黒エルフ③

 その者の名はエリザベート・ファースタンバーグという。

 戦後の生まれである。

 戦後の生まれとはいうが、南部の密林に引きこもる黒エルフにとり、前の戦争とは即ち第二次世界大戦のことである。

 ヴェトナム戦争や湾岸戦争にはあまり参加するものがいなかったうえ、長命人種であるからどうしてもそのような認識になりがちである。満州戦争と第二次世界大戦の区別がついていないものも多い。

 ともあれエリザベートは一九四八年に、テネシー州バトラーに生を受けた。



 エリザベートはすくすくと健康に育ち、二〇歳になるころにはもういっぱしの狩人であった。黒エルフの寿命は短命人種の三倍より少し多いくらいであるから、当時の彼女はヒト年齢にして七歳になるかどうかというところだ。

 その頃から彼女は風の精霊に愛されていた。

 矢を射ればその矢を、銃を撃てばその弾を風の精霊が助けた。草木がさざめき鳥や虫が歌う中でも二キロメートル先の鹿の呼吸音を聞き取ることができたし、天気の行方は風が教えてくれたのだ。

 華奢な体つきだが野山を駆けること、地に伏せ野に隠れることについては誰にも負けなかった。草葉を身につけ地に伏せた彼女を森の中から見つけられるのは、住み込みのユダヤ人老執事だけ。

 そんな彼女に父はもっと女の子らしくあれ、と思ったが、病床の母は咎めるどころか森であった話をせがむ有様であった。



 父が下院議員に当選し、長らく床に臥せっていた母が快復に向かい始めたころ、バトラーの公会堂に一台だけ置かれていたテレビで、ヴェトナムでの合衆国軍の苦戦が報じられた。一九六八年一月三〇日、テト攻勢のときのことだ。

 年寄りや大人たちはそれを苦々しい表情で見ていて、エリザベートはなぜだろうと思ったが、あまり気軽に聞けるような雰囲気ではなかった。

 二週間後、いくつかの家で葬式があった。

 みんな悲しい顔をしながら「大恩ある合衆国のためにその魂を捧げたことを誇りに思う」などと言っていて、エリザベートにはそれが不思議でならなかった。



 それからまたしばらく経って、今度は月に合衆国の宇宙飛行士が降り立った。

 清龍帝国の主張では月にはまつわろぬ民がいるはずで、それはひょっとすると有史以前に地球の民を見放してどこかへ行ってしまった神々ではないかと思われていたが、人影どころか文明の痕跡すらなかった。

 月に降り立った飛行士のうちの一人は優れた祈祷師シャーマンでもあったから、月の地の神に伺いを立てたが、返事はなかった。


 翌年にはソヴィエト連邦が月に十数名の調査団を送りこんだ。

 毎週のように打ち上げられた探査船は、軌道上で合流し、巨大な月往還船となった。それは人類が、大気のエーテル、大地の龍脈に頼らずとも生きていける可能性の証でもあった。

 さて、共産党の教義に沿って神々は存在しないことを改めて立証すべく、数台の月着陸艇で月面に送りこまれた調査団。そこにはワルシャワ条約機構参加国の魔女や、清龍帝国の祈祷師すらも含まれていた。

 反語的ではあるが、彼らも神々にすがるような思いを持っていたのだ。

 それでは彼らの調査で神々の、せめても化外の民の痕跡は見つかったか?

 もちろんそんなことはなかった。

 無。

 ゼロ。

 ニェット。

 ナイン。

 不是ブーシィ

 得られた結果はそれであった。


 それまで森の外のことには興味のなかったエリザベートは、それで初めて外の世界のことに興味が沸いた。

 どうして大人たちは月に誰もいないことで、あんなに論争しているんだろう?

 そんなことより今起きている戦争のほうが問題じゃないのかな?

 エリザベートは、特に後者のことが気になった。

 夜の森に出ると、木々がざわめいていた。空に浮かぶ月は満月。

 彼女は、自分が突然ヴェトナムの密林に放り出されたような感覚を味わった。

 


 ソヴィエトがアフガニスタンに進出し、父が上院議員に立候補したころ、快方に向かっていたはずの母が死に、姉も病を得た。

 幸い姉は身体を悪くしただけで済んだが、父の落ち込みようといったら見ていられなかった。

 また姉も、母を亡くしたことと軍に志願できなくなったことをひどく嘆いた。

 それでエリザベートはまだ幼いにもかかわらず、自分が姉に代わり軍に志願することを高らかに宣言した。

 バトラーの黒エルフたちの半分はこれぞ部族の誉れと彼女を称え、もう半分は何も自ら進んで煉獄の火を浴びに行かずとも、と彼女をなじった。

 家族たちは複雑な笑みで、彼女の決意を褒めてはくれた。喜んでいたかは定かではない。

 エリザベートはもう一度夜の森に出かけ、月を見上げた。

 母のほほえみがそこに浮かぶかと思ったのだ。

 もちろんそんなことはなく、彼女は膝を抱えて泣いた。



 それと同時期に、彼女の胸と尻が膨らみだし、周りの男たちの見る目が変わり始めた。

 変わり始めたのは同い年の女子たちも同じで、彼女たちはいわゆる「女の子らしい」装いを始めた。彼女たちはエリザベートにも「おしゃれ」を勧めた。

 だがエリザベートはそういったことには興味はなく、相変わらず野山を駆けまわっては泥だらけになっていた。

 時には男子と喧嘩になることもあったが、そのたびに「女子なんかと喧嘩できるか」と言われた。

 バトラーにある黒エルフの学校でも、「黒エルフの女子たるを身につけなさい」と何度も何度も注意された。

 エリザベートはなぜだかそれが悔しくてならなかった。


 あるとき派手に父と喧嘩をし、その時にも「もっと女の子らしくしなさい」と叱られた。

 女の子らしくってなんだよ、とエリザベートは反駁した。

 ひらひらした服を着て、胸の谷間を強調して、くねくねするのが女なのか、俺はそんなの絶対嫌だ、俺は男と喧嘩したって負けたりしないし、男たちより狩りも上手いし、頭だっていい、俺は男よりずっと男らしいんだと吠えたてた。

 彼女が、女の子らしいのなんか姉さまにさせときゃいいんだ、といったその時、彼女の背後から物音がした。

 振り返ると病弱な姉が、妹と父の喧嘩を心配して居間をのぞきこんでいたところだった。

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