後編

「急げ急げ! 荷は全部積んだか!?」

「徒歩の者は三番路地に回れ! そこの、くだらぬ諍いをしている場合か!?」

「車軸が壊れたぁ!? 車大工は――ああもうとっくにいねぇ!」


 城塞都市イリマリアの大通りに、非常事態を知らせる鐘の音が鳴り響いていた。

 家財道具一式を満載した荷車の行列が石畳を揺らし、『抜牙狼ヒュリオ』に乗った貴族階級の男たちがその脇をすり抜け、荷を背負った群衆は押し合いながらも西門へ向かって進んでいる。母に手を引かれた子らは不安そうな表情で辺りを見回し、都市を統括する『束ねる禿頭ジッラ・ノォラ』の一人が尖塔の上で声を張り上げて避難の指示を出していた。


「こりゃ、商売どころじゃねぇよなぁ」


 そんな様子を他人事のように眺めながら、露天商シヴィタは一人呟く。

 彼が店を構える『蒼玉通り』の一角もまた、普段の活気が嘘のような緊迫した雰囲気に包まれている。ほんの数日前まではここに溢れんばかりの露店が並び、西方からやってきた行商人や旅の吟遊詩人が、初めて見るイリマリアの活気に目を丸くしていたというのに。『蒼玉通り』に残っている天幕は今や自分の店だけだ。


「ちきしょう。あと一週間もすれば『枯れ星祭ヴィラスピカ』の時期だったってのによぉ……せっかくの稼ぎ時が……」


 はぁ、と髭面の口から溜息が漏れた。シヴィタの眼前の商品棚には、美しい貝殻細工の装身具が所狭しと並べられている。夜光貝の螺鈿細工が施された品の良い腕輪、宝石のように研磨された赤ユラ貝が嵌め込まれた耳飾り、東バルト海産の法螺貝を丸々加工して作られた独創的な簪。どれもシヴィタ一人が輸入から加工までを行った自慢の逸品だ。富裕層が好むものには数段落ちる、比較的安価な素材が使われているが、界隈で『奇才』とも称される細工師シヴィタの手にかかれば、それらも一級の品々に化ける。彼は商人としては三流であり、貝殻細工にかまけて薄汚い天幕ひとつ用意するのが精一杯な程の有り様だったが、棚に並ぶ売り物は実際素晴らしい出来であったため、妻と子を食べさせてやるくらいにはなんとか稼げていた。

 しかし、客足が数倍にも膨れ上がる秋の終わりの『枯れ星祭ヴィラスピカ』がなくなるとなれば、さすがに家計も厳しい。溜息が漏れるのも当然だった。

 とはいえ、本来今は家計を気にかけていられる状況ですらないのだ。未練がましく店を出している場合でもない。

 城塞都市イリマリアが属する大陸北東部の共和国、イートドット。北の国境沿いに雄大な北方山脈が聳えるこの国は、現在五十年ぶりの戦時下に突入していた。

 永世中立国であるイートドットを東西で挟む二つの大国、アルビアンカ王国とウリマ神聖帝国のうち、東に巨大な領土を持つウリマが、近年大陸を席巻している戦火の波に押されるようにして、突然イートドットに侵攻を開始したのである。何重にも敷かれた周辺諸国の国際条約を無視した暴挙であり、五十年来の平和とその維持に費やしてきたイートドットの並々ならぬ努力を無に帰す卑劣な行いでもあった。

 無論、イートドットも自衛のための軍事力は有している。

 しかし約五十年もの間、防衛戦はおろか国内での小競り合いすら経験していない国軍だ。端的に言って、耄碌していた。当然、大陸有数の強国であるウリマの電撃的な侵攻を真っ向から迎え撃つ術など微塵もない。時間を稼ぐことすらままならない状況下で、東の国境線に近い都市が次々に陥落。比較的首都に近い城塞都市イリマリアに手が及ぶのも時間の問題であり、住人は避難を余儀なくされていた。籠城戦の無意味さは、『砦崩しデアダ』と呼ばれるウリマの新兵器によって既に証明されている。大河に寄り添う天然の要塞である首都まで逃げ延び、同盟国であるアルビアンカの救援まで耐え忍ぶのが唯一の策であった。


「何でこんなことになったんだか」


 シヴィタは心底そう思う。今頃妻と娘は四番街の自宅で荷造りに励んでいることだろう。シヴィタも天幕を畳むために出てきたものの、気が進まずにそのまま店を開けてしまった。案外、平静を失った人々が気まぐれで商品を買っていくのではないかと思ったのだ。阿呆と言っても過言ではない。

 そもそもシヴィタは南の紛争地帯の出であり、本来他の誰よりも戦に対する実感と危機感を抱いて然るべき立場なのだが、どうにもその辺りの感覚が世間一般とはずれているらしかった。

 実際、通りすがりの住人たちはシヴィタの店の商品を一瞥するどころか、『気が狂っている』『悪いことは言わないから早く逃げろ』などとあらん限りの罵声を放り投げてきた。無論、彼らも善意で言っているのは理解している。自分も逆の立場ならそうするはずだ。


「はぁ…………」


 通りからはどんどん人が減っていく。この分だと、今日明日中にイリマリアはもぬけの空になるだろう。

 シヴィタは再び深い溜息を吐きながら、ついに重い腰を上げることにした。

 このままここにいても何の意味もない。さっさと家族で逃げ出して、戦が終わった後の商売の構想を練ったほうが余程有意義というものだ。イートドット全域がウリマに蹂躙され尽くされる可能性については……とりあえず考えないようにしておこう。


「むっ」


 しかし、その時である。

 おんぼろ椅子から立ち上がりかけたシヴィタは、不意に驚いて硬直した。

 いつの間に現れたのか。彼の露店の前に、見知らぬ女が立っている。

 滑らかな栗色の長髪を首元で束ね、黒い布を顔の左半分に巻き付けた、不思議な雰囲気の女だ。歳はおそらく二十かそこらだろうが、妙な風格と艶っぽさがある。布で隠れていない右の瞳は海を映したように青く、イートドットどころか大陸北東部の生まれですらないことを示していた。擦り切れた外套を羽織り、大きな荷を背負っているところを見るに、旅の者だろうか。

 女は避難する住人たちの流れには目もくれず、中腰になって棚の上の商品をひとしきり眺めた後、シヴィタに向かってこう言った。


「ねぇ、翡翠を使ったものはないの?」

「………えっ?」


 シヴィタはふと我に返る。意識が飛んでしまっていたのは、女が目を見張るような美人だったからか、それとも店を開けていた彼自身、心のどこかで客が来るなどあり得ないと思っていたからか。

 いずれにせよ、待望の来客であることには違いない。

 シヴィタは気を取り直すと、不格好な作り笑い(彼にはこれが限界なのだ)を浮かべて返答した。


「すまんねお客さん、うちは貝殻細工しか扱ってないんだ。それに翡翠なんて高級品、うちみたいな店じゃあ仕入れるのも難しいよ」

「へぇ、そうなの」

「ああ。でもね、代わりと言っちゃぁなんだが、こっちの緑蓄貝を使った首飾りなんてどうだい? 翡翠に勝るとも劣らない輝きを秘めているくせに、加工が難し過ぎるせいで方々から敬遠されている素材さ。ま、それも俺の手にかかりゃぁこの通り。見事なもんだろう? イリマリアの――いや、国中のどこを探したって、これ以上の品は見つからないはずだ」


 自慢の品のひとつを棚の中から取り出して、シヴィタは意気揚々と力説する。過剰に持ち上げた言い回しのように聞こえるが、事実である。こと貝殻細工において、シヴィタの腕は本物だ。それこそ然るべき時代と環境に身を置いてさえいれば、宮廷お抱えの細工師としてどこぞの王族に雇い入れられていたくらいには。

 もっとも、このシヴィタは古びた天幕の下に店を構える一介の露天商に過ぎない。実力に見合った売り文句を吐いているにも関わらず、それが却って多くの客を疑心暗鬼に陥らせていることに、彼はまだ気づいていなかった。


「ふぅん」


 シヴィタの言を真に受けた訳でもないだろうが、女は手渡された首飾りを興味深そうに吟味している。やはり、騒然とした街の様子を気にする様子はない。余程性根が図太いのか、それともシヴィタのように世間から少しずれた人間なのか。

 まあ、客の素性はどうでもいい。問題は彼女が商品を買ってくれるかどうか、その一点に尽きる。この首飾りが売れれば家計も少しはましになるだろう。最高級品の相場とは比べものにもならないが、決して安い値が付いている訳ではない。

 シヴィタが固唾を飲んで見守る中、やがて女は顔を上げた。


「うん、気に入った。これ貰うね」

「おお! 本当かい!」

「うん。わたし、分かるよ。おじさん中々腕が良いね」

「そうかそうか! いやぁお嬢さんお目が高い!」


 これにはシヴィタも破顔する。購入の意を示してくれたこともそうだが、混じり気のない賞賛ほど心地よいものはない。それが美人からのものとなれば尚更だ。

 なんだ、良い客じゃないか。

 シヴィタは好々爺のような笑みを浮かべて照れ臭そうに頬を掻くと、どれせっかくだからおまけでも付けてやろうかと小粒の品を漁り始めた。

 ところが彼には不幸なことに、この女は真っ当な客ではなかったのである。いや、そもそも客ですらなかった。


「まあ、代金は払わないんだけどね」

「え?」


 耳を疑うような言葉にシヴィタが顔を上げると、女の射抜くような視線が目に入る。風にそよぐ長い睫毛。大きく青い右の瞳。

 はて、この女は今なんと言った?

 しかしその言葉を追求する暇もないまま、シヴィタの記憶はそこで途切れた。



「あんた! ちょっとあんた! 聞いてんのかい!?」

「…………あ?」


 穏やかに揺蕩っていた意識が、聞き慣れた叫び声で呼び戻される。どうやら少しぼんやりしていたらしい。気がつくと、露店の前にシヴィタの妻が立っていた。ふくよかな体躯から発せられる彼女の声は、それだけで薪が割れそうな程の圧がある。


「おお、どうした。荷造りは終わったのか? レィナはどうした?」

「うちの子ならルトウッドさんのお宅に預けてきたわよ! あんたがいつまで経っても戻ってこないから、仕方なく様子を見に来たの! 大体、それより先に言う事があるでしょう!? あんた店畳むって言って家を出たのに、何で呑気に商売なんかしてるわけ!?」

「あ、その、すまん……そろそろ撤収しようと思っていたんだが……」


 普段から妻の怒号には慣れているシヴィタだが、さすがにこの剣幕には慄いた。多くの住民が避難を始める中、妻子を放ってのんびり過ごしていたのだから、彼女が激怒するのも無理はない。

 とはいえ、本当に片付け始めようとは思っていたのだ。それなのに、いつの間にか無為な時間を過ごしてしまっていた。


「こんな時にお客なんて来るわけないでしょ! つくづく頭のおかしい男だとは思っていたけれど、まさかここまでとは思わなかったわっ」

「いや、客なら……」

「何? 来たの!?」

「一人も来てないが…………」

「ほら見なさい! 売る阿呆がいても買いに来る阿呆はいないわよ! どさくさに紛れて何か盗られたりしてないでしょうね!」

「それは大丈夫だと、思う……」


 言われてちらりと棚を見る。確かに街は避難する人々でごった返していたが、さすがに誰かが近づいてくれば気づくはずだ。夜光貝の腕輪、赤ユラ貝の耳飾り、法螺貝の簪、水晶甲羅の首飾り、黒鉄貝の根付、白百合貝の髪留め……大丈夫だ、シヴィタが確認した限り、無くなっているものはひとつもない。


「ああ、盗まれちゃないよ。そこは安心していいさ」

「そう。じゃあとっとと店閉めて荷造りなさい! 売り物もきっちり全部持っていくのよ! レィナも待っているんだから急いでね! 分かった!?」

「わ、わかった。待っててくれ」


 どたどたと騒がしく走り去る妻の背を見送りながら、シヴィタは急いで店の商品を片付け始めた。自慢の装身具たちを布で包み、次々と麻袋の中へ放り込んでいく。

 急げ、急げ。万を越えるウリマの軍勢などよりも、妻子に愛想を尽かされる方が遥かに怖い。街の鐘はまだ鳴り響いている。早く支度をして、西門へ向かう住民たちに混ざろう――



