第四章

第四章

「それでは行きましょうか。」

と、剣持は水穂の体にヨイショと手をかけて、体を起こし、バックレストに座らせた。

「行くってどこへですか?」

由紀子がそう聞くと、

「はい、バラ公園ですよ。あ、其れよりも、花鳥園のほうがいいですかね。其れとも、美術館とかそういうところに行った方がしずかでいいかもしれませんね。」

と、剣持は答える。

「花鳥園、美術館って、、、。」

由紀子はおどろいて何も言えずにいた。そんな場所、とうの昔に、二度と行くことは出来ないだろうと思われた場所だ。

「だって、一日中布団で眠っていたら、其れこそ退屈で仕方ないでしょうが。もうストレッチャーも用意してありますし、天気の良い日はできる限り、散歩に出た方がいいですよ。後は、由紀子さん、着替えを手伝ってくれませんかね。」

そういう剣持は、引き出しを開けて、着物を一枚出した。

「今日は何色の着物にいたしますか?青ですか、それとも、ターコイズみたいなそういう物ですか?」

水穂もいきなり指示を出されて、何を言おうかわからないでいるらしい。

「じゃあ、これでいいですか?最近は明るい色が流行っているようですから、これにしてみますか?」

剣持が出したのは、薄いグリーンの着物であった。黄緑というか、エメラルドグリーンに近いような緑色で、ところどころ亀甲の柄が付いている。

「段々春らしくなってきましたから、これでいいですかね。緑色。いい色じゃないですか。」

由紀子は思わずまって!と言おうと思ったが、剣持は手早く浴衣を脱がせた。長じゅばん姿になった水穂に、冷えてはいけないからと、すぐに着物を着せる。

「由紀子さんすみません、羽織出してやってくれませんかね。」

由紀子は剣持に言われて、急いで引き出しを開けた。由紀子も、銘仙の羽織ならこれだと識別できるのに、それ以外のものは一体どれが普段用で、どれが外出用なのか、全く分からないのである。

「ほら早く。」

と、由紀子はそういわれて一枚の銘仙の羽織を出した。モスグリーンの落ち着いた感じのものであるが、まぎれもなく、銘仙とわかる柄付きの羽織であった。それをエメラルドグリーンの着物の上に手早く着せてあげた。

「よしできた。じゃあ行きましょうか。」

と、剣持は水穂の体をよいしょと持ち上げた。そして、お姫様抱っこ様に抱えたまま、玄関まで向かってしまう。それを待っていたかのように、あの看護学校で勉強している利用者が、隣の部屋から立派なリクライニング式の車いすを出してきた。剣持は水穂をそれに乗せた。

「それでは行きましょう。何処へ行きますか?それは水穂さんの希望を聞いた方がいいですね。」

と、剣持が聞くと、

「バラ公園で十分ですよ。」

と水穂はぼそりと答えた。

「いや、今日はいい天気だし、風も吹いていないし、さほど寒くはありません。どうでしょう、公園に行って、ちょっと園内にあるギャラリーを覗いてみませんか?何だか、こんな展示会をやっているみたいですよ。」

剣持は、そういって葉書をみせた。由紀子がそれを確認する。展示会は、アマチュアの写真家たちが集合して開催している、写真展であった。

「そうですか。」

と、水穂はそういった。剣持は、しずかに水穂の体を毛糸のストールで巻いた。上半身は隠れるが、下半身の柄ははっきり見えた。

「じゃあ、それでは行きましょう。今日はいい天気ですよ。きっとヤマブキの花も咲いていることでしょう。」

剣持がそういってリクライニング車いすを押し始めた。

「あの、あたしも一緒に、」

由紀子は思わずそういうが、そこまで言いかけると、それではいけないと思ってしまったのである。なぜかそう思ってしまったのであった。剣持は、それを無視して、じゃあ水穂さん行こうかと言って、製鉄所の敷地内を出て行ってしまった。なんでだろう。それをしてはいけないような雰囲気が剣持さんにあった。

由紀子は一人で製鉄所に残り、一人でさめざめと泣いた。何だか、もう自分のいる場所はないというか、もう盗られてしまったというか、そんな気がした。言葉には言い表せない、どうしようもない悲しみだった。

そのまま、四畳半に戻ったが、何一つやることはない。布団も綺麗に整理されているし、枕元に置かれている吸い飲みも、薬の袋も、すべてかごに入れられて、綺麗に整頓されている。着物も、他の寝間着もみんな剣持がきれいに整理して置いてしまっていた。何もかも、きれいに整理されてしまっているのだ。由紀子はもう、何も自分のすることはなくなったとわかった。それは、悲しみではなくて、憎しみであった。私から、愛する人の世話という、役目を盗んでいった、あの嫌な男!それは、多分、水穂への愛ではなくて、剣持への嫉妬であった。

