第三章

第三章

由紀子は、今日も勤務を終えると、すぐに製鉄所に直行した。いくら、剣持がせわをしてくれると言っても不安で仕方なかった。

「今晩は。」

と由紀子は製鉄所の引き戸を開ける。

「水穂さんいますか?」

「はい。今は、剣持さんと一緒です。」

と、利用者が、そういったので、由紀子は又かと思いながら、すぐに四畳半に向かう。

「こんばんは。」

ふすまを開けると、丁度剣持が、ご飯を食べさせているところであった。ほら、ゆっくり飲んでみましょうね、と剣持がそっとお匙を口元へ持って行く。

「行きますよ、気管に詰まってしまうと大変ですから、ゆっくり飲んでみてください。」

と、剣持は、そっとお匙を唇に付けた。水穂は剣持に支えてもらいながら、布団のうえに座って、中身を飲んでいる。

「のんでる、、、。」

由紀子は思わず声を上げた。

「よしよし、うまくいったぞ。こういうドロッとしたスープなら、一寸時間もかかるけど、飲めるかもしれませんね。」

器の中身を見ると、かぼちゃのスープがはいっていた。多分杉ちゃんが作っていったものに違いない。それでは杉ちゃんは、剣持と一緒に、料理を作っていたのだろうか。

「杉ちゃんが作ったの、そのスープ。」

と、聞いてみると、

「ええ、そうです。彼は料理に関しては、とても協力的ですし、理事長もそのうでに関してはしっかり認めているようですしね。それに、何よりも本人がとてもうれしいそうです。杉三さんの料理を食べられて。」

と、剣持は静かに答えた。

「じゃあ、もう一回行きましょう。」

剣持はもう一度お匙を口元にもっていく。水穂は中身を飲んだ。

「それでは、もう一回行けますか。」

剣持は、もう一回お匙を持って行った。

やっぱり中身を飲んでいる。

「あたしのときとはぜんぜん違う、、、。」

由紀子は変な顔をした。

「あたしが飲ませていた時は、いつも吐き出してしまって、、、。」

「それは味噌汁だったからですよ。ああいうさらさらした味噌汁は、かえって飲みにくいんですよ。其れよりも、こういうドロッとした物の方が、いいんですよ。これからは、毎日ヴィシソワーズとか、そういう物に切り替えればそれでいいだけの事です。味噌汁は、味噌の粒やとかそういうものがはいっていいますから、こういう病気の人は、一寸食べにくいかもしれないですね。」

剣持は、そう解説したが、由紀子はそんなこと全く知らなかったので、今まで自分のしてきたことは、全部間違いだったのかと、また落ち込んでしまう。

「何ですか、由紀子さん。落ち込まないでくださいよ。そんなこと由紀子さんは知らなくて当り前ですよ。これまで味噌汁を出していたのを後悔しているんでしょう。それは知らなかったんだから、もう気にしないでください。ああそうだったかくらいに考えて置けばいいんです。そうしておかないと、これからさきにやっていけませんよ。」

そういわれても由紀子は、それをありがたく受け入れる事ができなかった。其れよりも、自分のしてきたことが全部無駄になってしまうということが、悔しくてならなかったのだ。

「由紀子さん。そんなに落ち込んではだめです。これからこういう事はいくらでもありますよ。ただ好みが変わったくらいにしておいてください。」

そういわれても、由紀子はその通りだと思うことが出来ないのだった。そのあとにも、剣持は、スープの入ったお匙を口元へもって行って、飲ませる事を繰り返す。

「ほら、もうちょっとで完食です。頑張っていきましょう。」

剣持は、そういって最後の一口を水穂に飲ませた。

「よかった。無事に完食できましたね。これでいいんですよ。完食して下されば。」

さすがに杉三がやるような、よくできましたと言っておだてることはしないものの、なんとかして完食させることには成功した。

「じゃあ、少し横になりますか?」

剣持は、水穂をそっと布団のうえに横にならせた。そして吸い飲みに入れてあった水に粉薬を混ぜて、水穂に飲ませた。やっぱり薬には眠気を催す成分があるのか、水穂は薬を飲むとすやすやと眠ってしまうのである。

「よかった。今日も完食と記録しておきましょう。こういうことが、回復につながっていくでしょうから。」

と言って剣持は、枕元においてあった手帳に何か書き込んだ。これを沖田先生が診察にやってきたとき、見せるのだと言った。勿論、記録しておくことは大切なんだと思われるが、由紀子はなんだかそれを見て、介護しているというよりも、管理しているように見えてしまった。なんだか、そういうやり方に違和感を覚えたのである。