「おい、お前。こんなところにいたのか」

「あ。師匠」


 イリマリアの円形広場。街の中心であるこの場所で、奔走する人々の間を掻い潜りながら周囲を見回していたシァナは、背後からの声にすぐさま振り向いた。栗色の髪がなびき、絹のように広がる。

 後ろに立っていたのは、普段と変わらぬ装いの師匠だ。ぼさぼさの黒髪に無精髭。翡翠色の瞳。擦り切れた外套に大きすぎる荷物。表情は少し不機嫌そうに見える。師匠は軽く舌打ちをすると、シァナの外套の頭巾を乱暴に引っ張って、彼女の顔と髪を覆い隠すように被せた。


「色気づきやがって。顔の布も、その髪も、目立つから隠せっつってんだろうが」

「いいじゃない。どうせ見られても全部抜き取るんだから、大差ないよ」

「屁理屈を。殴るぞ」

「じゃあ、避ける」


 容赦なく頭上から振り下ろされた拳骨を、シァナは半身だけ捻って回避した。

 それを見た師匠の表情がより一層不機嫌な色に染まるが、しかし受ければ激痛は必至なので気にしない。並みの人間ならば数時間は昏倒する程の拳である。

 二発目が飛んでくる前に足を引き、爪先を軸にして軽やかに距離を取る。

 慣れたものだ。師匠が本気で追撃してくればこんな回避行動には何の意味もないが、しかし彼は面倒臭そうに顔を歪めるだけに留まった。


「ちっ。お前 、やっぱり生意気になったな」

「わたしは元からこんなだよ」


 呆れた口調に反論しながら、シァナは再び師匠の横に並んで歩き出す。

 ここ数年でシァナも随分背が伸びたつもりだったが、肩を並べると視線の高さの違いが如実に現れる。当然といえば当然だが、何故だか妙に悔しかった。


「んで、どこほっつき歩いてやがった。今更こんな街で見るもんなんてないだろ。鐘はガンゴンガンゴンうるせぇし、逃げる連中も騒がしいしよ」

「ううん、結構面白いものもあったよ。掘り出し物」

「記憶か?」

「違う。これ」


 シァナはほんの少しだけ声を弾ませると、首にかけた貝殻細工の飾りを服の内側から取り出した。先程、『蒼玉通り』で一軒だけ営業していた露店から盗んだものだ。輪の部分は精巧に編まれた藍染めの紐で作られており、その先は大きな緑蓄貝の珠に繋がっている。

 翡翠に勝るとも劣らない輝き、などとあの店主は称していたが、なるほど宝石に見紛うほど美しい貝だ。加工の腕も称賛に値する。その手の見識がある者の記憶を幾つか保持しているシァナには、この首飾りの真価がよく分かった。

 特に、色合いが良い。翡翠よりも若干くすんだ緑だが、それがむしろシァナの好みに近い。

 珠を指で掴み、隣を歩く師匠の目線と重ねて見比べてみる。

 やはり、彼の瞳の色とよく似ていた。


「けっ。ガラクタか。つまらん」


 しかし師匠にはお気に召さなかったらしい。彼は首飾りを一瞥するなり、すぐに興味を失うと、路地を歩く足をあからさまに早めた。西門へ向かう人々の流れを横からすり抜け、北門へ続く狭い道を進んでいく。


「……まあ、それはそうだけど」


 前を歩く師匠には聞こえない程度の小さな声で、シァナがぼやく。

 意気揚々と盗んできた物に対して薄い反応を返されるのは若干腹立たしいが、師匠が他人の記憶にしか興味がないのはいつものことだったし、シァナとて、さほど装飾品に執心しているわけでもなかった。

 何となく目に入ったから、盗んだだけ。今はこんなに気に入っている緑蓄貝の首飾りだって、明日には興味を失ってどこかに捨てているかもしれない。結局その程度の関心なのだ。


「『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』まではあとどれくらいだっけ?」

「まだ随分かかる」


 シァナが話題を切り替えると、何事もなかったかのように返答がきた。


「途中に北方山脈と『塔』があるからな。普通なら半年、俺たちの足なら二ヶ月ってところか。だがそんな悠長にしている余裕もねぇ」

「不眠不休で最短経路?」

「ああ。また吐くようならついて来なくてもいいぞ」

「……何年前のことを言ってるの。あんまりわたしを舐めないでほしい」

「どうだか」


 師匠は真顔で溜息を吐く。

 やがて二人の前に、イリマリアの北門が見えてきた。避難する住民たちでごった返し、今朝方からずっと開け放たれている西門と違って、こちらは虫一匹通さぬようにぴったりと閉じられている。作りも非常に堅牢だ。

 しかし人手が足りていないのか、必要がないと判断したのか、門番の一人も立っていない。元より、過酷な北方に繋がるだけのこの北門から、街の外に出ようという住民はいないのだろう。シァナたちにとっては好都合だった。

 二人は正面から門に歩み寄ると、強引に鉄製の大扉をこじ開けて街の外に出た。



 七年。

 シァナが師匠と旅を始めてから、実にそれだけの年月が経過していた。

 長い旅路だったとも思うし、一瞬のことだったようにも感じる。

 この七年で一体どれだけの国を渡り、どれだけの記憶を奪い、どれだけの物を盗んできたことか。

ただひとつの大地イア・スフィア』。人がその生涯を費やして尚、その半分も巡り切れないと言われるこの大陸のほとんどを、二人はたった七年で渡り歩いた。

 大陸中央部、ラグムント砂海に沈む『享楽の市場トォル・スーン』。大陸北西、迷いの霧に隠された『イダ幾何街』。大陸南端、トフ大断層の先に残る『忘れられた地』。大陸南東、古代樹の大空洞の内部で繁栄し続けた『万緑の帝国へクネマリア』。

 記憶を盗む、ただそれだけを目的とする師匠について回り、僅かでも人が暮らしている場所ならばどんな僻地でも足を運んだ。

 日陰者の街ダブラを出た当時はまだ幼い少女だったシァナも、もう二十歳になる。

 少年と見分けがつかないような恰好をしていた当時の面影は既になく、いまや火傷を隠して街を歩けば十人が十人振り返る程の美女だ。道中、出会った人間すべてから記憶を奪っていなければ、流浪の麗人として各地で噂になっていたかもしれない。勿論そんな名声に興味はないし、仮に彼女についての風評が流れたとしても、ほんの数日で忘れ去られていただろう。

 シァナの成長以上に、世界の変化は速かった。

 旧き時代、神々の大戦の再来とさえ囁かれた、激動の時世である。

 この時代、大陸はいまだかつてない規模の戦乱の炎に包まれた。

 西方の大国のぶつかり合い。その余波に翻弄される小国や自由都市。激化する南部民族同士の闘争。野山を焼き尽くした『塔』と帝国の衝突。数十の国を蹂躙しながら大陸を食い進む新たな支配国家の脅威。

 それは各地で燻っていた火種が一斉に弾けたような惨状であり、戦火は戦火を呼び込むようにしてさらに燃え広がった。被害を免れた地域はほとんど皆無と言ってもよく、この時代に失われた人命や資源は直前の百年を大きく上回る。

 そして世の趨勢とは無関係な生き方をしているシァナたちもまた、その影響から逃れることはできなかった。

 燃え盛る戦火はじわりじわりとシァナたちの背に追いつき、旅路の進路修正を強制して、気づかぬ内にその命運を左右した。

 この時節、二人の旅はついに終わりを迎えたのだ。

 あるいはその結末すらも、師匠は予期していたのかも知れないが――シァナにとって、それは唐突過ぎる幕切れだった。



 だだっ広い雪原のど真ん中を、師匠とシァナは歩いている。

 周囲は猛吹雪に見舞われており、視界は劣悪で、数歩先の様子も見渡せない。

 一歩進むごとに足は深い雪に沈みこみ、息は吐いた先から凍っていく。


「……もっと底の厚い靴を履いて来れば良かった」


 膝まで埋まった両足を一瞥して、シァナが嘆息する。

 イートドット国の城塞都市イリマリアを発った二人は、北方山脈の最高峰エメラデ山を踏破し、魔術師の総本山たる『塔』が支配する一帯を通り抜けると、脇目も振らずにこの広大なリヴェ雪原に足を踏み入れていた。

 生態系の空白地帯などと称される過酷な土地である。草の根のひとつも生えず、大地は凍りついて死んでいる。猛烈な吹雪はあらゆる冒険家の侵入を拒絶し、一年中収まることを知らない。

 太古の遺物を求めて世界中を巡り、どんな秘境にも赴くという『探究の使途レナント』たちでさえ、この雪原には匙を投げたそうだ。

 もっとも、シァナたちには関係のない話だが。

 二人の『技』はありとあらゆる力を流動させる。常に『技』を行使し続け、身体から奪われていく熱を奪い返し続ければ、どんな極寒も無視して行動できる。猛暑もまた然りだ。

 現にシァナは普段通りの旅装に身を包んでおり、凍死どころか唇を青くすることすらなく、ただ積雪と視界の悪さに文句を言う程度の不快感で済んでいた。


「師匠。本当にこっちの方角で合ってるの?」


 前を歩く師匠の背に向けて、シァナが尋ねる。

 寒さも吹雪も苦ではないが、何しろ丸一週間程歩き続けているのだ。その間中ずっと、同じ景色ばかり眺めている。師匠の背中と、視界を埋め尽くす猛吹雪。同じ場所をぐるぐると回っているような感覚にさえ陥ってきた。

 しかし師匠は振り返りもせずに、シァナの問いを一蹴する。


「合ってる。俺が道間違えるわけねぇだろうが」

「……道なんてないよ、師匠。ほとんど未踏領域なんだから」

「うるせぇ。言葉の綾だろ。方角が合ってんだから歩いてりゃそのうち着くんだよ」

「雑だなぁ」


 げぇっ、とシァナが舌を出す。途端、舌先が一瞬で凍りついたので、慌てて『技』を使って溶かした。ここまで来てうっかりで死ぬのは御免だ。

 そもそも、他人の記憶を盗むことだけを目的とする師匠と、彼に師事するシァナにとって、こんな寒いだけで誰もいない土地に用はない。

 二人の目的地はこのリヴェ雪原をさらに北に越えた先、『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』と呼ばれる伝説の隠れ里である。

ただひとつの大地イア・スフィア』の最北端。『絶海』に面する正真正銘の世界の果て。人どころか虫一匹生息できないはずのその地には、ある特殊な体質を持った人間たちが住んでいる。彼らこそ、師匠とシァナの次なる盗みの標的であった。


「…………」


 とにかく、まだしばらくかかると言うのならば仕方がない。

 シァナはそれ以上の文句を口にするのはやめて、これまで通り黙々と歩き続けることにした。反応を求めて会話を振るのも悪くはないが、今の師匠は饒舌に語る気分ではなさそうだ。酒が入れば話は別だが、生憎と随分前に切らしている。

 それに、シァナが退屈することはありえなかった。吹雪に覆われたつまらない景色にどれだけ飽きようとも、彼女はそれを払拭するだけの暇潰しを常備している。


(……今日はどれにしようか)


 ざくざくと積雪を掻き分けるように進みながら、シァナは自分の頭の中に意識を飛ばす。

 そこにはこの七年間でシァナが盗んできた他人の記憶のすべてが、これでもかというくらいにぎっしりと詰め込まれている。いわば書庫、あるいは盗品蔵だ。

 収められている記憶の多くは、楽しみや喜びに分類される出来事についての記憶であり、シァナはそれらを暫し吟味すると、幾つかを選んで思考の表層まで引っ張り上げた。

 暇潰しとは他でもない、他人の記憶の回想である。

 口の中で飴玉を転がすように、いまやシァナは貯め込んだ記憶を手軽に味わうことができるようになっていた。

 記憶の本来の持ち主と自分を混同して、自我を失いかけることもない。師匠に言われた通り、あれからシァナは盗んだ記憶を整理した。ひとつひとつに想像上の札を貼り、様々な条件とともに分類して、自身の内側に広がる無数の戸棚にしまい込んだ。その構築には数年の歳月と労力を要したが、膨大な記憶の整理は、記憶に内包される知識と経験の体系化にも繋がり、これまでの旅路でも大いにシァナの役に立っている。


