2-3.5 不思議の国の海兵隊 アフガニスタン2008

四つ脚の男

 イスカンディアル・マフードは、大地を必死に駆けている。

 四つの脚で駆けている。

 何もかもを置き去りにして、赤茶けた山肌を駆けている。

 彼は大昔にアレクサンダー大王とともにこの地にたどり着き、そしてこの地にとどまったケンタウル・アフガニ族の、数少ない若者だった。

 その彼はハザラ人とともに暮らしていた村から必死に逃げていた。

 そこはもう安全な場所ではない。

 パシュトゥ人の旧政権残党軍によって攻撃されていた、からではない。

 旧政権残党軍、などと言っても殆どは野盗のたぐいだ。

 女子供を隠し、水と食料とISAFの情報を与えてやれば、家の土壁にAKの弾丸をちょいとばかり撃ち込まれるだけで済む。

 もちろん、ひどいときは誰かしら腕を落とされたり、もっとひどいときは首を落とされたりする。

 バーミヤンの石仏が破壊されたときなどは、ハザラ人ともどもケンタウル・アフガニ族も滅ぼされるところだった。

 だが昨今ではよほどのことがない限り、村ごと灼かれるようなことはなかった。


 その村が燃えている。

 夕日の中で赤々と。

 煙を上げて黒々と。

 その業火の中でゆらゆらと蠢く者たちが居る。

 グール。

 ゾンビ。

 ハラーム。

 アノニマニシス。

 様々な名で呼ばれるそれら食屍鬼は、ゆらゆらと蠢きながら家族や隣人を襲って食べ、襲われたものもまたそれらになっていた。

 

 村の東の険しい峰々、その頂きを目指して駆けるイスカンディアルが振り返ると、砂塵を蹴立てて何人かの同族が後を追ってきているのが見えた。

 いや──違う。

 あのよたよたと走るさまは。

 腕を前に突き出し何かを求めるさまは。

 彼らは、もう彼らではなくなってしまった。


 イスカンディアルは父に持たされた古い無線機を操作した。

 今は亡きソ連製のそれは、別の村の同族やハザラ人、ISAFと連絡する際に用いていたもの。大昔の携帯電話のような、携帯無線機ウォーキートーキー

 まだ山頂には到達していないが、中腹ともなれば十分高度は有る。近在のISAF部隊に届くかもしれない。

 イスカンディアルは一縷の希望を込め、無線機に呼びかける。

 

