってくれた。

「ああよかった。助かってよかったわ。」

由紀子は眠っている水穂さんの体にそっと顔をつけて泣いた。もしもあとちょっと遅かったら、こうはならないかもしれなかった。

「すみません。僕の不注意で。ちゃんと監視しておくべきでした。それを怠った僕の責任です。」

剣持が、申し訳なさそうに言って、血まみれになった水穂の口元をタオルで拭き始めた。沖田先生は、厳しい顔をして、なにか考えていた。

「もうちょっとしたら、理事長もみえると思いますので、ちゃんと謝罪しておきますね。」

そういう剣持さんだが、謝るのは理事長ではなく、水穂さんの方ではないかと由紀子は思ってしまった。何となくだけど、昨日無理やり散歩に行かせたのが行けないのではないかという気がした。

丁度この時、玄関の戸がガラッと音を立てて開く。また鴬張りの廊下がきゅきゅきゅと音を立てて、人が歩いてくる音が近づいてきた。そして、ふすまが開いて、ジョチの来たことがわかった。

「一体どうしてなんですかね。僕が昨日受けた報告では、少し回復してきた様だと仰っておられましたが。」

「理事長、申し訳ございません。昨日まではよかったのですが、今朝早くにいきなり咳き込み始めたのです。背をたたいて吐瀉物を出すことには成功しましたが、ごらんのとおり、こんなに汚してしまいまして。」

そんなことをいう剣持さんだが、由紀子はその話の仕方がどうしても事務的で、本当に心配して話している様にはみえないのだった。どうしてか、そんな事務的に話されると、嫌な気持ちというか、不快な思いをしてしまう由紀子だった。

「昨日の食事には多分問題はありません。肉も魚も、食べさせてはおりませんし、油を利用した訳でもありません。食べたのは、コーンスープのみです。其れなのにどうしてここまで酷かったのか、僕はよくわからないのですが。」

「そうですか、、、。」

ジョチも理由がわからなくて首をかしげる。

「どこかへ出かけたりはしましたかな?」

ふいに沖田先生がそういうことを言った。

「ええ、昨日の午後に、近場のギャラリーへ散歩に出かけました。でも、それは数時間だけですし、余り負担だったとは思えません。少なくとも、不快そうな表情ではありませんでしたが。」

由紀子は、それを聞きながら、周りにある物を見渡した。

押し入れの前に、衣紋かけにかかった着物が一枚ある。それは、昨日着た、エメラルドグリーンの銘仙の着物。

「きっと、無理をしすぎたんですな。」

沖田先生が、厳しい表情で言った。先生の目にも、例の銘仙の着物がはいったのだろうか。

「無理をしすぎたって、僕は、無理やり歩かせたとか、そういうことはしていません。ただ、ストレッチャーに乗せて、散歩に出ただけです。その何がいけないのでしょうか。」

と、剣持さんはいう。由紀子はそれを聞いて、ああ、剣持さん、大事なことを知らなかったんだなと思った。

「剣持さん、昨日、水穂さんに何を着せて行ったのでしょう?」

不意に、ジョチさんがそう言い始めた。多分ジョチさんも、それを感じとってくれたらしい。

「何ってそこにかかっている緑の着物ですけど、、、。」

不思議そうに聞く剣持さん。

「剣持さん、僕は言いましたよね。水穂さんが少しでも快適に過ごせるようにと。それは水穂さんのコンプレックスを出来るだけ解消させてやるようにと、いう事でもあるんですよ。ですから、水穂さんの最大のコンプレックスである、この着物を無理やり着せて外出させるとなりますと、、、。」

ジョチの説明に、剣持さんの顔が凍り付いた。そして申し訳なさそうな顔つきになった。

「つまり、緑色というのは、お嫌いだったのでしょうか?」

「そうじゃありません。この着物の素材が問題なんです。それを着せると、水穂さんの出身階級がばれてしまうということになる。それでは、落ち着かないのも当たり前なんじゃないですか。そうじゃなくて、彼が落ち着いて居られる格好をさせてやる方が、介護人の務めでしょう。」

「そうですか。つまるところの同和問題という所ですよね。でも、それは戦前までの事で、今の時代であればあまり気にしないでもいいのではないでしょうか。着物の素材だって、今の人は、余り気にしないで着用している様ですし、、、。」

剣持は、今の人らしい言い訳をした。大体の人はそういう。中にはそういう言い訳をして、平気で銘仙の着物を着てしまう若い女性もいる。それはそれでいいと黙認している呉服屋も多い。でも、そうなったのは、戦後以降、特にアンティークの着物がブームになり始めた平成になってからの事だ。それまでは、銘仙と言えば、貧しい部落民の着物として蔑視されていた。だから、おしゃれ着と解釈されるようになった時間よりも蔑視されていた時間の方が長いのだ。そこを忘れてはいけないのである。

「剣持さん、そういういい加減な意識こそ、同和問題を余計に悪化させてしまっていることを忘れてはなりません。問題は解決済みだとか、自分には関係ないと思ってしまう事こそ同和問題の一番怖い問題点です。一人一人が、そういう問題が日本の歴史上にあったことを、しっかり認識してやらないと。特に水穂さんのような体が弱っている人間に対しては、ちょっとしたストレスであってもこのように悪化してしまうことを考えなくては。介護人という物はそこまでしっかり考慮して置かないと、介護人と

は言えませんよ。介護とはそういう事です。相手の事を隅から隅まで知り尽くして置くこと。」

ジョチにそういわれて、剣持さんは、さらに小さくなった。こういう素直に謝ってくれるところがあるのなら、この人は善良な人間で、悪人ではないという事だろうか。

「今回の原因はまさにそれでしょう。きっと、彼は、外出している時に、銘仙の着物を着用して嘲笑されないか、不安だったのだと思います。ですから、それをさらけ出すような着方はさせてはなりません。なにか工夫すればよかったのですが。それで彼も、私たちが思っているより、ずっと無理をしすぎてしまったのでしょう。」

沖田先生が、しずかにいう。まさしくその通りだと由紀子は思った。きっとそういう事を剣持さんは知らなかったのだ。

「すみません、全く知りませんでした。この畳の張替代は払いますから、今回は許してください。」

剣持は、手をついて謝罪した。

「また畳の張替ですか。もう畳を何回も張替て、畳屋さんは儲かるかもしれませんが、僕たちは困りますねエ。」

ジョチが思わずそういうと、

「ええ、でも畳の張替もあと数回で終わると思いますから、お金がかかるとかそのような愚痴は言わないであげてください。」

と沖田先生が言ったので、またみんな黙ってしまった。それは何を意味する言葉なのか、みんなわかってしまったからだ。

「先生までそんなことをいうんですか!酷いわ!」

由紀子は思わず涙をこぼす。

「いや、由紀子さん、それは事実なんですから、酷いという言い方はしない方がいいですよ。」

ジョチに注意されても由紀子は泣き続けていた。剣持さんはがっくりとあたまを垂れて落ち込んでいるようにみえる。でも、今回、彼を責めることをした人物は誰もおらず、みなそれぞれの感情に、あたまを支配されてしまっているようだ。

「じゃあ、僕は畳屋さんの方へ電話をしますから、剣持さんは彼が目覚めたら、必ず朝食を食べさせてくださいよ。」

ジョチさんは、スマートフォンをダイヤルした。話し始めると、ああまた張替ですかあと畳屋さんが間延びした声で返答している。

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