「ふふ」


 回想した記憶の感情に同調して、シァナの頬が少しにやける。

 それは大陸東部、エンヤ地方に位置するちっぽけな村落、羨望郷アルクヌイユの夕暮れの景色。黄金色に染まる麦畑の合間を縫って、少年たちが賑やかに走り回っている。さらさらさら、と細波のように揺れる麦の擦れ合う音と、友人たちの笑い声。ささやかな、しかし大切だった遊びの時間。

 自分の記憶ではないという区別は付けつつも、シァナは少年の一人の視点になって、その思い出を楽しんだ。『とても好み』という札が貼られた、シァナのお気に入りの記憶のひとつである。盗んだ記憶を回想する行為は、シァナにとって半ば趣味や日課と化しているので、このような個人的な好みによる分類も多かった。


 それにしても、『技』で盗むことができる熱量や生命力と同じで、記憶はいくらでも蓄えておける点が好ましい、とシァナはいつも思う。宝石や調度品など、高価で盗みがいのある品物は沢山あるが、それらはどうしてもかさばってしまう。その場その場で盗んでは、旅路の途中に捨てていくこともしばしばだ。いつか口にした『この世のすべてを盗む』という野望は決して大言壮語ではないが、果たしてこの世のすべてを盗んだら、一体どこにしまっておけばいいのだろう。シァナは割と真剣に悩むことがあった。



「……囲まれてるな」


 そう言って師匠が足を止めたのは、シァナが他人の記憶に浸り始めて数時間が経った頃だった。


「こんなところで? 何に?」


 シァナはすっと回想を中断し、目の前の現実に意識を戻す。相も変わらず周囲は猛吹雪に包まれていて、師匠の姿以外は何一つ見えやしない。


「最近見てないけど、『翳這鼠ゲゲラニ』とか?」

「いや、違う。『呪い憑き』には違いねぇが、別のもんだ。十二はいるな」

「うそ」

「本当だ」


 師匠は断言する。いくら『呪い憑き』――突然変異的に発生する異形の怪物といえど、こんな息も凍るような雪原に潜んでいるとは驚きだ。しかし、彼が言うのならば間違いはない。

 シァナが集中して周囲の力の流れを『見る』と、確かにこちらへ忍び寄ってくる生物の一群があった。動作からして四つ足。体躯は野生の狼より一回り程大きく、明らかにシァナたちを狩るための陣形を組んでいる。それ以外は未知数だ。まだ随分と距離はあるが、あちらの速度次第では直ちに肉薄することになるだろう。


「面倒臭ぇ。シァナ、やれ」

「うん」


 シァナは頷き、間髪入れずに『技』を使う。

 特別な仕草ひとつ挟む必要もない。立ち止まった姿勢のまま、シァナの身体から無数の細い閃光が放たれる。『力』を盗むための『腕』。それらは、猛烈な吹雪を無視して大気を駆け、一直線に飛ぶと、シァナたちの周囲に迫っていた十二の獣を過たずに射抜いた。

 そのまま、獣たちの体内から生存に必要なあらゆる『力』を引き抜く。殺すだけならば繊細な選別や操作は必要ない。糸を巻き取るように閃光がシァナの元へと戻ってきて、十三頭分の生気がシァナの内部に蓄えられる。

 吹雪の幕の向こう側、まだ目視もしていない『呪い憑き』の獣たちは、最初から死んでいたかのようにその場に崩れ落ちた。


「終わった」

「よし。他にはいねぇな?」

「多分これで全部だと思う」

「じゃあ行くか」


 シァナの言葉に師匠が頷く。

 特段焦りも感慨もない。こんなことは朝飯前と表現するのも馬鹿馬鹿しくなるくらいの簡単な露払いに過ぎない。

 対処を終えた二人は、何事もなかったかのように再び歩き始め、五十歩ほど進んだところで、絶命した獣の遺骸のひとつを発見した。


「森の奥で見かける奴とそう大差ねぇな」


 遺骸を足でつつきながら、師匠が言う。外傷もなく、その場で眠るように死んでいる『呪い憑き』の獣は、猪に近い骨格と風貌をしていた。全身を包む体毛は雪に紛れるような白さで、分厚く、足の裏までびっしりと生えており、深い積雪の上で俊敏に走り回る姿を想起させる。牙や角は通常の猪のそれよりも遥かに大きいが、捕食する生物もいないこの雪原で十全に使われていたかには疑問の余地があった。


「何食べて生きてたんだろう」

「さぁな。ひょっとしたら別の場所から移動してきた群れかもしれん。どのみち、連中はどこにでも湧くからな」

「そういえば砂漠のど真ん中にいたこともあったね」

「ああ。考えるだけ無駄だろ。先急ぐぞ」

「うん」


 遺骸は放置することに決めて、二人はその場を後にした。『呪い憑き』の生物の肉は不味く、とても食べられたものではない。手持ちの食料は少なかったが、シァナたちは飲まず食わずで行動できる。持って行っても荷物が増えるだけだ。


 リヴェ雪原を越えたのは、『呪い憑き』の獣の群れと遭遇してからすぐのことだった。

 猛烈な吹雪が嘘のように薄れ始め、視界が徐々に鮮明になっていく。それはまるで何らかの境界があらかじめ定められていたかのような急激な変化であり、シァナは以前西方で出会った『悪夢繰りアールヴァーシャ』の幻術師の結界と似たものを肌で感じ取ったが、しかし人為的な術の類が張り巡らさられている様子はない。

 やがて吹雪は消え、あれだけ降り積もっていた雪も消えた。

 雪原の先に広がっていた光景を端的に表現するならば、『何もない』の一言に尽きた。

 見渡す限り一面の灰色の大地。白く、広大で、獣の群れに遭遇するまで虫一匹見当たらなかったリヴェ雪原よりも、この土地には何もない。まるで世界が色彩を忘れてしまったようだ。

 土壌は痩せているだとか渇いているといった次元になく、完全に死んでいた。あらゆる物質が内包する『力』を見ることができるシァナの目を以てしても、この灰色の大地には虚ろな無が広がっているばかりで、そこに一点の生命の芽吹きすら認めることができない。何をどうすれば、ここまでの無を実現することができるのか。それを想像すると珍しく肝が冷えたが、師匠がずんずんと先を進んでいくのを見て、シァナは慌てて彼の後に続いた。


「……師匠、あれって」


 今度は丸一週間も歩き続ける必要はなかった。

 雪原以上の殺風景の中、曇天の下をしばし歩くと、やがて遠方に何か巨大な穴のようなものが見えてきた。比較するものがないために遠近感が狂いそうだが、目測する限り、ちょっとした湖程度の大きさはありそうだ。小さな村落ならばすっぽりと飲み込まれてしまうかもしれない。

 地平線まで広がる灰色の大地の途上で、その区域だけが異様な雰囲気を醸し出している。


「ああ、あれが『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』だ」


 シァナの言葉を肯定するように、師匠はきっぱりとそう言った。

 世界の果て。大陸の最奥。誰も近づけない虚ろの大地に作られた、呪われし人々の共同体。

最果ての集落ロゥ・ドゥナン』。

 そこには、正真正銘の不死人たちが暮らしている。



 遡ることおよそ五百年前。

 大陸北方の奥地には、神話に伝わる天地の作り手、『為す神』を祀る古代の祭殿が数多く地中に埋もれていた。それらは何千年もの年月によって体積した地層によって外界と隔てられており、ほとんどが祭殿としての機能と力を喪失していたが、その中にたったひとつだけ、古代そのままの機構を残したものが残存していた。つまるところ、今はもう失われた神々に接続する手段を有した祭殿である。

 そして二度と日の目を浴びることがないように思われたその祭殿を、当時『まだら平原ウェルヴ・イート』と呼ばれた土地から端を発した野心的な一族が、奇跡的と表現するしかない程の偶然と幸運(あるいは不運)の末に見つけ出してしまった。当時の天変地異によって大地に亀裂が生じ、地中に埋まる祭殿への道が半ば開かれたことが最も大きな要因だったと思われる。

 祭殿を発見した一族は躊躇しなかった。彼らは神話を知らず、古代の遺物の価値を知らず、自分たちの発展と幸福のために留まることを知らない人々だった。一族は七つの階層から成る祭殿内部を所狭しと荒らし回り、売り払えそうな祭具は根こそぎ奪い去って、さらには祭殿を形作っていた建材にさえ手を出した。この時代、遺跡荒らしは大して珍しいことでもなかったが、彼らの振る舞いは徹底的だったと言ってもいい。後代の考古学者が見れば頬の肉を噛み千切らんばかりの形相で激怒する程の所業を、彼らは平然と行った。

 結果としてその一族が得たのは、自分たちの領土をほんの少し広げるだけの富と、いまだかつて誰も受けたことがない恐るべき呪いである。

 名も知れぬ過去の王が収められたそこらの墳墓ならともかく、真に力を持つ神々の祭殿に手を出した彼らは、一族郎党に渡って解けぬことのない神呪――すなわち不死の呪いに侵された。

 決して病まず、決して老いず、どんな傷もたちどころに再生し、どれだけの年月が経とうとも必ず生き続ける。

 現存するどんな神秘でも到達できない、神の領域の御業。

 それだけならば夢のような話だと思う人間もいるかもしれないが、彼らに対する罰には、もうひとつ容赦のない条件が付加されていた。

 死ぬことを禁じられた彼ら一族は、大陸の最果て、神代の戦によってあらゆる力を失った虚ろの大地に飛ばされ、そこに未来永劫封じ込められたのだ。

 草も、水も、生物も、何もかもが存在しない土地である。拷問どころか、生き地獄に他ならない。

 餓死し、自死し、殺し合おうとも、その度に死の淵から蘇る。

 五百年が経ち、その存在が伝説めいたものとして語られる今になっても、彼らは変わらずそこにいるという。



 当初、師匠は『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』に足を運ぶつもりは一切なかった。

 シァナが知る限り、彼は『まだ訪れていない場所に赴き、自分にとって必要な記憶を他人から盗むこと』を唯一の目的として行動している。

 それも出来るだけ、迅速に。

 となれば、『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の優先度は非常に低い。大陸の最北端ともなれば旅路の途中に易々と向かえるような場所ではないし、何よりそこに住む人々は決して死なない――つまりいなくならないのだから、盗むべき記憶が失われることもない。極論、大陸のすべてを踏破した後に向かっても問題はないはずだった。

 事情が変わったのは、ここ数ヶ月のことだ。数年前、どこからともなく広がり、大陸を飲み込み始めた狂気と戦火の嵐。それはついに北部まで伝播し、長年の平和を享受してきたイートドット他穏健派の国々までもが、並々ならぬ危機に瀕している。

 それは北方山脈を越えた向こう側に根を張る『塔』も同様だった。長い歴史を持ち、人知を超えた魔術の粋を独占しているこの白亜の都市は、その力を欲する数多の大国に目を付けられている。西の聖皇国ディ・メアに、南のアグラ宗主国、東の『迅の国オゥル』など、数え始めればきりがない。ほんの数カ月前には、東方の航路を利用して山脈越えを果たした『迅の国オゥル』の大軍が、『塔』の擁する魔術師団と戦闘を行い、周囲一帯を焦土に変えるほどの損害を出したばかりである。

 結果として『塔』は『迅の国オゥル』を退けたものの、確実に迫る大国の脅威は『塔』の者たちに並々ならぬ危機感を与えた。如何に強大な魔術を行使できるとしても、それには相応の対価――つまりは資源と時間が必要になる。魔術は無から有を生み出す奇跡ではなく、この世界の法則に則った現象を引き起こす真っ当な技術だ。故に幾度となく大国を退け続ければ、不可侵を誇る『塔』もいつかは疲弊し、瓦解する。それは自明の理だったが、かといって、これまで歴史の荒波の中で孤立し続けていた『塔』に、他国と連携を取る術はない。