「────、───、──────────?」


 思いもかけず、無線はすぐにどこかにつながった。

 だが相手の言葉がわからない。

 イスカンディアルはダリー語、パシュトゥ語、片言のウズベク語や、ほんの数語しか知らないブリテン語を使って呼びかけた。

 それでも相手は、こちらのわかる言葉を使って返答しなかった。

 彼は急に面倒くさくなり、無線機を手にしたまま、全力で山頂を目指した。


 げほ、と咳き込んだ。

 びちゃり、と血が口から胸へ溢れ出す。

 イスカンディアルはそれを見て、無理もないか、と独り言ちた。

 村のある谷底ならまだしも、このあたりの山中は空気がひどく乾燥している。

 全力で走って激しく息継ぎをすれば、気管もひび割れ血も漏れる。

 それでも彼は山頂を目指した。

 彼の後ろにはヒトでなくなった彼の仲間。

 疲れからか目が霞んでよく見えないが、その後ろにはいくらか人影が続いている。

 村人と、旧政権軍ゲリラたちだ。

 だが、いまや誰も彼もが、よたよたと歩き、あるいは走っている。

 いまや誰も彼もが、人でなし・・・・だ。

 それでも彼は、なおも山頂を目指した。


 やがて彼は険しい山肌を登りきり、山頂にたどり着いた。

 西の眼下では彼の村が燃えている。

 東の谷の砂漠の向こうに、パシュトゥ人の村が見える。

 彼の村を焼いた、パシュトゥ人の。

 振り返れば、彼と寝食をともにした村人だった者たちが、まだ付いてきている。

 イスカンディアルが東の谷へと向かって山肌を駆け下りようと身じろぎした時、不意にぱたたた、と何かが空気を叩く音が聞こえてきた。

 その音がしたほうを見ると、疲れで滲んだ夕暮れの空に、黒いシミのようなものがぽつぽつと浮かび上がる。ISAFのヘリ部隊だ。あの方向はカンダハールだ。

 イスカンディアルはおおい、おおいと声を上げて手を振った。

 口からあふれる血はどす黒く、皮膚からは張りが失われ、血の気の失せた色をしていたが、彼はそのことを気にしなかった。

 首からぶら下げていた無線機は、今も訳のわからない言葉を吐きだしている。それも彼は気にしなかった。

 おおい。

 おおい。


 黒いシミ、今やはっきりと合衆国海兵隊のヘリコプターとわかる明灰色のそれが二機、編隊を離れて彼に近づいてきた。

 疲弊して視界のぼやけた彼の目にも、何人もの合衆国兵がヘリに乗りこんでいるのがはっきりわかる。

 一機は彼を中心に遠巻きに旋回をはじめ、もう一機はまっすぐ近づいてきた。

 その一機からロープが二本下ろされ、海兵隊員が二人、ロープをつかんで滑り降りてくる。ピンクの肌と、褐色の肌。

 巻きあがる砂ぼこりの中に降り立った合衆国兵に向かって、イスカンディアルは駆けだした。

 何を言いたいのか、どうしたいのかは、彼にもわかってはいない。

 何かの衝動につき動かされ、そうしたに過ぎない。

 海兵たちはライフルを構え、何事か喚いた。

 知るものか、知ったことか。

 イスカンディアルは四つの脚で、どす黒くなった血をまき散らしながら、彼らに駆け寄る。

 褐色の肌の海兵が発砲したその瞬間、イスカンディアルは足元の石を踏み砕いた。重心が変わり上体がぐらつく。

 弾は逸れ、彼の馬耳を弾き飛ばし、彼と褐色の合衆国兵の間にピンクの合衆国兵を挟み込むような進路を取ることになった。

 ピンクの肌の海兵は発砲し、弾はイスカンディアルの頬と胸に当たって大きな風穴を開けたが、知ったことではなかった。彼は衝動のままにピンクの肌の海兵に掴みかかる。どす黒く粘ついた血液で塗れた口を大きく開け、海兵に噛みつこうとし、海兵と目が合った。


 海兵は悲しそうな目をし、その直後、海兵の顔面が左右に分かれた。

 中から現れたのものを認識する暇は、イスカンディアルにはなかった。



「クリア! クリアだ!」


 頭に隠していたM9拳銃の筒先から紫煙を立ち上らせつつ、ピンクの肌のスライムであるジョニー・ジャクスン海兵隊三等軍曹はがなった。

 彼の眼前には、グールと成り果てた若いケンタウル・アフガニ。その頭部は9mm拳銃弾で中身が吹き飛ばされている。


「ヒヤッとしたぜ、三等軍曹」

「俺もたまにはやるもんだろ、伍長」


 褐色の肌の海兵、エリザベート・ファースタンバーグ伍長が声をかけ、ジョニーはニヤリとした。

 だがその表情に余裕はない。


「しかしな。彼を見ろ。サミーが言ってた甥っこって、彼のことだぞ」


 顎をしゃくって、こと切れた若いケンタウルを示す。

 エリザベートは天を仰ぎ、ため息をついた。

 サミーはカンダハールまで行商しに来るケンタウル・アフガニの中年男性で、情報提供者だった。彼は甥のことを案じていた。


「なんてこった」

「全くだ。サミーが『甥の村がアノニを雇い入れた』って言うから嫌な予感がしたんだ。見ろ、あの左手の先を。齧られた跡がある。彼はただの被害者だ」


 ジョニーは頭を元の形に戻しながら悪態をついた。


くそったれサック! サミーになんて言やいいんだ」


 舞い上がる砂ぼこりのなかに佇む彼らの無線機に、通信が入る。


『ジョニー、十一時からグールだ。距離八百。急いでヘリに戻れ。ネーデルラント特殊戦があとを引き継ぐそうだ』


 ジョニーはベッと地面に唾を吐き、答える。


「アイサー、小隊長」

『腐るな、ジョニー。俺たちの仕事はこれからだ』

「村の消毒と外科手術、ですね」

『そういうことだ。俺たちの仕事だ、慣れたもんだろ』


 少し離れたところに着陸したヘリへ向かって、ジョニーとエリザベートは走る。


「確かにね」


 ジョニーは砂塵に塗れるケンタウル・アフガニの青年の死体を振り返る。


「だが、好きで慣れたわけじゃないぜ」

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