ぶよぶよ衛生兵、海兵隊に戻る⑤

 食堂を辞し、入浴室の熱いシャワーで体をほぐして廊下に出ると、レイザーとアイシャがそこで待っていてくれた。

 ふたりともラフな格好──とは言っても3月のイラク北部はそれなりに寒いから、長袖長ズボンのジャージ姿──で、そこはかとない色気がにじみ出ている。

 良い匂い? もちろんしてた。

 それに当てられたのか、俺はうっかり本音をボロン。


「……ふたりともすごく素敵だ」


 二人とも目を真ん丸にして驚いて、それからふにゃってなって、俺を挟み込んで廊下を歩きだす。

 それぞれの部屋までのわずかな距離、わずかな時間のデート。

 結局俺たち三人は、お互いがお互い同士、大好きだったんだ。


「こうしてると、エニワの訓練を思いだすね」


 レイザーがしみじみと言うと、


「あの時は悪かったってば」

 

 とアイシャが苦笑する。

 俺たちの関係がこうなったのは、確かにエニワのあの夜がきっかけだった。



「でぇええええい!! ちょっと待てぇえええええい!!」


 雪洞の中で目の座りきったレイザーに押し倒されつつあった俺は、その辺から雪をこそぎ取り、手を伸ばして彼女の首筋と背中に押し込んでやった。

 一瞬レイザーはうれしそうな顔をしかけたが、その二秒後。


「冷たッッッッッッッッッッ!?!?!?」


 と叫んでのたうち回り始める。

 雪の冷たさで正気に戻ったのだ。

 ふふふ、背中に入った雪はなかなか取れぬであろう。

 許せ相棒。お主の犠牲は無駄にはせぬぞ。

 

 といった次第でアイシャのほうをゆっくり振り返ると、いやに荒んだ、何かをあきらめた表情でうつむいて海兵胡坐していた。


「そりゃあ一体どういう表情なんですかね、二等軍曹殿?」


 自分の発音がすごく意地悪で、我ながらびっくりしたのを覚えている。



 汗には大量のフェロモンが含まれる。

 それ自体はどの種族でも同じだが、サキュバスのフェロモンはほぼ全ての種族の男性に対して有効なことが大きな特徴で、多少効力は落ちるものの、女性にも効果はあるらしい。


 彼女たちは生来の魔法力感知能力で標的を捜索し、フェロモンで標的をおびき寄せ、魅了チャームで抵抗力を奪い、睡眠スリープで淫夢を見させ、脳と休んでいる身体との間に発生する電位差を魔力に転換して摂取することができる。

 目を覚ました標的に残るのは、軽い疲労感だけ。

 決して性交渉で直接的に生体エネルギーを吸い取るわけじゃないし、男ばかりを狙うわけでもなかった。

 むしろ少なくない数が女性を標的にしたそうだ。


 だがほかの種族たちはわざと誤解し、彼女たちを様々に差別した。

 そうやって被差別種族を一つ作り出したほうが、何かと都合が良いからだ。

 だからこそ彼女たちは魔女狩りの時代に甚だしく弾圧されたし、現代でも非常に根強い職業差別が残っている。ストリップダンサーやコールガール、ビデオモデル以外の職業につけるサキュバスのほうが少数なんだ。


 高校生時代のアイシャは周囲からの圧力に苛まされる、ごく普通のサキュバスの女子だった。つまり、性的な嫌がらせといじめの対象にされてたってことだ。

 そんな環境が嫌で海兵隊へと逃げ込んだ彼女は、ブートキャンプで初めて自由と平等というものを得た。海兵隊にも陸軍にも種族を問わず、ひどい境遇からの脱出を夢見て逃げ込んでくる者がたくさんいて、訓練教官D.I.たちはその夢をかなえることを全力で後押ししてくれる。女性の場合は特にそうだ。

 そんな彼女を、海兵隊上層部は衛生課、つまり看護師にさせたがったが、彼女は歩兵になることを選び、それは適えられた。

 歩兵学校でも性別ごとの小隊編成だったから、特に大きな問題は起きなかった。


 問題が起きたのは部隊配属後のことだった。

 東海岸側の大隊のB中隊第二小隊──関係者のために詳細は伏せる──に配属された一カ月後、彼女は演習中に隣の小隊の上等兵に襲われそうになった。

 そこまではいわゆる「稀に良くある話」で、通常は隊内処分で済む話だ。つまり中隊の責任で、犯人は中隊下士官からこってり絞られ、罰直を受ける程度の話でしかない。

 だがその上等兵は軍法会議の開催を求めた──アイシャが彼に魅了チャームをかけたのだとして。


 軍法会議の結果、彼女は罪に問われることはなかった。

 だがその過程で、与しやすしとみた幾人かの高官や上司によって、彼らの人事工作の道具として扱われるようになってしまった。

 幸いというべきか──いや、俺は間違っても「幸い」などとは言いたくない。幸運なんかであるものか──ともあれ誰かに無理やり抱かれる羽目になる、ということはなかった。

 そのかわり、性的な嫌がらせ、同性からの嫌悪といじめは苛烈さを増し──それでいて人事工作に携わった褒章として階級は上がった。

 それは同時に脅しでもあり、首輪でもあった。


「あたしは娑婆になんて戻りたくない。あの下町コンプトンに戻ってヤク漬けのストリップダンサーなんて、まっぴらごめんだわ」

「なるほどね」


 ストレイト・アウタ・コンプトン出所してもこの街に戻る。カリフォルニアのラップグループN.W.Aの発したそのメッセージは、白人警官に対する黒人貧民層からの警句であると同時に、西海岸貧民層にとって希望と絶望のないまぜになった言葉でもあった。