 一体この難局をどう切り抜ければいいというのか。

 対策に追われた『塔』の上層たちは、長い苦悩の末に、『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の不死人たちに目をつけた。

 太古の神によって真なる呪いを受けた、不老不死の一族。

 永劫の時を生きることを定められ、如何なる損傷からも回復する彼らの肉体は、一種の永久機関と言っても過言ではない。

『塔』の者たちは、彼らをとして利用できないかと画策したのだ。

 実際、草案自体は随分昔から存在していた。元来傲慢であり、自分たちが積み重ねてきた叡智に絶対の自信を持つ魔術師たちである。不可能だとは考えなかった。

『塔』は即座に綿密な計画を立て始め、呪いと関連する術師の一派に指示を出すと、さらに大陸各地に遣いを出して、『呪詛仙シニガ』と呼ばれる生命の呪いの専門家を集めにかかった。


 この『塔』の動きをいち早く察知したのが、他ならぬ師匠である。

 道中で行き会った人々すべての記憶を覗く彼の情報網は、元より一国家のそれを大きく凌ぐ。『塔』の遣いが暗躍している事実が断片的にでも掴めれば、後は膨大な記憶と情報の連なりを辿っていくだけで、容易にその目的に辿り着くことができた。

 そして知ってしまえば、見過ごすという選択肢は存在しない。『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の不死人たちが根こそぎ『塔』の実験台にされるようなことがあれば、彼らから十全に記憶を盗むことが叶わなくなる。世の趨勢などどうでもいいが、師匠にとって、それは我慢ならない結末らしい。

 シァナとしても、師匠の考えには共感できた。いずれ盗もうと大事にとっておいた品物が、第三者に横から掻っ攫われようとしているのだ。指を咥えて黙って見ている気にはならない。先に盗み、自分のものにする。それが盗人としての矜持というものであろう。

 二人が進路を変え、『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』を目指すことになったのも、至極当然の成り行きであった。



 こつん、こつんと音を立てながら、シァナたちは土造りの坂を下りていく。

 湖一個分はあろうかという円周を持つ、巨大な縦穴の内側だ。その構造は鉱石の採掘のために用いられる露天掘りによく似ており、地表から地中に向かって渦を巻くような層を成していた。

 違う点と言えば、とにかく深く、底が見えないことか。松明を穴の方へ翳してみても、光が反射してくる様子はない。一体どこまで掘り進めたのか、眼下には無限にも思える暗黒がぽっかりと広がっている。


「もっと分かりやすく村らしいところなのかと思ってた」


 相も変わらず前を歩く師匠の背に向けて、シァナが呟く。穴の底へと続く螺旋状の坂の幅は狭く、一列にならなければ踏み外してしまいそうな危うさがあった。


「けっ。『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』なんて、所詮外野が付けた名前だからな。そもそもここには家を建てる木材も石も何もねぇ。出来るのはこうやって穴を掘るくらいさ」


 面白くもなさそうな口調で師匠は言う。彼もこの場所を訪れるのは初めてのはずだったが、大して驚いている様子はなかった。事前に知っていたのかもしれない。伝聞ではなく、これまで奪ってきた記憶の中のどれかから。


「それにしても、よくこれだけの穴を掘ったね。呪いを受けた人たちは元はひとつの一族なんでしょう? こんな国を上げても百年かかるような大仕事、とてもこなせるとは思えないんだけど」

「こうしてあるっつーことはやったんだろ。地盤も砂みてーに柔らかいし、他にやることもねぇ。なんせ不死だからな。五百年もありゃどうにかなるさ」

「ふぅん……不死、か」


 言いながら、シァナはすぐ横の内壁を左手で引っかく。がりっ、という硬い感触とともに、どす黒い土くれのようなものが爪の間に挟まった。

 この灰色の地に元からあった土ではない。凝固した血だ。この巨大な穴の内壁すべてに、夥しい量の血液がびっしりと塗り込められているのである。

 不安定にも程がある地盤を固め、大穴を維持するための措置だろうが、その光景はさしものシァナも息を飲む程の狂気を孕んでいた。一都市を滅ぼす規模の戦を起こしたとしても、ここまでの血は流れないはずだ。


「不死だから、どれだけ傷を負っても、どれだけ血を流しても再生する。だからこうして建材に利用した。合理的だけど、ちょっとまともな神経じゃないね」


 あるいは旅を始めたばかりの頃のシァナならば、この場所の忌々しさを前にして、すぐに嘔吐してしまっていたかもしれない。自らの運命を呪う怨嗟と妄執の念が、ここには充満している。


「ふん、連中の心情なんて知ったこっちゃねぇ」


 一方で、師匠はあまり興味を抱いていない様子だ。


「俺は奴らがここにいて、とっとと『中身』を盗めりゃそれでいい。不死人の精神鑑定なんざ、するだけ無駄さ」

「師匠は相変わらずだね」


 シァナは半ば感心する。この男の生き方は、七年前から何一つ変わっていない。


 道に沿って大穴を下っていくと、徐々に人の住居らしきものが散見されるようになってきた。

 内壁と同じく、地中の土を削り出し、血液を練り込んで作られたであろう建築群が、大きな螺旋を描くように地底深くへ伸びている。

 それらは最初、歪な直方体のような出来の悪い塊ばかりだったのだが、二人が下層へ歩を進めるにつれ、次第に精巧な外観を備えた建築物に変わっていった。戸口に、窓に、屋根に、梁、柱。煙突や浮彫細工まで再現されたものもある。ひとつひとつ中を覗いていくと、当たり前のように家具まで作り込まれていた。五百年前の文化が基になっているだけあって、若干の古臭さは感じるもの、ここまでくると地上の都市に並ぶ住宅と何ら遜色がない。材質が土と血液だけだとは信じられなくなる程の完成度だった。


「料理する食べ物もないのに、台所まである。よっぽど暇だったのかな」


 どす黒い土製の鍋を検分しながら、シァナが呟く。これも作っただけで、おそらく真っ当に使用されたことはないだろう。

 あるいはここまでの心血を注いで居住区作りに没頭しなければ、気が狂ってしまいそうだったのかもしれない。この土地には草木も、生物も、文明もない。途方もない労力を費やして地表から遠ざかり、本来不要な設備まで備えた家屋を再現したのは、自分たちが閉じ込められた灰色の大地という現実から目を背けたかったからだろうか。


「……んなことはどうでもいい。問題なのは、連中の姿を全く見かけないことだ」


 しかし師匠は分析に熱中するシァナの首根っこを掴むと、潜り込んでいた住居のひとつから彼女を引きずり出した。彼がシァナを手荒く扱うのは珍しいことではないが、今回はその行動の中に焦りが混じっているようにも感じる。

 確かに、師匠が言っていることは事実だ。二人が居住区らしき層に到達してからもうそれなりの時間が経っているというのに、いまだ『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の住民を誰一人として発見できていない。家の中は例外なく無人だったし、小さな声も反響するこの地下空間で物音ひとつ聞いていない。地上からの光がほとんど届かない環境ではあるが、そもそもシァナたちは視覚に頼らずに『力』そのものを認識することができる。生きているものが付近に存在するならば、二人が気づかないはずがなかった。


「もっと下の方にいるんじゃないかな。この穴、まだまだ深いみたいだし」


 シァナがそう言うと、師匠は気難しい顔で首を横に振る。


「仮にそうだとしても、あまりに静か過ぎる。俺たちがここまで来れば、連中も確実に気づくだろ。だってのに、それに対する反応が欠片も感じられねぇ。下層からは微細な振動一つなかった」

「……もう、ここにはいないとか? この土地からは出られなくとも、大穴自体を放棄したのかもしれない」

「その可能性は低いな。少なくとも三十年前まで、連中はこの地底の街に身を置いていたはずだ。それを確認した奴がいる」

「三十年前……」


 思いの外最近の話だった。『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の不死人たちが生き続けている五百年という期間を考えれば、三十年は十分に短い。


「じゃあ、『塔』に先を越された?」

「それこそないと思いてぇが……まあいい。とにかく底まで行くぞ」

「うん」


 どのみち、最後まで調べ尽くさなければ気が済まない。二人は探索の速度を大幅に引き上げると、より深淵に向かって進み始めた。



 結論から言うと、いなかった。

 この巨大な縦穴の内部に築かれた街――『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の最下層まで到達しても、噂に聞く不死の住民が見つかることはなかった。

 発見できたのは彼らが遺した建築物や彫刻、そして壁に刻まれた呪いの言葉くらいである。


「どうする?」

「どうしようもねぇな」


 二人は縦穴の底で頭を抱えた。『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の建築群は下層に足を進めるにつれてさらなる発展を遂げていたが、さらに下ると今度は無秩序な破壊によって瓦礫しか残っていない区域が続き、その後は最盛期の完成度が嘘のような精度の低い住居の塊が並んでいた。発狂の痕跡も数多く見受けられ、彼ら自身が街を破壊して回ったのだと推測できる。


「……あちこちぶっ壊れてるのはどうでもいい。発狂するのも当然だ。だが三十年前に正気を保っていた奴は一定数残っていたはず。それがこの穴のどこにもいない? ……ありえねぇ」


 もはや一筋の地上の光も届かない地の底、住居とも呼べないような土塊の上に腰を下ろして、師匠は何やら小声でぶつぶつと呟いている。その表情は硬く、声には苛立ちが滲んでいた。

 シァナは荷物を降ろして師匠の横に立ち、黙ってその姿を見つめる。彼がこんな風に悩むのは初めてかもしれなかった。師匠はいつも飄々と日々を生き、時に息が詰まる程冷徹で、時に顎が外れる程豪快に笑う。だが弱さを感じさせる側面をシァナに見せることはまったくない。

 想定外のことが起きている。

 この時シァナは既に不吉な前兆を感じ取っていて――事実、そのすぐ後に『それ』は来た。


「構えろ!」


 師匠が唐突に立ち上がり、叫ぶ。

 シァナの身体は瞬時に反応した。僅かに緩んでいた意識が即座に切り替わり、あらゆる方向からの脅威に対して感覚が研ぎ澄まされる。

 視線を向けるのは頭上。

 ほとんど暗闇の状況下ではあるが、見えた。空間全体を揺らす程の轟音を響かせて、膨大な量の土砂がシァナたちのいる穴底へ向かって落ちてきている。


「落盤!?」

「そんなやわな造りじゃねーだろここは!」


 怒気を孕んだ声とともに、師匠が拳を振り上げた。馬車一台分はあろうかという大きさの土塊が快音とともに砕け、勢いよく周囲に散らばる。


「丸ごと崩れるぞ! 走れ!」


 どこに、と聞く必要はなかった。脱出口は上にしかない。

 二人は荷も拾わずに地を蹴ると、跳ねるようにして身を躍らせた。次々と落下する土塊を躱し、砕きながら、土砂の薄い層を見極めて走る。元来た道を引き返すのは不可能。即座にそう判断すると、縦穴の内壁に足をめり込ませ、地上へ向かって垂直に駆け出した。

 多少の土塊が直撃したところでシァナたちが死ぬことはないが、ここまで深い地の底に生き埋めになるのはさすがに困る。外部から奪い、身体に蓄えた熱量も無限ではない。膨大な土砂の重量に耐えながら地上への脱出を図るのは、それなりの死の危険を伴いそうだった。

 崩れかけの内壁を蹴りつけながら、シァナたちはひたすらに地上を目指す。

 限定的だが、『技』は重力にすら干渉できる。余裕、とまでは言わないものの、壁を走り続けることは二人にとってさほど難しい技術ではない。

 とはいえ、縦穴の崩落は激しかった。師匠が言った通り、単なる落盤ではないようだ。どこか一部の老朽化や脆弱性が原因で引き起こされたものならば、もっと偏った、言うなれば自然な崩れ方をする。だが目の前の崩壊は均質的で隙がなく、すべてを埋め尽くそうとする人為的な悪意が感じられた。

 まさか、『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の住人がこれをやったのだろうか? しかしだとすれば、一体何のために?


