第二章

第二章

翌日、由紀子はほとんど仕事に身が入らなかった。岳南鉄道を利用するお客さんたちは、変な駅員がいるんだなと、口をそろえて言った。駅長さんにしっかり仕事してくれと叱られても身にはいらなかった。気合の入らない一日を過ごして、せめて水穂さんのいる前ではしっかりやろうと思い、クルマで製鉄所へむかった。

製鉄所の中にはいると、玄関に一足、男性用の草履が置かれていた。何だと思ったら、ああもうジョチさんが電話して人を呼び出してしまったんだとわかってしまった。それでも、勇気を出して、建物の中に入ってみる。

「こんばんは。」

取り合えず四畳半に行くと、誰かが話している声がする。

「杉ちゃんの声ではないわね。」

杉ちゃんのキーの高い声とはまた違う、男性の声である。

「ゆっくり横になってみてください。静かに横になってください。頭をぶつけてしまわないように気を付けて。」

と、いう事はつまり、今まで起きていたのだろうか。あたしがいたときは、起き上がるのさえ、難しかったのに。

「よし、うまく行きましたね。じゃあ、僕は隣の部屋にいますから、なにか苦しいとかそういう事がありましたら、このスイッチを押して、呼び出してください。」

ヨイショ、と男性が立ち上がる音がした。片足を引きずって歩いてくる音が聞こえてくるので、足の悪い人物であるという事がわかった。私にもできることがあるっていうのはそういう事なのかと、由紀子は思った。同時に、なにか嫌な気持ちというか、そういう気がしてしまった。

ガラッと音がして、ふすまが開く。

由紀子が後を振り向くと、一人の中年男性が、四畳半から出てきたのであった。

「あれ、あなたはどなたですか?」

由紀子はそういわれて、返答に困ってしまった。

「あ、あたし、今西由紀子ですが。」

由紀子は急いでそういうと、

「そうですか、わかりました。僕は剣持素雄と申します。まあよく怖そうな名前だと言われますが、そんな怖い男ではありません。剣持という姓は、九州ではよくある姓なんです。」

と、その人はいった。とても柔らかそうな感じの人で、割と静かな雰囲気を持っていた。たしかに苗字にありそうな、強そうな雰囲気は何処にもなかった。つまり怖い人とか強い人とかそんな印象は全くない。優しくて上品できちんとした感じを与える人であった。

「すみません。あの、水穂さんは。」

由紀子がまた聞くと、

「あ、はい。先ほど夕食を召し上がって、今眠っていらっしゃいますよ。」

と、剣持さんは答えた。

「それでは、もうご飯を食べることはできたんですか。」

嘘ばっかり、昨日まで三日以上食べものを口にしていなかったのに。なんで今日に限ってうまく食べれたんだろうか。

「ええ。と言っても、味噌汁を口にしてくれただけですけどね。かなり衰弱してしまっているようで、食べさせるのもかなり苦労したのですが、焦らずにゆっくりやることが一番なんじゃないかと思います。」

「そうなんですか、、、。」

由紀子は、文字通り剣で刺されたよううな衝撃を受けた。昨日あれだけ苦労してご飯を食べさせった

のに、それをもうすぐに解決させてしまうとは。一体この人、どういう技術を使ったのだろうか。

「由紀子さん、でしたよね。理事長から聞きました。素人なのに、一生懸命看病していて、すごく偉いなと思いましたよ。でも、かえって、面倒なこともあるのではないですか。ですから、もう安心して仕事に専念していただいて、かまいませんから。」

剣持は、にこやかに言った。由紀子はなにも言えずにいる。

「じゃあ、なにかありましたら。」

と、剣持は静かに部屋を出ていった。

「水穂さん。」

由紀子は部屋に入る。水穂さんは確かに布団の中で眠っていた。枕元の薬入れも、体温計も吸い飲みも、きれいに整理されている。たぶん剣持が直していったんだろう。由紀子は静かに枕元にすわった。

多分、いい気持ちなんだろうか。水穂さんは静かに眠っていた。かつては、血の匂いで充満していた部屋の中の空気が、なぜかさわやかなものになっている。どうしたんだろうと思ったら、部屋の片隅に空気清浄機が置かれていた。其れも最新型の静音仕様のもので、動いているのかいないのか、よくわからないほど静かだった。其れのおかげでよく眠れているんだろう。それじゃあ、あの空気清浄機に感謝しなきゃいけないのだが、、、由紀子はそういう気にはなれなかった。

