戦場への帰還②
二〇〇七年三月九日、イラク、モスル。
〇五〇〇時ぴったりに起床し、宿営地のフェンスの内側ぐるりを四〇分ばかり走り込み、シャワーを浴び、着替え、〇五五五時にうちの班のカワイコチャンたちを起こしに行くのが俺の日課。
その日は違った。
二周めの正面ゲートに差し掛かったとき、そこから入ってくる陸軍のハンヴィーを見た。中に座っているのはひと目でわかるベテラン連中。
M4A1カービンにトリジコンのダットサイト、陸軍の旧型デザートタン戦闘服に最新型のプレートキャリア、無線機ゴテゴテ、全員がひげ面サングラス。
陸軍特殊部隊、グリンベレーだと直感した。
「
俺は彼らに駆け寄り、敬礼せず軽く挨拶。
義兄弟で地元の海兵の大先輩、元
”
すると先頭車両の助手席に座っていたアイルランド系、赤毛のヒゲ男──いや全員ヒゲ面だったけど──が、右の眉をひょいとあげ、好意的な笑みを見せた。
「おはよう、ああ、」
「ジョニー・ジャクスン三等軍曹。
「そのとおりだ。ああ、俺はアーサー・シンクレア大尉。よろしく、三等軍曹」
「はい、大尉殿。ではご案内します。お車はあちらへ」
「ジェンキンス、俺は三等軍曹と大隊本部に行く。車をあっちの駐車場に停めたら待機しろ。准尉、ついてきてくれ。では三等軍曹、頼む」
ハンヴィーから降りた彼からはツンと、汗と垢と乾いた血の匂いがした。
◇
正面ゲートの詰め所から連絡が行っていたのだろう、大隊本部司令室入口前にはすでに大隊長であるハロルド・フォスター少佐はじめ、お偉方が待ち構えていた。
俺は彼らの前で立ち止まり、かっこよく敬礼し(たつもりだった。実際はどうか知らんぜ?)、シンクレア陸軍大尉をお連れした旨を報告。
フォスター少佐は身長百五十九センチ、体重百二十二キロ、筋肉だるまのドワーフだ。これでもドワーフの中じゃひょろなが体型らしい。
彼は鷹揚にうなづくと、シンクレア大尉たちを誘って司令室に入っていった。そのあとに続きかけたハミルトン曹長を呼び止め、どうすればよいか伺う。
昨日のスレンダーでエッチな若奥さまという風情はどこへやら、彼女は美貌の戦士としての風格でこう言った。
「小隊に伝達、本日の小隊オンラインミーティングはキャンセル。三班から五班は派遣先中隊の指示に従え。一班二班は待機。急いで待て」
俺は背筋を伸ばして敬礼し、命令を復唱した。
頭の片隅では「前にもこんなことがあったな」と考えている。
二〇〇三年のアフガニスタン。
忘れようたって忘れるもんか。
◇
急いで待て。
どこの軍隊の下士官に聞いても、これこそ大事なことの一つだとみんな答えるだろう、待機時の心構え。
リラックスしながら、油断せず、常に備える。
秋津洲のソード・マスター、ムサシ=ミヤモトの肖像画がまさにそれだ。
「だからってぶんにょりしすぎじゃん?」
「そうでもないよ」
時刻はもう〇七一三時。ねぼすけの兵隊たちもみんな起きてきて、ワイワイガヤガヤと朝食をとっている。
班長アイシャのことばに反駁しながら、食堂の椅子の上で俺はぶよぶよ震えた。
戦闘服もプレートキャリアもライフルも、装備一式身につけてはいるが、その姿はよくてゼリーの人形に服を着せたもの、悪く見ればどうにか人の形を保った腐乱死体ってところだった。
おまけに棒付きキャンディーを口の中で転がしながら、腕の一本を伸ばして相棒の首根っこを揉んでやっているとなれば、アイシャの指摘もごもっとも。
だが最近はこの状態のほうが調子がいい。スライムは所詮スライムだ。
一見だらけきってちょっと形があやふやな俺の頭の四囲には、目立たないようひっそりと広角レンズの目を作って全周監視をしている。さらにそのピンクの頭の中には、私物のキンバー9mmマイクロキャリー。弾はもちろん軍用
モスルはそれまで結構平和だったから、そいつが火を噴いたことはなかったが。
「あの人たち、何しに来たのかな」
「
「そりゃそうだけど」
ステンレスのテーブルに胸をのっけて頬杖ついたアイシャに、レイザーが勝ち誇ったような流し目をくれながら合の手を入れる。
アイシャはぷっくりほっぺたを膨らませて、俺の脛を机の向こうから蹴り上げた。
幸い、骨は溶かしていたから痛くも痒くもない。
「気にしたってしょうがない
俺は部下としての言葉遣いで、ちょいと偉そうなことを言ってみた。彼女は今回の出征が初めての実戦だったんだ。
それでも難しげな顔をしているもんだから、俺は舐めていた棒付きキャンディーを差し出した。彼女は一瞬迷うそぶりをしてから、嬉しそうにパクリとかぶりつく。
すると今度はレイザーに、かかとで脛を蹴り上げられる。
周りの兵隊連中はこっちをうらやましがったり、頭を振ってため息をついたり。
見せつけちゃってすまんね、どうも。
てなことをしていたら、後ろから声をかけられた。
「見せつけるじゃないか、三等軍曹」
声の主はシンクレア大尉殿だと分かったが、俺はびっくり仰天だ!
いったいこの人はどこから沸いて出てきたんだ?
俺は他人にはわからないように目玉をいくつか作って全周警戒していたのに、この人の接近には一切気がつかなかった。
それでも俺は慌ててなんかいない演技をしつつ、さっと体に芯を通した。
なるたけベテランっぽく見えるように、しかし素早く立ち上がる。
同時にレイザーの肩を軽く叩き、彼女が素早く、しかし人知れず手を伸ばしていた拳銃を仕舞うよう促した。
アイシャが号令をかけ、俺たちと周囲の兵隊連中が一斉に従う。
「
「お見苦しいところを失礼いたしました、大尉殿」
「いや構わん。たしか君はアフガニスタンにも従軍していたな? ベテランなればこそ、その態度だ」
改めてシンクレア大尉を観察する。
歳のころは四〇前後。アイルランド系の白人、赤毛、ヒゲ面……はもう言ったか。
高く突き出た額、がっしりした頬骨とあごと鼻梁。肩幅も胸も腰も、何もかもががっしりしているが、実にスマートな印象。右の額に銃弾が掠めてできた傷。
何より特筆すべきは、何もかもを見透かしていそうな深い藍色の瞳だった。
「お、二班は全員そろっているな」
そこにハミルトン曹長たちもやってくる。
彼女はシンクレア大尉の半歩後ろに立ち、ビッとした態度で俺たちに命令した。
「休め。諸君、こちらは陸軍
俺たち二班は背筋を伸ばし直して「アイアイ、サー!」と答え、俺自身はもう一度シンクレア大尉殿の目を見た。
そこにはごくわずかな、しかし確かな憂慮の色があった。
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