「師匠!」

「……話は後だ!」


 前――いや、上を走る師匠に思わず声を掛けるが、しかし今はそれどころではないと一蹴された。

 注ぎ落ちる土砂の勢いが増している。このままの速度では間に合わない。

 二人はほとんど同時に、身体の内に蓄えた『力』を両足に回した。瞬間、爆発的に加速し、身体が土砂を切り裂くような勢いで突き進んでいく。太腿と脹脛辺りの筋繊維がぶちぶちと千切れる感覚があったが、そんなものは後で自然治癒に任せれば良い。暴力的な質量が相手では、多少の無茶も必要だった。


「はあ…………」


 どうにか縦穴を脱出した頃には、さしもの二人も息が切れていた。 

 長い間走り続けていたような気もするが、実際には崩落が始まってから数十秒と経っていない。

 掘削に莫大な労力が費やされたであろう『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の縦穴はいまや完全に崩れ落ち、見る影もなかった。まるで巨大な蟻地獄の巣穴のように、すり鉢状のなだらかな穴が広がっているだけだ。周囲には灰色の土煙が舞っており、シァナはごほごほと咳き込みながら衣服の汚れをはたき落とす。

 まったく酷い目に遭った。本気で命の危険を感じたのは、一体何年ぶりのことだろうか。

 そんなことを思いながら、彼女はとりあえず穴の外縁まで出ようと思案し、一瞬だけすぐ横の師匠に目を向けて――


「……師匠?」


 そこでようやく、異変に気がついた。

 土煙の合間に見え隠れする師匠の輪郭が、どこかおかしい。

 はっとして目を凝らすと、師匠の左腕、その肘から先が消えていた。何かとてつもなく鋭利なもので切断されたように、綺麗な断面が覗いている。


「師匠!」


 思わず駆け寄ろうとしたシァナだったが、師匠の右手に制され、立ち止まる。

 師匠はシァナに視線を向けず、衣服の一部を裂いて瞬時に左肘の止血を済ませると、すり鉢状の斜面の外側、穴の外縁の一方向を強く睨みつけた。

 聞き慣れぬ声が響いたのは、その時だ。


「首を落とすつもりだったんだが……思ったより、衰えていないじゃないか」


 嗄れた女の声。

 唐突な突風とともに周囲の土煙が晴れていき、その持ち主の姿が露わになる。

 それは一人の老婆だった。首元で切り揃えられたその髪は、乾いた血液のような燻んだ赤。背丈はシァナよりもやや高く、藍色の外套に包まれた肉体は、本当に老人なのかと疑いたくなる程に姿勢が良い。相貌には年相応の皺が刻まれているが、顔立ちは整っており、その黒い両眼には力強い意志が宿っていた。

 何より目を引くのは、皺まみれの右手に握られた長剣だ。老婆の身長を優に上回る長さのその剣は、彼女自身の髪とよく似た赤い刀身をしていて、その先端からは、師匠のものと思しき鮮血がぽたりぽたりと垂れていた。


「…………リィミザ」


 驚愕に目を見開いた表情で、師匠が漏れ出るように声を溢す。

 驚いたのはシァナも同様だ。俗世に囚われず、常に超然としていて、記憶以外に興味がない。そんな師匠が他人の顔を一瞥しただけでここまで呆けた表情を見せるなど、この七年間で想像したことすらなかった。


「師匠、この人は……」


 疑念に耐え切れずにシァナが問うと、師匠は短く小さく返答する。


「俺の師だ」


 それを聞いて、シァナの胸中にさらなる驚きが広がっていく。

 師匠の師。『凪の民』の最後の子孫にして、この『ただひとつの大地イア・スフィア』を縦横無尽に荒らし回ったという、一世無頼の大泥棒。

 それがまさか女であり、しかもいまだ存命だったとは。師匠は自分の師について本当に断片的にしか語らなかったから、シァナはかの人物が男であると勝手に思い込んでいたし、その口ぶりから既に死別したものだと考えていた。

 余計な詮索を避けるために、わざと性別を隠していたのかもしれない。おそらく、そうだろう。師匠は嘘をつかないが、それは真実を必ず話すことと同義ではない。

 とにかく今、前提は覆った。

 シァナの脳裏に思い起こされるのは、いつかの夜、彼が溢した一言だ。


『…………ある女を探しているのさ』


 あの言葉が譫言などではなく、真実だったとすれば。今まさに目の前に姿を現したこの老婆こそが、師匠の探している『ある女』、すなわち彼の旅の目的そのものなのではないのだろうか。だとすれば、他人に興味がないはずの師匠がここまで狼狽するのも頷ける。

 閃きのようなシァナの推測はしかし、老婆に対して発せられた師匠の問いによって否定された。


「リィミザ。お前は死んだはずだろ」


 心底信じられない、というような声色。鎌をかけているわけではない。

 師匠は死んだと認識していた? だとすれば、彼女は彼が探している『ある女』ではないのか? シァナの混乱をよそに、老婆――リィミザは半ば笑いながら師匠の問いに答えた。


「はっ。死んだ? 何を馬鹿なことを言っているんだ、ルセン。あたしゃぁ一度もくたばったことはないよ」

「んだと……だが、確かに……」

「ああ、そうか。成程成程、お前はわけかい」

「! くそったれ、そうか……」


 斜面の上から、リィミザは見下ろすように言葉を投げかけている。場の主導権を彼女が握っている様子だ。

 シァナは二人の会話についていけていない。完全に蚊帳の外。一体何を話し、何に納得しているのかも理解できない。ただ『ルセン』という耳慣れぬ単語が師匠の名前なのだという事実に困惑したまま、ぐるぐると巡る思考を押さえつけるようにその場に立ち尽くしていた。


「ひひっ。そこの女はあたしの代わりかね? 随分な美人じゃないか」

「るせぇ。こいつはただの道楽だ。そんなことより、何しにきた。こんな罠まで用意しやがって……いきなりぶち殺される謂れはねぇぞ」


 切断された左肘を軽く持ち上げて、師匠が吐き捨てる。

 記憶を盗めば聞くまでもないというのに、とシァナは一瞬疑問に思ったが、目の前の『力』の流れを目にして得心した。二人は既に『技』を行使している。『腕』を伸ばし、互いの身体から『力』を引き摺り出す水面下での戦いはとっくに始まっていた。双方の力量が拮抗しているせいか、睨み合いのような状態が続いているものの、実際には目を凝らさねば見えぬほどの極小の青い閃光が無数に弾け、ぶつかり合っては消えている。

 シァナは息を呑んだ。曲がりなりにも『技』の使い手としての修練を積んだ彼女には分かる。これは別次元の戦い。とてもシァナが割り込める領域ではない。ここに自分が手を出すのは、それこそ針の山の中へ無造作に素手を突っ込むようなものだ。


「まったく、さっきので殺せれば良かったんだがね。どうにも一筋縄じゃあいかないようだから、話してやるよ。最初から」


 この均衡は長く続くと悟ったのか、リィミザは観念したように語り出した。


「ルセン。あんたはとっくにらしいが、あたしは盗みを辞めた後、遠い南西の田舎に引っ込んだ。もう五十年も前の話になるかね。深い森に囲まれた、イレークベークという名の居心地の良い村落だよ。あたしはそこで一人の男と出会い、結婚し、二人の子を産み育て、『技』を忘れて静かな暮らしを送っていた。気楽な隠居生活というやつさ」

「けっ。よりにもよってお前が、家族だぁ? 真っ当に老いてやがるのはそういう訳か、馬鹿馬鹿しい。だったらその辺境で勝手にくたばりやがればいいだろうが」


 師匠は珍しく怒りを剥き出しにして、リィミザの瞳を睨みつける。


「ふん、あたしだってそうしたかったんだがね。つい最近、そうもいかない事情ができた。聖皇国ディ・メア――知っているだろ? あれだけ散々暴れ回った報いか、あたしは今更になって奴らに目をつけられた。あんたも知っての通り、ディ・メアが抱える神秘は辿。記憶を消して一件落着とはいかない。しかも半自動的、半永久的に引き継がれるときた。あたしは『魔女』という風評を流され、それを消すために奔走している内に、今度は家族が人質に取られた。そうなったら後にやらされることは決まっている。奴らの国の利益のための行動さ」


 リィミザは深く溜息を吐くと、その憤りが表出したかのように右手の長剣を軽く振るった。風切り音とともに一瞬空気が捻れ、彼女の真横の地面から深い亀裂が走り、シァナたちが立つ斜面の真横を通り過ぎていく。

 シァナは身動きひとつせずにその光景を眺めながら、何年も前の出来事を思い出していた。

 いまだシァナが記憶の盗取に慣れなかった頃、ジーグヴェーンの街で標的にした一人の人形劇行者ファク・ラタ――否、心操ゲルグの術師。彼もまた、ディ・メアのために動く手駒の一人だった。

 確か、彼の記憶を覗いた師匠は言っていた。かの国は大規模な戦争を起こしたいのだと。よもや彼らの暗躍だけが原因ではないだろうが、この世界で五指に含まれる大国だ、今大陸を席巻している戦火の嵐を引き起こした要因のひとつには間違いない。


「色々やったよ、嫌々ね。あたしなりに『できること』を隠していたから、奴らはあたしの『技』を精神に干渉するだけのものだと思い込んでいたし、その範囲で達成できる命令しか回ってこなかったけれど、苦痛であることには変わりなかった」

「俺を殺すのもその一環か?」

「近いが、違う。これはあたしの身を守るための行動だよ」


 リィミザはかつ、かつ、と剣の切っ先で地面を叩きながら、


「どうも丁寧に痕跡を消しながら移動しているようだけど、あんたの存在もいつかは奴らに気づかれる。あたしみたいに『痕跡を消した』という痕跡を辿れる人間は皆無じゃないからね。そしてあんたの存在が明らかになれば、『技』の本質も露呈するだろう。それは、あたしにとって困ることだ。だからあたしはあんたが必ずやってくるであろうこの最果ての地で、あんたを殺すために待っていた。『塔』の計画を頓挫させる仕事のついでにね」

「……雪原にいた『呪い憑き』は、俺がここに来たことを知らせる呼び鈴代わりだったわけか。ここにいた不死人たちはどうした?」

「全員、氷漬けにして埋めたよ。ここよりもっと北の地点にさ」

「そうか」


 師匠は納得したように暫し沈黙すると、今度は怒りと呆れが入り混じったような複雑な表情を浮かべて、言った。


「……つまらん。耄碌したな、リィミザ。何が目をつけられただ。何が家族を人質に取られただ。お前なら、どうとでも出来るはずだろう? あんな国、丸ごとぶっ潰しちまえばいい。壊して、盗んで、『力』を奪って。因果を辿る神秘の継ぎ手がいなくなるまで、神官でも国民でもなんでも殺し尽くせばいいはずだ。何故そうしない? 少なくとも、以前のお前ならそうしたはずだ」


 思わず隣のシァナが怯む程の冷たい声色。しかしリィミザはそれを躱し、受け流すように、先と変わらぬ口調で淡々と言葉を返す。


「……確かにやろうとすればできるさ、今でもね。だけど例えディ・メアを潰したところで、もう普通の生活には戻れない。それだけの行動を起こせば、あたしの存在はもっと広くに知られるだろう。隠しようがなくなる。それに、できるといっても、家族と村を守りながらは不可能だ。あたし自身の『限界』も近い」


 リィミザはそこで長剣を地に突き立てると、外套ごと着衣を破くような勢いで、自身の胸部をシァナたちの方へ晒した。

 本来見えるべき素肌はそこにない。代わりに鎖骨の辺りから下が、びっしりと黒い鱗に覆われていた。

 それは師匠の右腕を覆っているものとそっくり同じものだ。『技』によって『力』を保持し続けてきた代償、人ならざる竜への変貌。それは、死への秒読みの可視化に他ならない。


