「エリザベート・ファースタンバーグ」という生き方 2
三等軍曹になったばかりのエリザベート・ファースタンバーグの朝は早い。
毎朝五時には起きてランニングとワークアウトをするのが日課だ。
だが二〇〇五年以降の相棒であるジョニー・ジャクスン二等軍曹の目覚めはもっと早くなっており、たいてい四時に目を覚まし、五時までにランニングとワークアウトをすませ、シャワーを浴びた後は本を読んだり勉強している。
つまるところ、ジャクスンとファースタンバーグが恋人同士らしく朝の起き抜けにイチャイチャすることは休暇中以外は起こりえず、それが不満ではなかったかといえば噓になる。
だが、ファースタンバーグは自分が意外なほどにジャクスンに依存しているのを自覚していたから、そのことであまり何かを言うことはなかった。
それに休みの日──訓練中なら外泊した日曜の朝──は猫のように甘えることにしていたから、まぁバランスはとれているつもりだ。
八月十五日、土曜日。
終戦記念日の朝は快晴で、キャンプ・シュワブ東岸の砂浜から望む太平洋には、徐々に赤みを増していく東の空が美しく映えていた。日の出まであと一時間。
大浦湾を挟んだ対岸には、秋津洲海軍第五陸戦旅団の駐屯地が広がり、そちらのほうでもランニングをしている若い兵たちの姿が見えた。
砂に足を取られながら浜を走り、岬の先端に出て見渡すと、南の空がわずかに明るい。普天間宇宙港はロケット打ち上げ準備の真っ最中のようだ。
北を見渡せばうっそうと茂る亜熱帯林。小鳥のさえずりが増している。彼らも目を覚ましつつあるようだ。
エリザベート・ファースタンバーグ、戦後生まれの六十二歳。テネシー州バトラー、ワトゥーガダム湖のそばに生まれた彼女は、この光景が大好きだった。
◆
「
炎天下、
号令を掛けられた将校、退役兵たちは解散せず、むしろそれまでよりよほど背筋を伸ばし、まっすぐ列を成したまま、互いの列に向かって歩き始める。
広場の中央で彼らは握手と敬礼を交わし、うなずきあう。
それでようやく式典は終わり。
正午から始まった終戦記念式典は例年通りきっかり一時間で終了し、首里平和記念公園に集まった軍人、民間人はみな一様に気を抜いた。
この一連の式典は、六八年前に秋津洲が講和受け入れと合衆国との戦争状態の解除を宣言したとき、沖縄での秋泥双方の将校団が当地で行った故事に倣ったものだ。
一九四五年六月三日に秋津洲軍の降伏が行われた沖縄本島。
神代兵装が振り撒いた呪いと核兵器のばらまいた放射能に塗れたこの地で、血を吐き肉を腐らせながら、彼らは戦災対処を共に戦い、この首里の丘で玉音放送を聞いたのだ。
解散が命じられた後も、壇上では両軍の高官および当時を生き抜いた退役兵や民間人たちが、談笑したり抱き合ったりしている。
その中心には今や合衆国海兵隊特殊作戦コマンド特設救難大隊を率いる、少佐閣下あらため中佐がいた。
「ほんとに顔広いよな、中佐殿」
となりでファースタンバーグが軽くうなずく。休めの姿勢ではあっても、びしりとした雰囲気は変わらない。
「作戦中でもなければ毎年沖縄の終戦記念式典は顔出してるしな。頭が下がるよ。六八年前の沖縄戦、暴走した神代兵装に止めを刺したのは、原子爆弾じゃなくて閣下と、あの鬼の男女ふたりだそうだ」
訳知り顔でスミス大尉が同じ姿勢で相槌を打った。
彼ら特設救難第9小隊は朝一の連絡便で沖縄にやってきた中佐閣下のお供を命じられ、式典に参加したのだ。
スミス大尉の目はふたりの鬼族──ふたりとも片方の角が根元から切られてしまっている──に向けられていた。
「あのふたり、いつも二人一緒にいるから双角って呼ばれてるんだとさ。どっかで聞いたような話だよな」
スミスがジャクスンとファースタンバーグをからかった。
ジャクスンははにかんでちょっとうつむき、ファースタンバーグは口元を少し歪めただけだった。
「軍の階級はなく、宮内庁付らしいが、たしか中佐相当だったはずだ。当時の話をあのふたりと中佐殿から直接聞きたい気持ちもあるが……やめておこう。安易に踏み込むのは憚られる」
スミスの言葉に小隊の隊員たちは、皆一斉に頷いた。
思えば閣下、あるいは階級でしか呼ばれない堕天使の軍人が、沖縄戦で何があったかを話すことは、国内でも国外でもあまりなかった。
その中佐は今も、壇上で車いすに座ったままの退役軍人たちと泣いたり笑ったりしている。まるで宗教画のような光景だ。
スミスたち若い海兵には、それが神聖にして冒さざるべきものに思えたのだ。
そこに中佐の副官を長年務める、バート上級曹長がのしのしとやってきた。
彼はスミス大尉の前で立ち止まり、きびきびとした動作で敬礼を行った。
スミスはオークに似つかわしくない、すらりとした体形に見合った優雅な所作で返礼する。
「中佐殿より伝言です。この後すぐに嘉手納より帰国する、見送り無用。小隊はただちに解散すべし。誠に相すまぬ。とのことです」