それにしても、畳もきれいに掃除されて、塵一つ落ちていないし、部屋の様子は、非の打ちどころがなかった。それでも疑問はただ一つ。ご飯をどうやったら吐き出さないで食べることができたのかという所だった。ここはどうやって解決したのだろうか。

翌日。その日は駅員のしごとがなかった。そういう日は必ず製鉄所にいくようにしている。対して用事があるわけではないけれど、そばにいてやりたいという気持ちから、由紀子は必ず製鉄所に行くようにしている。

「こんにちは、由紀子です。お手伝いに来ました。」

ほかの利用者も、彼女がここにやってくることは知っているので、特にそれについて文句を言う物はなく、由紀子はすぐに中へ入らせてもらった。

「水穂さん、おはよう。具合はどう?」

四畳半のふすまを開けると、その音で水穂は目を覚ました。

「昨日はよく眠っていたようだけど、この空気清浄機のおかげかしらね?」

水穂はどうかなと首を横にかしげる。

「ほんとに、ぐっすり眠っていらして、気持ちよさそうだったわよ。」

「そうですか。」

水穂はそういって軽く咳き込んだ。由紀子はその口元を拭いてやった。丁度そこへふすまが開く。

「由紀子さん、いらしていたんですか、なら心強いですね。水穂さん、朝ご飯食べましょうね。昨日あれからずっと眠っていて、目を覚ましませんでしたからね。」

剣持が器の乗ったお盆をもってやってきたのだった。由紀子はどういうテクニックを使って食べさせるのか知りたくなって、ここに居てもいいかと聞くと、快く承諾してくれた。

「由紀子さんはそこに座っていてください。」

剣持がそう指示を出して、由紀子は縁側に座らされた。

「じゃあ水穂さん、新しい器を買ってきましたから、どうぞ。ほら、みてください。杉三さんが買ってきてくださったものです。」

剣持は器を水穂に見せた。櫻の花が絵付けされた、確かにかわいらしい感じの器だった。一見すると女の子の器のような感じだが、量から判断すると男性向きに作ってあるものである。最近は、外国人がお土産に買っていくことも多いから、こういうデザインが流行っているのだろう。

「それではこのスープ、飲んでみましょうね。ほらいいですか。ゆっくりと、このお匙に口をつけて。」

剣持は水穂の口元へお匙をもっていった。それで大丈夫かと由紀子は心配だったが、剣持はしずかに口の中へ中身を入れて行く。吐き出してしまうかと思ったが、案外食べるのだろうか、口に入れたあとは、背中をさすって飲み込めるようにしてくれたのだった。中身はヴィシソワーズというジャガイモをつかったドロッとしたスープで、食べるのか飲むのかよくわからない部類に入るが、其れがよいらしかった。さらりとした味噌汁よりも、そういう物が食事としては適しているらしい。

「よし、大丈夫だ。もう一口行ってみましょうか。」

と言って剣持は、口元へお匙を持って行った。水穂は中身を静かに飲み込んだ。咳き込むしぐさはまるでない。特に変におだてたりとか、強制したりとか、そんなテクニックを使っているわけでもないのだが、静かに中身を飲み込んでくれたのである。

どうして。

由紀子は、がっくりと落ち込んだ。あんなに私にはたいへんな思いをさせて食べさせていたのに、なんで剣持さんが出すと、ああして簡単に食べてしまえるのだろうか。

「ヴィシソワーズは食べやすいですからね。ゆっくり食べてくださいよ。これからも杉三さんに、こういうスープを作ってもらうことにしましょう。ご飯よりもこういうほうが、食べやすいかもしれませんね。」

「ちょっと待ってよ、ご飯って。」

剣持がそういうと、由紀子は思わず言い返した。

「だから、ご飯はご飯ですよ。ご飯と言えばお米のご飯に間違いないでしょう。お米のご飯よりも、こういったスープやペーストのほうが、食べるのは楽なのかもしれないですよ。」

剣持は、それを当たり前のように言う。そうかそういうテクニックを使ったのかと由紀子はまたがっかりと落ち込んだ。水穂さんにはまだ出来る事があったのかと。

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