「奴らは屑だが誓約は守る。あの国が大陸の覇権を握った後、あたしは普通の生活に戻れるんだ」

「ふん。随分つまらねぇしがらみに囚われるようになったんだな」

「つまらなくなんてないさ。あんたが、そして昔のあたしが『外れていた』だけだ。あたしは家族を、本物の幸福を守るためならなんだってする」


 そして、リミィザは再び長剣を手に取った。

 話は終わりだとばかりにすっぱりと会話は打ち切られ、空気が重く静まり返っていく。今この時、二人の間に深い断絶が刻まれ、それがどうやっても修復できない不可逆のものであることを、シァナは悟った。


「師匠、どうするの?」

「殺す。俺の知っている女は、もうこの世にいないらしいからな」


 そう答える師匠の翡翠色の瞳には、もはや怒りも憂いも存在しなかった。

 そして師匠が結論を出したならば、シァナは弟子としてその方針に従うだけだ。どのみち、シァナが『技』の使い手であることを知れば――あるいは知っているのならば、リィミザはついでとばかりに彼女のことも殺すだろう。最初から選択肢はないに等しい。

 シァナは軽い深呼吸と共に、赤髪の老婆を見据える。あちらの関心と警戒はほとんど師匠に向いていて、シァナの存在はさっぱり眼中にないようだ。

 そこを突く。端的に言って、リィミザはシァナを舐めている。師匠とリィミザの『技』がこのまま拮抗し続けるとしたら、これから行われるのは単純な暴力による殺し合い。付け入る隙は十分にある。師匠の左腕が失われ、あちらが魔術や神秘の込められた魔剣を携えているとしても、シァナが全力で奇襲をかければ天秤は師匠に傾く。なんなら、そのまま剣を盗んでやろう。

 あの師匠の懐から革袋を盗んだ身体能力。それはこの七年間で熟成し、他者から盗んだ『力』による強化によって一時的に師匠にも匹敵した。

 縦穴から脱出する際に損傷した両足の筋肉と腱は既に治癒している。

 じりじりと緊迫する空気の中、シァナはほんの僅かな『ゆらぎ』を待ち続け、やがてリィミザがゆっくりと半歩を踏み出したその瞬間、


「…………っ!」


 脱兎の如く飛び出そうとして――しかし即座に防がれた。

 リィミザにではない。すぐ隣の師匠が、残った右手でシァナの首を力強く掴んでいたのだ。的確に頸椎を押さえつけられ、抜け出そうにも動くことができない。思わず抗議の声を上げようと師匠の方へ視線を向けるが、


「阿呆。お前は足手まといだ」


 息を吐く間も無く、今度は全力で上空に放り投げられた。

 全身が渦潮に巻き込まれたように滅茶苦茶に回転し、視界が目まぐるしく移り変わる。三半規管が使い物にならなくなるまで一秒とかからない。

 これまでに見たことがない程の、凄まじい膂力。

 投石機によって射出された岩石の方が、まだまともな挙動をするだろう。そう言いたくなるくらいの乱雑さと速度で、シァナの身体は遠く『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の縦穴跡を過ぎ去り、灰色の雲を突き破って空に舞う。

 何故? どうして? 浮かぶ疑問すら肉体の負荷の前に霧散していく。

 大気が薄い。呼吸がままならない。遠のく意識を必死に保ちながら、シァナはただ一瞬、すなわち着地の際に『技』を行使するための精神力を絞り出す。

 ああ、しかし。今、自分は一体どれくらいの高度を飛んでいる?

 確か、遥か彼方、南の果てのトフ大断層に挑む冒険家たちが、高度計なる物品を持っていた覚えがある――いや、確か名前は気圧計だったか?――興味が向かなかったために無視したが、しまった、あれも盗んでおけば良かったか――いや、どのみち、そんなものを取り出す余裕はない――

 などと。

 余計な思考が紛れ込む間に、シァナの視界を一面の白が埋め尽くした。



 どうやら生き長らえたらしい。

 そう気づいた時、シァナの全身は分厚い積雪の中に埋もれていた。

 いつの間にか『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』があった灰色の土地の境界を超え、あれだけ歩いたリヴェ雪原まで戻ってきていたのだ。一体どれ程の距離を飛ばされたのか、想像もつかない。


「落下地点に雪があることも計算通り、か……」


 いくら師匠やシァナが人間離れしていると言っても、さすがに雲の上から剥き出しの地表に叩きつけられれば死は免れないだろう。すべて計算づくで生かされたのだ。

 歯噛みしながら、シァナは『技』を行使し、凍傷寸前の身体に熱を取り込んだ。落下の衝撃で両脚の骨がかなり複雑に損傷しているようだが、動けないことはない。蓄えた『力』も残り少なく、治癒には先程の比ではない時間がかかりそうだが、それでもやることは決まっている。

 シァナは雪の上に残った落下痕から『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の方角を割り出すと、這うようにしてゆっくりと動き出した。

 長い髪の結び目が解けて邪魔になっていたので、手刀でざっくりと寸断する。毛先を切り揃える余裕はない。

 左顔面を覆っている布はまだ使えそうだったので、そのままだ。


「く、そ……」


 思わず、声が漏れる。このままおめおめと逃げてたまるものか。

 師匠は何も、シァナを助けるためにあの場から逃した訳ではないだろう。そういう男ではない。もしシァナがリィミザとの殺し合いにおいて有用ならば、道具として容赦なく活用していたはずだ。

 つまり、あの『足手まとい』という言葉は揺るぎようもない真実。

 それでも、シァナは戻るつもりだった。

 師匠からはまだ、『技』のすべてを盗んでいない。あんな老婆に負けるとは思わないが、勝手に死なれては困るのだ。

 雪を掻き分けるようにして、シァナはひたすらに前へ進む。



 再び『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の縦穴があった場所まで戻ってくる頃には、およそ半日の時間が過ぎていた。この地の性質によるものか、いつまで経っても陽が落ちず、朝か夜かも分からない。ただ薄らぼんやりとした陰気な光が灰色の大地を照らしていて、それはどこかこの世の終末を思わせた。

 シァナは『技』による熱量操作で形成した氷の杖を突きながら、自身が放り出されたすり鉢状の地面に近づいていく。

 外縁部に足をかけ、半ば転がり落ちるようにして斜面を滑り降り、そして。


「師匠」


 巨大な土塊の傍ら、深い血溜まりの中に沈む男へ声をかけた。


「……んだよ、戻ってきたのかよ」


 間髪入れずにいつもの口調が返ってくる。

 しかし、どう考えてもそんなに暢気なことを言える状況ではない。

 土塊にもたれかかるように倒れる師匠の身体は、筆舌に尽くしがたい惨状を呈していた。衣服はずたずたで、剥き出しの肌には深い切り傷と打撲痕が並び、両腕は肩口からすっぱりと切り落とされていて、下半身は何かで押し潰されたようにぐちゃぐちゃだった。

 辛うじて生きてはいる。だが、保ってあと数分だろう。


「…………っ」


 シァナは反射的に『技』を使い、自分の内側から生命力に類する『力』を師匠の中へ移そうとする。ありったけ、こちらがどうなっても構わないと思う程の分量を。

 だが伸ばしかけたシァナの『腕』は即座に弾かれ、抑え込まれるように自身の内側へ引き戻された。師匠の抵抗によって妨げられたのだ。

 元より、シァナは自己から他方への『力』の移動は得意としていない。彼女の『技』は、常に盗むことにおいてその真価を発揮した。


「やめろ。施しは受けねぇ、つったろ」


 不快だ、という感情を滲ませて師匠が言う。


「でも!」

「でもじゃねぇ。分かんだろ。こりゃ、もう無理だ」

「…………」

「どのみち、俺ももう限界だったんだよ」


 呟き、師匠は自分の身体に視線を向ける。それにつられて再び瀕死の肉体をまじまじと見つめたシァナは、彼の言わんとすることを理解した。

 膨大な出血に紛れて気づかなかったが、僅かに残った彼の身体の端々が、あのリィミザと同じように黒い鱗に覆われている。傷口から垣間見える内部の肉もどこか不自然に黒ずみ、異様に肥大化した血管と骨が無秩序に融合していて、それが人ならざるものへの致命的な変質であることをはっきりと物語っていた。

 いつから、こうなっていたのだろう。シァナはまったく気づいていなかった。最後に右腕を見せてもらった夜から数年、変異は加速度的に進んでいたらしい。

 シァナは思わず息を呑み、視線を横に逸らして、逃避するように問いを投げかける。


「……あの女の人は、どうしたの?」


 それに対し、師匠はくい、と顎でシァナの背後を指した。

 振り向くと、師匠が倒れている斜面の対角線上に位置する地点に、十や二十ではきかない数の肉片と血痕が散乱していた。ひとつひとつがあまりにも細かく、死体と呼ぶことすら躊躇われる。一体何をどうすれば人体がああなるのか、想像もできない。


「あの婆、俺を舐めてたな。ま、油断してたのは俺も同じだったみてぇだが」


 師匠が自嘲げに呟く。飄々とした口ぶりだが、顔は青く、声は段々と弱々しくなっている。

 シァアは心のどこかで、彼が無敵だと思っていた。

 この七年間、どんな怪物めいた脅威と相対しても、彼がまともな傷を負うことは一度としてなかった。擦り傷すら見たことがない。

 さすがに左肘が切断された時は肝を冷やしたが、あれだって不意を突かれただけで、真正面からやり合って師匠が死ぬはずはないと盲信していた。結局はいつものように、平然とした顔で生還するのだと。

 それがどうだ。根拠のない幻想はあっさりと覆されて、今ここに現実が横たわっている。


「…………」


 シァナは押し黙る。何よりも、想像以上に動揺している自分に困惑した。

 本来は、悲しむことすら正しくない。

 二人の関係は、もっと淡白なものであるべきだった。

 シァナが彼に師事するのは、記憶を奪うあの術が欲しいから。師匠がシァナを連れ回すのは、いつでも捨てられる旅の道楽が欲しいから。

 それだけの繋がり。それだけの契約。不要な感情は、端から捨てていたはずだというのに。

 目蓋を閉じ、動悸を抑えるように浅い呼吸を繰り返した後、再び目蓋を開いたシァナは、自分でも思いもよらぬ言葉を口にしていた。


「師匠、わたしは……師匠が欲しい」


 それは盗みに対する彼女の欲とはまた違う、理解不能の感情の発露。

 分からない。これは恋慕の情などではない。ましてや、愛でも。


「ひひっ……そうか、この世の全てを盗むなら、当然俺も盗まなきゃならねぇよなぁ」


 師匠は笑う。おそらく、言外に込められた複雑な思いを察していながらも、それをないものとして口の端を吊り上げる。

 シァナはその素振りに対して僅かな物寂しさを覚えたが、しかしこれでいいのだと息を吐く。

 届かなくてもいい。受け流されても構わない。


「最初に言ったな。俺は施しはしねぇし、受けねぇ。こんな死にかけだろうが、身体も、記憶も、一片たりとも譲ってやる気はねぇ」

「うん」

「俺たちは泥棒だ。なら――やることは分かってるよな」

「当然」


 分かっている。最初から。

 ずっと昔から、自分にできることはたったひとつ。

 シァナは自分の左顔面を塞いでいた布を乱暴に剥ぎ取る。一年程前から、これは火傷の痕ではなく、まったく別のものを隠す用途に使われていた。

 露わになるのは、右と同じ青い瞳と、その周りを覆う異形の鱗。師匠やリィミザの身体に生じていたものとは比べものにもならないが、人ならざるものへの侵食は、既にシァナの身体にも現れている。

 もっとも、そんなことはどうでもいい。

 シァナはその青い両眼で、倒れ伏す師匠の翡翠色の瞳に焦点を合わせる。

 深く息を吸い、吐く。これは準備。あるいは単なる助走。

 覚悟は既に定まった。


「――いくよ」

「来い。最終試験といこうじゃねぇか」


 そして、二人の視線の間で、彼らにしか見えない青白い閃光が爆ぜる。

 師匠の内にあるものを盗むために、シァナは強く『腕』を伸ばした。



 見渡す限り、そこは混沌の世界だった。

 他者の記憶を盗む際、シァナが入り込む彼らの心の内――それらは常に『海』という形をとって彼女の目の前に現れる。

 例外はない。水温、水深、空の色、海中に潜む数々の心象の具現。そこには多種多様の個性が存在したが、しかし海として認識できなかったことは一度としてない。

 だが、今。初めて師匠の『内側』へと入り込んだ瞬間、シァナは眼前に広がる恐るべき光景に思わず息を呑んだ。

 荒れ狂う嵐。迸る奔流。

 そこには確固たる空も海も、上下左右の感覚すらもない。

 海水は海としての体裁を保たずに広大な空間の全域を漂い、目まぐるしい速度で幾何学的な形状へと変転し、時に現実世界に存在する多種多様な物体の姿を再現する。

 岩、鳥、昆虫、楽器、樹木、塔、剣、鎧、盾、馬車、滑車、家、彫刻、宝石、城、暖炉、燭台、円蓋、階段、架橋、梯子、眼球、臓物、断頭台、廃墟、帆船、旗、硝子、木箱、竈、本、井戸、櫓、鐘、納屋、穀物、釘、杭、鎖……。

 すべてが支離滅裂。思考の処理も追いつかぬ膨大な情報量。刹那の間に繰り返される崩壊と再構築。流転と凝固。再帰と新生。

 ――これが、師匠の、『海』なのか?