スミスとジャクスンは片眉をひょいと上げた。
「それほどまでにお忙しいのか」
「ワシントンとアングリーズに呼ばれました。すぐ帰って来いと」
バート上級曹長はバツが悪そうに返答した。
「大魔王閣下と元老がたのお呼びとあらば致し方ない。中佐殿自身が一番残念でいらっしゃるだろうし。今度来られた時、あるいは我々が帰国した際はぜひにとお伝えいただきたい」
スミスはバートを下にも置かない態度でそう述べた。
実際、バートのほうが軍歴は圧倒的に長い。三〇歳を過ぎたばかりのスミスにしてみれば、バートは父親のようなものだ。
「承知いたしました、大尉殿。それから、自分も残念です」
「オークとオーガーの酒飲み対決は勘弁してほしいな。俺はそこまで飲めないよ」
それでバートはニヤリとし、それからジャクスンをチラリと見た。
ジャクスンは改めて背筋を伸ばした。いたずらを親に見つかった子供のような顔。
バートはそれだけで何か得心したのか、クスリとするとスミスに向き直った。
「では、大尉殿」
「はい、上級曹長」
スミスとバートは敬礼を交わし、バートはまたのしのしと立ち去った。
「というわけだ。せいぜい一般人と秋津洲兵に舐められんようにしろ。解散」
スミスが命じると、第9小隊のものたちは今度こそ姿勢を崩し、三々五々、しかし背筋は伸ばして駐車場へ向かいはじめた。
だがひとりだけ、その場にとどまろうとする者がいる。
ファースタンバーグだ。
「レイザー?」
「ごめん、ゴッディ。もう少しだけこの光景を眺めてたいんだ」
「そうか。そうだな。じゃあ、俺も」
「イラクやアフガニスタンで知り合った人たちとも、ああいう風に話ができる日が来るのかな」
「来るよ。きっといつか」
憧れではない。
憐憫でもない。
だが二人にとって、目を逸らしがたいものが、そこにはあった。
◇
どうやら本当に時間がないらしく、それから間もなく中佐たちは去っていった。
遠目にジャクスンたちに気が付いたのか、小さく手を振る。
ジャクスンたちは気合の入った敬礼を捧げ、中佐の答礼を待って姿勢を崩した。
回れ右すると、そこに二人の士官が立っていた。
反射的に敬礼を行ったジャクスンとファースタンバーグの反応は、ものの見事に真っ二つだった。
「お久しぶりです、アイスマン」
喜色満面、今にも「どの面下げてやってきたんだこの色男!」とでも言いたそうなジャクスンに対し、
「……」
顔面から表情の失せたファースタンバーグ。
「久しぶりだな、ぶよぶよ野郎。生意気上等兵も久しぶりだ」
アイスマンと呼ばれた長身のアイルランド系白人、トッド・ヒルビリー大尉は答礼するとジャクスンの肩をばんと叩き、ファースタンバーグにも微笑んだ。
ファースタンバーグはにこりとし、気を付けの姿勢を取る。
目の前のもう一人の士官にはできるだけ目を合わせない。
「アイスマン、いつこっちに?」
「中佐閣下と一緒の連絡便で。着任報告はもう済ませた。月曜から第三大隊J中隊の中隊長に就くことになる」
「懐かしいな! おっと失礼、もう大尉殿だった」
「構うか、俺とお前の仲だろうが」
ジャクスンとヒルビリーは訓練同期だ。
彼らとあと何人かの訓練同期生たちは、二〇〇三年のアフガニスタンで肩を並べて戦った。第三海兵大隊J中隊。ファースタンバーグもそこにいた。
「了解。ところでそちらの中尉殿は?」
笑顔でうなずいて、ジャクスンはファースタンバーグを睨みつけるように佇む中尉を紹介するよう促した。
黒髪、褐色の肌、長い耳。黒エルフの女性だった。
ファースタンバーグよりいくらかほっそりし、背はわずかに低い。
「ああ、こっちはジョー・ホウプネフ中尉。レイザー、君と同郷と聞いたが?」
いくらか気づかわしげに、ヒルビリーは顎を撫でながらファースタンバーグに水を向けた。
それでようやく、ファースタンバーグはホウプネフ中尉の目を見た。
「存じております。実家は隣同士です。お久しぶりです、中尉殿」
「ああ、三等軍曹」
ホウプネフは「三等」にアクセントを置き、ファースタンバーグに返事をした。
それで二人の黒エルフの関係性は、ある程度知れたようなものだ。
一触即発、とまではいかずともかなり険悪な空気になったところを、アイスマンが陽気な声で遮る。ジャクスンもそれに相乗りした。
「中尉は三等軍曹と階級抜きの話を希望している。この後はどうせみんな非番だ。積もる話もあるし、な」
「そりゃいい。スミス大尉も都合良けりゃ呼ぼうか?」
「ああ。お前たち、宿舎はどこだ」
「俺たちは今んとこキャンプ・シュワブだ。ひっそりしてて落ち着ける」
「了解。俺たちは今日のとこはキャンプ・フォスターだ。じゃあ、そうだな、十七時にキャンプ・コートニーの正面ゲート前で」
「どこで飲むんだよ。那覇まで行くのか?」
「うんにゃ、普天間宇宙港の東にいい感じのとこがあるんだよ……」
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