ただ、一つだけ由紀子が知っていることがある。あの箪笥の中にはいっている着物はみな銘仙の着物であるということ。それには非常に重い、歴史的な事情が隠れているという事だ。

暫くして、玄関のドアがガラッと開いた。

「あ、帰ってきたぞ。」

と、例の利用者が心配になったのか、ドドドっと、玄関先へ走っていく音が聞こえている。でも由紀子は、そこへ出迎えに行くことはできなかった。

「お帰りなさい。ギャラリー行ってきたんですか?」

と、利用者がそういっている。水穂さんの声は聞こえてこないが、代わりに剣持が、

「ええ、行ってきました。でも、落ち着かなかったようで、短時間で出てきてしまいましたけどね。」

と言っているのも聞こえてきた。

「大丈夫ですかね。水穂さん疲れていませんか?」

利用者はまた質問すると、

「ええ、大丈夫だと思います。道中咳き込むことは何も在りませんでしたので。」

と、剣持は、車いすをしまってくれるように頼んだ。はい、わかりました、と利用者は返答していた。

「はい、布団にもどりましょうね。どうですか。久しぶりに外へ出てみて、たのしかったでしょう?」

ふいに、よいしょとふすまが開く音がして、水穂が剣持にお姫さま抱っこされて戻ってきた。

「それでは、横になりましょうか。」

剣持は、水穂を静かに布団のうえに寝かせた。

「由紀子さん、そこにいたんですか。じゃあちょうどいい。寝間着に着替えますから、手伝ってください。」

と、剣持はいう。

ずうずうしいなと思いながら、由紀子はそれに応じた。急いで帯を解いて、着物を脱がせ、浴衣をてばやく着せてやる。

「日本式の浴衣ってこういうときはいいですよね。寝たままの人は、返ってこっちにしたほうがいいのかもしれない。僕、寝たきりのお年寄りの世話を頼まれたことがあるんですが、パジャマ何かより、こっちのほうがよほど介護する側も楽だし、負担も少ないですよ。」

そういいながら、剣持は、浴衣の帯を締めた。

「はい。終了ですよ。今日はいかがでしたか?ひさびさにそとに出て行って、気持ちよかったですよね?」

「ええ、ちょっと人目が気になりましたが、それでもきれいな写真が見られて楽しかったです。」

水穂もにこやかに答えていた。でも、そこで咳き込んだり疲れた顔もしていない。本当に楽しそうな顔である。

「そうですね。で、どの写真が気に入りましたか?」

と、剣持は写真展のリーフレットを水穂に見せた。リーフレットまで買ってきたのか、と、由紀子は驚いてしまう。

「ええ、この写真かな。この空の写真が一番気に入りました。あの写真展のテーマが空を見上げようだったから。」

と、水穂はリーフレットをめくって、一枚の写真を指さした。たしかに空の写真ばかりだ。なんで空の写真何か見せたのか。由紀子は何て縁起の悪い写真何か見せるんだろう、と、気分が悪くなった。

「この写真が一番好きです。」

水穂が指さしがこの写真、浜辺で老夫婦が手を取り合って、空を眺めているポーズを撮影したものだ。後姿だから、誰と個人を特定すべき要素はないが、それでもこんな夫婦になれたらいいなと思われる写真である。

「そうなんですね。水穂さん。僕はもっと明るい要素のある写真を好きになってくれないかなと思うのですがね。」

剣持は、そういって、真っ青な青空を映した写真を指さした。

「之のほうが、水穂さんにはぴったりだと思うんですが。純粋無垢で、不純物を拒絶し続ける、そういう澄み切った空のように、ゴドフスキーに取り組みつづけた水穂さんのように。」

由紀子は、こんなことをいわれて、水穂が驚きのあまり咳き込んでしまわないか、たいへん不安になってしまったのだが、おどろいたことに水穂は黙って笑っているだけであった。それを見て、もう由紀子は自分が要らないという気持ちを余計に上乗せせざるを得なかった。

「よかった。だいぶ咳き込まなくなりましたね。また、これからもこういう事をしていきましょうね。奏していけば、少し気持ちも前むきになってくれるでしょうから。」

と、剣持は言う。由紀子はより、悲しくなってしまうのであった。

「それでは、お疲れのようですから、少し横になりましょうか。」

ここでやっと由紀子の望んでいたせりふが出てくれた。

「はい。」

水穂は素直に応じた。剣持はそれではと体を支えて横にならせてやる。

「それでは、ご飯までまだ時間もありますし、少し休みますか?」

と剣持が聞くと、水穂は静かに目をとじた。やがて、気持ちよさそうなすやすやという音が聞こえてくる。

そうなると、自分は余計に必要とされないのかなあと思い続けてしまう由紀子だった。

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