「由紀子さん、ちょっとお願いがあるのですが。」

ふいに剣持がそういったので、由紀子はは、はいと急いで反応をした。

「もし可能であれば、お仕事が休みの日に、介護用品店まで連れて行っていただけないでしょうか。先ず、介護用のバックレストと、あと、ストレッチャーを買ってきたいんです。」

「ま、まあ、其れって病院にあるものと同じではありませんか?それは、すでにビーズのクッションもありますし、ストレッチャーなら、華岡さんが作ってくれた手押し車で大丈夫なのでは?」

由紀子は、そう言い返したが、剣持は介護の専門家らしく、

「ええ、確かにそういう物でも代用はできる人もいるのですが、水穂さんはもう専門的なものを用意した方がいいのではないかと思います。そういう物は中途半端な役割しかしてくれないので、其れなら役目をしっかりしてくれる物を買った方がいい。」

と、反論した。それは言ってみれば、水穂がもう身近な道具では賄いきれなくなったという事だ。それでは、より悪化したということになる。

「と、偉そうなことをいっていますが、僕も足が悪く、クルマの運転はできませんので、由紀子さんにお願いしたいのです。」

と、剣持はまた言った。由紀子はそういう剣持にちょっと嫌悪感を覚えた。

「あら、剣持さん車の運転免許、持ってないんですか?」

由紀子はわざとらしくそう聞く。

「ええ、ないんです。足の悪い人間は、運転免許は取れないと、教習所の教官さんに言われてしまいました。」

「あ、ああ、そうですか。でも、クルマがあった方が当然便利だと思いませんか?いろんなところに移動もできるし。」

「そうですけれども、無理なものは無理です。そこはあきらめた方がいいと、理事長も言ってました。其れよりも、出来る事をちゃんとやったほうがいいって。できない事のせいでいつまでもうじうじしているのはやめて、出来る事を精一杯やる方が、人生も豊かになりますよね。だから僕はその通りにしたんです。」

「そうなんですか、、、。」

何だか剣持にやり込められてしまったような気がした由紀子だった。

「其れでも、何だか不思議ですね。足がお悪いのに、こうして誰かの世話ができる何て。あなただって、足の悪い分、誰かの手を借りなければならないのに。」

「ええ、まあ、そういう事はそうですね。」

全く悪びれた様子もなく剣持は言った。

「確かにそれは事実ですから、外すことは出来ません。でも理事長も言っていましたけど、足が悪くとも、出来る事はあると思うんです。それはきっと病んでしまったときの絶望感をわかってやれることだと思います。」

まあ確かにそれはそうだ。そこは誰にでもすぐにできるというものではない。それに、そういう人であればたしかに、その独特な絶望感をわかってやれるかもしれない。そうなると、周りの介護者も、その絶望感を聞かなくて済むから、はるかに楽なのかもしれなかった。

「もともと、僕は介護関係という仕事は嫌いではありませんでした。たしかに、余命僅かと言われた人たちを介護するのはちょっと辛いこともありましたけれど、それでもそれなりに、快適な生活を送ってもらおうと、努力しましたよ。ですけど事故にあって足が悪くなったときは、もう働いていた介護施設から文字通り解雇されてしまいましてね。その時は、もう何も出来ないのかって、絶望したんです。僕は他人に尽くすことで生きがいを見出すタイプですから、余計にそうでした。しかし、患者さんたちが、どうしても家族に自分をわかってもらえないと言っていたことを思い出しましてね。僕みたいな奴であれば、もしかしたら共感してやれるのではないかと思いついたんです。インターネットで居場所がないかたを沢山集めて、この事業を始めたんですが、予想以上に好評でした。患者さんたちからも、公表をいただいてますし、これからもこの会社を続けていくつもりですよ。」

剣持は、一寸照れくさそうに身の上話を語った。それは、とても素晴らしい発想と言えないこともなく、ある意味、こういう発想の会社が増えてくれれば、今悪人呼ばわりされている引きこもりとかそういう人たちも役に立つことはできるかもしれなかった。そういう人たちは確かに、きっかけはどうであれ大きな絶望を経験していることは疑いなかった。大病をした患者さんだって同じことだ。剣持はその絶望感を、共有しようと言っている。

「剣持さん、あなたはすごいことを考えたんですね。」

由紀子はそういったが、剣持のしている事業を、心からほめてやろうという気にはなれなかった。剣持のような他人の手を借りなければ生きていけない人物が、今こうして弱い人の世話をしようとしている。そこが憎たらしかったのである。

こんなことは思ってはいけないけど。

でも、そう感じてしまう由紀子だった。

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