 アイシャにとって、暴力と貧困の席巻するコンプトンから脱出する切符は、海兵隊に居続けることだってわけだ。

 アイシャが吐き捨てるように述べた言葉をまとめると、そういうことになる。


「さっきのレイザーの行動は、あんたの魅了チャームによるものか?」

「半分、ううん、三分の一は。残りはその子の願望だよ。あんたたちは良い仲だけど、海兵隊に忠実であろうとして、中学生もびっくりの『健全なお付き合い』しかしてないのは知らされてたから。規律違反を誘発させて海兵隊から二人とも追いだすのが、あたしのミッションだった」


 俺の陰で下着のシャツを着替えてたレイザーは、顔を赤くしたりこめかみに青筋立てたり、かと思えば神妙な表情したりと忙しい。

 俺は誰の差し金でそうしたのかアイシャに尋ねた。


「あたしにはわからない。でも、伝達役からは、ファースタンバーグが仕掛けるように工作しろっていわれた」

「伝達役の名は?」


 当然彼女は口ごもる。

 俺はレイザーに振り返った。

 相棒は少し迷ったそぶりを見せ、それから意を決したように俺の目をまっすぐ見てうなずいた。それでこそ我が相棒。


「アンタの上役が何を欲したのかはわかった。俺じゃなくレイザーを海兵隊から追い出し、ファースタンバーグ上院議員の海軍と海兵隊への影響力を排除するってのがそいつらの目的だろう。となると、上院議員や『閣下』──少佐殿の差し金じゃない。彼らは俺たちの身分を保証することで取引してるからな」

「そんなに簡単にコネで動いてることを肯定していいの?」


 訝しげなアイシャ。


「今さらだよ。アンタの上役どころか、偵察狙撃学校の教官たちですら知らないものは居ない。そのうえで、みんな俺が偵察狙撃特技を取れるかどうかで賭けしてる始末だ」

「それでいいの? 三等軍曹」


 彼女は「結局お前も誰かの飼い犬なんじゃないか」と言いたげだった。

 それこそ今さらな話だ。

 俺が後ろ手にレイザーをちょっと引っ張ると、愛しの相棒は俺のそばににじり寄って、人目もはばからず抱き着いてきた。体温が普段より高く、心拍も早い。

 俺の細胞流動もちょっとばかり早くなって、凍りかけてた指先がじんわりあったかくなってきた。


「少なくとも相棒や彼らは、俺を信じてくれている。海兵バカのこの俺を。だったら俺は、俺を信じてくれる人たちのために全力を尽くすだけさ」


 アイシャは信じられないものを見たような眼を俺たちに向ける。

 だが俺は知っている。

 俺たちはみんな一緒だ。

 俺も、レイザーも、アイシャも。

 みんな地獄の肥溜めのなかにほっぽりだされちまってたんだ。

 だが。だからこそ。


「俺たちを信じろ。俺たちを信じるなら、多少はマシなところに連れってってやる」


 アイシャはしばらく無表情に押し黙り、やがて何かを言おうとして口をパクパクさせ──それから震える声で、彼女は言葉を押し出した。


「『俺を信じろ』って言って」


 俺がそのようにすると、彼女も俺の首根っこに飛びついてきて、やがて大声で泣き出した。

 俺たちは彼女が泣き止むまで、背中をずぅっと撫でてやっていた。

 訓練本部への一回目の定時連絡をすっぽかしたのは、まぁしょうがないことだ。



 アイシャが彼女の地獄から、俺たちのちっとはマシな地獄へと移ることができたのはそれから二週間後。オキナワのジャングル戦訓練センターで泥水をすすっていたころだ。

 とある上院議員が汚職で検挙され、何人かの海兵隊将校の首が飛び、さらに何人かの下士官が不名誉除隊させられたんだ。

 そのことをフォーチュン・ソルジャースの人事広報欄で知ったアイシャは、大きな伊達眼鏡をかなぐり捨てて俺とレイザーに飛びつき、熱烈なキスを浴びせてきたんだが──そのことで俺たちは仲良く、ブリッキンリッジ一等軍曹に蹴り飛ばされることになった。

 さぞかし気持ちのいい痛みだったろうって?

 

 そんなわけあるかい、痛いもんは痛いにきまってるだろ!

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