 そう問うと同時、シァナは悟った。


『――盗んだ記憶は分類しとけ。狂いたくなければな』


 いつか聞いた忠告がシァナの頭に反響する。

 大陸を渡り歩き、膨大な量の記憶を盗んできた師匠が、一体どうやってその自我と精神を保っているのか、シァナはずっと気になっていた。『幸せな記憶』を選り好みして奪うシァナと違って、師匠はもっと多くの記憶を奪い、蓄積し、時に利用している。しかしいくらその整理が可能だからといって、自分の人生の記憶を遥かに超える量の情報を抱えながら、正気を保ち続けることが可能だろうか?

 答えは否。否だった。

 師匠はとっくに狂っていたのだ。

 おそらくシァナと出会う前からずっと、彼はこの狂気の海と共に生きてきた。

 濁流のような負荷にその自我と神経を焼き尽くされながらも、それでも強靭な意志で身体を動かし、大陸を巡り、ひたすらに他者の記憶を盗み続けた。


「……師匠」


 しかし、だとすれば。

 師匠が旅を続けてきた理由、その意思を支えた原動力は一体何なのか。

 分からない。分からないが、おそらく、それこそが師匠の最も大切な記憶。狂い続けてきた彼のすべてといっても過言ではない宝。

 ならば、それを盗む。

 目に見える混沌に惑わされるな。

 ある女を探している、と以前師匠は言った。それはリィミザではなかったし、いまだに心当たりはひとつもない。繋がりがあるかも不明だが、しかしこれだけが唯一の手掛かりなのは間違いなかった。

 吹き荒ぶ暴風の中で姿勢を保ちながらも、シァナの身体は上とも下とも分からない方向へ落下し続ける。

 荘厳な神殿の形を取った海水の塊の中へ突っ込み、通り抜け、今度はまた別の塊の中へと身を投じる。持ちうるすべての感覚を研ぎ澄まし、全身を切り裂くような痛みを跳ね除けて、ただひたすらに『正しい方向』へと。

 しかし、この世界もシァナの暴挙を黙って見過ごしはしない。


「っ!?」


 遠方に漂っていた海水が不意にうねり、脈動し、大きく引き伸ばされて、黒い鱗を持った竜の姿を形作る。遠近感が狂いそうになる程の巨体。古き時代に空を支配したと言われる生態系の頂点。一説には異星から舞い降りた超越者。竜は吹き荒れる暴風をものともせず、大口を開いて一直線にシァナの元へと飛来する。

 当然、これは幻だ。師匠が、あるいは師匠の無意識が生み出した、精神の防衛機構のひとつに過ぎない。

 だが仮にシァナがあの顎に食い千切られるようなことがあれば、それは本物の痛覚とともにシァナの精神に反映される。『技』を維持することも出来なくなり、この世界からも追放されるだろう。

 これは魂の戦いなのだ。刻限は師匠の死。それまでに、彼が最も重きを置く記憶を盗み出せるかどうかの。


「どけっ!」


 シァナは身を捻り、眼前に迫った巨大な顎を回避して、強引に竜の背中に飛び移る。硬い鱗の上を滑り落ちるようにして、自分の直感の導く方角へ跳躍する。

 彼女の動作には一切の揺らぎがない。

 シァナは徐々に理解し始めていた。一見無秩序に見えるこの『海』にも、一定の法則、あるいは比重のようなものが存在する。空間全てを襲う嵐、暴風。その力の流れを仔細に感じ取れば、それらが『何か』から侵入者を遠ざけるように作用していることに気づける。

 ならば、あえて過酷な道程を選べばいい。

 竜の強襲を避け、この空間における五体の無事――すなわち自我の強度を保ちながら、シァナは突風に正面から突進する。


「……あれか!」


 やがて、荒れ狂う混沌の果てに、この世界の海底とも呼ぶべき空間が見えてきた。

 一面の青。渦巻く暴風雨に隠されるようにして、とてつもなく巨大な構造体が沈んでいる。都市ひとつは飲み込めそうな体積、圧倒的な存在感。それは宮殿のようにも見え、城のようにも見え、塔のようにも見え、監獄のようにも見えた。不規則に変化し続ける周囲の空間と違って、ここだけは堅固な構造を保ち続けている。 

 間違いない。この場所に、師匠の最も重要な記憶が隠されている。

 シァナはさらに加速し、体当たりするように構造体の壁に突っ込んだ。海水が弾け、構造体の内側へと勢いよく転がり込む。

 もうあまり時間は残されていない。

 侵入当初、無限にも思える広がりを持っていた師匠の世界にも、いつの間にか綻びが生じ始めていた。端に火が付き、徐々に灰となっていく一枚の紙片のように、底の見えない暗黒が急速に世界を侵食している。

 これはつまり、師匠の死が近いということだろう。師匠の終わりはこの世界の終わりに等しい。

 シァナは長い通路を真っ直ぐに駆ける。侵入を拒もうと前方に壁が出現するが、ものともせずに蹴破って前に進む。迷宮めいた構造も、精神を乱す幻惑も、今この時、この瞬間、限りなく研ぎ澄まされたシァナの集中の前では大した意味を成さない。

 もちろん普段の、何の手傷も負っていない師匠ならば、こうも容易くシァナの侵入を許すはずがないだろう。七年の歳月が経とうとも、いまだシァナと師匠の間には途方もなく大きな差が存在する。

 戦いとして、これは圧倒的に平等性を欠いているのだ。

 しかしそれでもいい、とシァナは思う。盗むという行為は常に一方的で理不尽。何の言い訳も通用しない。自分はずっとそうやって数多の記憶と物品を盗んできたし、師匠もまた、同じだ。

 四方を囲うようにして具現した檻をすり抜けて、シァナは構造体の深奥へと身を躍らせる。

 奈落のような広い空間に出た。奇しくも今、現実のシァナたちがいる場所、今はもう崩壊した『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の縦穴に少し似ている。

 シァナは間髪入れずに頭から飛び込み、その底を目指す。

 最後の障害とでも言わんばかりに、内壁から数え切れない程の壁がせり出してくる。ひとつひとつが都市の城壁の如き堅牢さ――だが、ここまで来てしまえば関係がない。シァナはもう止まらない。

 すべてを掻い潜り、打ち壊し、彼女は奈落の底へと到達する。

 破砕され、海水となって散った滴がその場へ雨のように降り注ぐ。

 師匠の世界の底の底。心の深奥とも呼ぶべきその空間は、外の嵐と混沌が嘘のような静寂に満ちていた。青く、ただ深く、静かに凪いで澄んでいる。

 そしてその中央には、完璧な球体を保った物体が浮いていた。

 表面が海面のように揺らぎ、緩やかな対流が全体に広がっている。

 例えるならば極小の海。あるいは惑星。

 これが師匠が秘め続けてきた記憶の具現なのだ。


「わたしの勝ち、だね」


 呟き、シァナはゆっくりとそれに手を伸ばす。

 瞬間、眩い光が視界を埋め尽くした。



『よぉ、ガキ』


 抜けるような青空の下、小さく声が聞こえる。

 まるで師匠のような粗暴な口調。しかし、これは明らかに女性の声だ。

 視界の端から赤く美しい長髪が流れてきて、その持ち主が顔を出す。


『お前、あたしと来るか?』


 底知れぬ笑みとともに、赤髪の若い女はそう告げる。

 シァナは彼女を知っていた。師匠の師。凪の民の最後の子孫。先刻、彼と殺し合い、細切れの肉片となってその生涯を終えた一人の老婆。

 リィミザ。

 しかしこの記憶にある女は、シァナが見た老婆とは印象が異なっていた。

 おそらく、髪のせいだろう。老いたリィミザの髪の色は、乾いた血液を連想させる燻んだ赤だったが、この若いリィミザの髪は、まるで燃え盛る炎をそのまま閉じ込めたような、美しくも苛烈な赤色をしていた。加齢による変化なのかもしれないが、もっと根本、内に秘めた輝きらしきものが、若いリィミザの髪からは感じられる。


『おい、どうなんだよ。あたしと来るのか?』

『…………』


 リィミザのやや詰問めいた語勢に押されながらも、記憶の主――すなわち在りし日の師匠は首を縦に振った。

 これが一体何年前の出来事なのか、この瞬間までの師匠は一体何をしていたのか。その辺りの記憶は霞がかかったように淡く失われていて、再構成は不可能に近い。

 しかし、これが彼にとっての始まりの記憶、再びこの世に生まれ落ちた日の最も重要な出会いであることを、シァナは深く理解していた。


『お前は見込みがありそうだけど。とりあえず、その辛気臭ぇ面だけは直せよ』


 わしわしと師匠の頭頂部を乱暴に掻き回した後、リィミザは彼を連れ出した。

 一体どこから連れ出したのか、それもこの記憶からは読み取れない。

 ただ、地獄のような場所だった、という重苦しい印象だけが漠然と残っていた。

 リィミザに手を引かれ、小さく踏み出した師匠の一歩が視界に映る。土に汚れた裸足はまだ小さく、少年のもののよう。視線が下を向いていたのは、覚束ない歩き方のせいか、それとも目の前の奇妙な女を直視するのが躊躇われたのか。

 二人が歩き出した先が師匠の視界に映されることはなく、その記憶は光に包まれるようにしてふわりと弾けた。

 そのまま暗転する。緩やかに、しかし何の前触れもなく場面が切り替わる。


『何ぼけっと突っ立ってんだ。ほら行くぞ行くぞ』


 名も知らぬ国の宮殿。門の前に立つ衛兵たちの横をすり抜けて、リィミザが師匠とともにその内部へ入っていく。

 当然、二人は賓客でも何でもない。リィミザは自分たちを目撃した者の記憶を奪いながら、我が物顔で宮殿内を闊歩する。気に入った調度品を見つけては巨大な革袋に仕舞い込み、口笛を吹いて満足げな表情。特に意味もなく王の間をぐるりと一周して、彼女は自由気ままに外へ出る。

 欲に素直に。世界の全ては己がもの。欲したならば即座に盗め。

 天衣無縫の大泥棒。その姿に幼い師匠が憧れたのは、ある種の必然か、それとも単なる錯覚か。


 場面は再び暗転する。


『お前はまだまだ未熟だなぁ、ルセン』


 古びた内装の酒場。大量の料理が乗った机の向かい側で、リィミザは師匠を笑い飛ばす。手にしているのは真っ赤な蒸留酒。彼女好みの『赤い下戸殺しボゥ・トゥーレン』。ぐらぐら揺れる視界の中で、師匠は反論のひとつも紡げない。早く彼女に近付きたいと、幼心で初めて酒に手を出した代償。記憶に映らない彼の顔は、きっとあの酒と同じ赤に染まっているのだろう。


『焦んなよ。そのうち、お前にもあたしの盗みを教えてやっから』


 ひひっ、と快活な笑い声が頭蓋に反響して、師匠の身体がゆっくりと傾いていく。恥ずかしい。情けない。記憶に残る感情に、見ているシァナまで目を背けてしまいたくなり――


 さらに、場面は暗転する。


『おうおう、上出来じゃねーか。物盗むより記憶盗む方が上手いとは、珍しいこともあったもんだ』


 海岸線に連なる蒼の街。潮風香る美しい街の丘の上。隣に立つリィミザに見守られながら、師匠は初めての成果に胸を躍らせる。

 盗んだものはごく僅か。誰とも知らぬ住人の、何の変哲もない日常の一頁。

 だがその喜びは本物だった。咄嗟にリィミザに視線を向け、その顔に笑みが浮かんでいることを確認し、照れ臭さに思わず顔を背ける。

 記憶泥棒の第一歩。それは必要に駆られてのものではなく、欲に忠実に行動した結果でもなく、ただ彼女に褒められたかったから、ただそれだけの理由で踏み出されたものであると、シァナはそこで思い知る。


 暗転する。

 ――暗転する。暗転する。暗転する。

 シァナはいくつもの過去を辿る。劣化されずに保たれてきた深奥の記憶群を、師匠自身になって思い出す。

 静かな岬の柳の下で、水平線を見つめる女のたおやかな横顔を。

 何物にも囚われず、酒瓶片手に戦場を横切る千鳥足の背中を。

 戯れに都市中の記憶を盗み取り、混乱の声に歓喜する邪悪な笑い声を。

 夜半過ぎに毛布の隙間から繰り出される、その無意識の蹴りの強烈さを。

 どんな炎よりも紅く、決して色褪せることはないと信じていた、その唯一無二の赤い髪を。


 だが、走馬灯のように目まぐるしく展開する二人の長い旅の記憶は、ある地点から唐突に途切れていた。

 不自然な――あるいは人為的な空白。まるで結末だけが破り去られた物語。

 再び記憶がシァナの中に流れ込んできた時、それは全く異なる性質のものに変化していた。

 大都市の雑踏の中を颯爽と歩くリィミザ。それを追うひとつの視界。美しい女がいるものだと、その姿を一瞬追い、しかし見失って残念に思う、街に住む一人の男の記憶。

 突然村を訪れたリィミザを歓待し、自宅に泊め、特筆することもない世間話をして翌日に別れた、腰痛持ちの年配の女の記憶。

 昔、俺の友人に変な女がいてさ。と今は亡き父からちょっとした思い出話を聞かされ、その内容を明瞭に覚えていた、とある集落に住む少年の記憶。

 それらは師匠ではなく、別の誰か――名前も知らぬ人々の目を通して残された、『師匠を拾う前』のリィミザという女に関する記憶だった。


「そう、だったんだ……」


 そこでシァナはようやく、半日前のリィミザの言葉を理解する。


『ああ、そうか。成程成程、お前はわけかい』


 つまり、師匠は自分の手で、リィミザと別れた記憶を消し去ったのだ。

 何か決定的な出来事があったのか、それともリィミザが盗みを辞めるとでも言い出したのか。詳しい理由は分からない。

 とにかく師匠はリィミザという女に見切りをつけ、あるいはリィミザという女が変わってしまったことに耐えられず、彼女が死んだということにした。

 もちろん、シァナでも不自然と分かる程の空白だ。聡明な師匠ならば、その綻びに気づいてしまうだろうし、実際、何度も真相に思い至ったに違いない。だが、彼はその度に『気づいた』という自身の記憶を抜き取り、自分の頭から放り出した。自分を騙し、リィミザとの離別をなかったものとして切り捨てて、師匠はある目的のためだけにひたすら大陸を巡った。

 それは世界中に残るリィミザについての記憶を集める旅だった。

 シァナといた時の師匠と違って、リィミザは出会った人間すべてから自分に関する記憶を奪うような真似はしなかったし、彼女は泥棒ながらも親しみやすい、人の良い美人として旅先のあちこちで友人知人を作っていたから、彼女に関する記憶はそれこそ各地に散らばっていた。

 ただ一瞬の目撃。ただ一夜の会話。どんな些細な記憶や噂話であろうとも、師匠は残さず収集した。

 端的に言えば、それは醜い執着だ。

 自分が憧れた一人の女のすべてを知りたい。自分だけが彼女のことを覚えていればそれで良い。

 あれだけの『技』と経験を、たったそれだけのために費やしていたのかと絶句してしまう程の、どうしようもなく哀れな男の小さな願い。

『ある女』を探していたのではない。『ある女』の影を、師匠はその生涯をかけて追い続けていたのだ。


 ――ああ、なんだか。笑えてくる。


 あらゆる事象から超越した存在のように見えた師匠は、シァナの想像よりもずっと弱い、一人の執念深い男に過ぎなかった。



 深い潜行から戻ってくる。

『海』での体感速度は思考の速度と同等であり、現実においては僅かな時間しか経っていない。

 土砂の上、血溜まりに沈む師匠と、その傍らに立つシァナ。この光景にはほとんど変化がなかった。


「師匠」


 シァナが小さく声を掛ける。

 師匠は既にその目蓋を閉じていた。傷口から流れる血液はその量を増やし、微かな呼吸の動きさえ今はもう消えている。

 だが最後に、彼は思いの外はっきりとした声量で告げた。


「……シァナ。お前が俺に対して抱いた感情は、一時の気の迷い、単なるつまらん幻想だ」

「…………」

「そんな邪魔くせえもんは捨てちまえ。お前は『本物』さ。俺やあいつみたいな、紛い物とは違ってな」


 自身の最も大切な記憶を奪われたせいだろうか。それはいっそ清々しささえ感じさせるような、何かを悟った人間の声色だった。

 シァナは彼が唐突に彼女の想いについて言及したことに驚き、暫し返答に躊躇ったものの、結局は力強く肯定した。


「うん。分かってる」

「……そうか。分かってるなら、いいさ」


 そして師匠はそのまま、静かに息を引き取った。

『技』の使い手としてのシァナの視覚は、彼の肉体から生存に必要なすべての『力』が失われたことを、はっきりと認識していた。


 その後。シァナは師匠の遺体を抱え、リィミザだった肉片を可能な限り拾い集めると、『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の縦穴跡から離れ、さらに北、『絶海』と呼ばれる世界の果ての海が見える場所に、二人の遺体を埋葬した。

 墓石なんて洒落たものは用意できなかったので、道中で発見したリィミザの赤い長剣をわざわざ運び、遺体を埋めた土の上に突き立てた。ついでにシァナがイリマリアの露天商から盗んだ緑蓄貝の首飾りを、その柄に結びつけておく。

 無骨な墓の背後に見える、灰色の空の下の『絶海』はひどく不気味で、シァナは間違えたかな、と若干の後悔をしたものの、そもそもこれは自己満足に過ぎないのだ、と振り払った。

 どのみち、シァナがを考えれば全くの無意味だし、そもそも一緒に埋められたことに対して両人は怒り狂うかもしれない。

 師匠は確実に『自分の死体なんかその辺に捨てておけ』とでも言うはずだ。

 しかし、さすがに死んだ後にまで文句を言われる筋合いはないのだから、気にすることもないだろう。不死の呪いは存在しても、この世に死者を蘇らせる奇蹟は存在しない。生と死は常に一方通行で、決して逆行することはない。


「じゃあね、師匠」


 シァナは死者に対する祈り方を知らない。だから、彼女は即席の墓標に対してそう一言告げるだけに留める。

 そして墓に、世界の最果てに背を向けながら、シァナは師匠が最後に言った言葉をしみじみと実感し始めていた。

 一時の気の迷い。つまらない幻想。

 なるほど、きっとその通りなのだろう。

 なにせ師匠が死んでから、シァナの瞳からは一滴の涙も流れていない。

 今の彼女の胸中にあるのは、ただの揺るぎない欲。『盗みたい』という、どうしようもなく自分のためだけにある願い。

 シァナはこれまで、自分の人生が奪われてばかりのものだったから、その反動、代償として盗みという行為に魅入られたのだと思っていた。

 滅んだ故郷。燃え落ちた孤児院。スラムで殺された二人の義兄弟。

 恵まれた日々を送れなかったことが原因で、代わりに幸福な記憶を求めたのだと、そう錯覚していた。

 だが、違った。シァナはただ『盗みたいから盗んでいた』。

 そこに付随する理由は何もなく、それだけが彼女の深奥に根差すたったひとつの欲であり、そしてその衝動は決して治まることを知らない。


 シァナは生まれついての『本物ばけもの』だった。


 彼女は確かな足取りで歩き出す。

 頭の中で思い返しているのは、リィミザが何の気なしに呟いたあの一言。


『全員、氷漬けにして埋めたよ。ここよりもっと北の地点にさ』


 余計なことを言ったね、とシァナは軽く微笑む。師匠の『海』へと侵入し、一段飛ばしで成長したシァナには、彼ら―― 『最果ての集落ロゥ・ドゥナン』の不死人たちがすぐ近くに埋まっていることを、肌で認識することができた。


 真なる呪い。無限の熱量。

 その使い道を、シァナは既に決めていた。



 それから丸一年が経った、ある夜。

ただひとつの大地イア・スフィア』に生きる全ての生物は、その光景を見た。

 北の果てから満天の空に舞い上がる一頭の黒い竜と、そこに吸い込まれていく青白い閃光の軌跡を。

 ある者は寝台から目を覚まし、ある者は玉座から臣下の報告を聞いて、ある者は戦地の真っ只中で立ち尽くし、ある者は怯える家族を抱きしめながら。

 彼らは、自分の身に起こっている奇怪な現象に恐怖しながら、天高く飛んでいく竜の姿を呆然と眺め続けた。

 記憶が、急速に失われていく。

 唐突に見えるようになった、細く青白い糸のような光。それは自分たちの頭蓋からあの竜に向かって繋がり、大切な何かを容赦なく奪い取っていた。

 やめてくれ、と言ったところで意味がない。ふざけるな、と手を伸ばしたところで触れられない。それは決して止まらない。彼女は決して顧みない。

 ばたばたと。人々はその反動に耐えかねて倒れ、あるいは全ての記憶を失って、赤子のように縮こまる。

 ――ああ、美しい。あの青い光は何だろう。

 大陸を遥かに上回る規模の巨大な螺旋を描きながら、閃光が竜に向かって伸びていく。

 それが次の段階に入ったことを、空っぽになった彼らは知らない。 

 記憶を奪った今、用済みになったとばかりに、大地に亀裂が走る。内側の『力』を失った地盤が陥没し、草木は枯れ果てて無貌の荒野を形作る。星がぎ、ぎ、ぎ、と悲鳴を上げるように軋み、その偉大なる自転はついに停止した。

 ありとあらゆる生物が、物体が、建造物が、土地が、海が、一頭の竜の顎へと飲み込まれていく。

 星そのものと質量を逆転させながら、竜はただひたすらに天を目指す。

 この世のすべてを盗む。ただそれだけの目的のために。

 果てはない。種の壁を突破した彼女にとって、この星はあまりにも狭過ぎる。


『ひ、ひひっ、お前、空まで盗んでやろうってか! 阿呆だなぁ!』


 懐かしい声が、いまや人ではなくなった彼女の脳裏に去来する。

 この景色を見たら、彼はもっと大きく笑うだろうか。

 彼女は記憶につられるようにして笑おうと試みたが、そこに慣れ親しんだ発声器官は存在せず、代わりに大気を揺るがす咆哮と、ついでとばかりに炎が出た。


 ――そして、全ては消え去り。

 ひとつの大陸と多くの神秘、多くの知性を抱えた惑星は、一夜の内に盗み尽くされて。

 代わりに、青い瞳と黒い鱗を持つ一頭の竜が、星の大海へと飛び立った。

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最後の盗品、旅の終わり 針手 凡一 @bonhari333

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