中編

「俺は施しはしねぇし、受けねぇ」


 旅が始まった夜、師匠は念押しするようにそう言った。


「お前を拾ったのはただの気まぐれ、道楽だ。食い扶持は自分でもらうし、興味が失せたら捨てていく。よく覚えとけ。そこんとこ、勘違いするんじゃねぇぞ」


 おそらく、その言葉に嘘はなかった。

 最初から最後まで、師匠はシァナのことを『可哀そうな子供』として見なかった。彼にとってのシァナは常に『面白そうだから連れているだけのガキ』であり、時には『便利な道具』であり、そして『優秀な弟子』だった。この内のどれかひとつでも欠けていれば、師匠は躊躇なくシァナを旅路の途中で放り出していたことだろう。

 シァナ自身、その扱いに不満はなかった。むしろ気楽だったとすら言える。元々養われるつもりなどなかったし、同情なんて感情は向けられるだけ不愉快だ。

 シァナが彼に師事するのは、記憶を奪うあの術が欲しいから。師匠がシァナを連れ回すのは、いつでも捨てられる旅の道楽が欲しいから。

 それでいい。それだけでいい。互いにとって都合が良い、乾いた関係性こそ、二人が是とした繋がりだった。



 長らく暮らしていた日陰者の街ダブラを発ち、三日。シァナが師匠に連れられて辿り着いた場所は、活気溢れる交易の都、リングレイだった。

 薄汚いスラムに荒くれ者が蔓延する日陰者の街ダブラと比べて、リングレイの都は街を囲う城壁からしてものが違う。まるで大国の首都のように堅固で長大な城壁は、この都市が周辺区域においていかに重要な場所であるかを物語っており、多種多様な物品を満載した荷馬車が門の内外を騒がしく行き交っている。

 リングレイは大陸西方で大きな支配力を持つ二つの大国、聖皇国ディ・メアとレイローン連合を繋ぐ商業都市。両国の均衡を保つ『西の柱』とも呼称される、掛け値なしの要衝なのだ。

 シァナもこの街の存在は知っていたが、まさか三日で辿り着くとは思っていなかった。

 師匠は並外れた健脚の持ち主であった。ひと抱えほどもある巨大な荷を背負っているにも関わらず、大の大人の小走りにも相応する速度で歩き続け、しかも僅かな休息と睡眠時間を除いてほとんど足を止めない。悪路だろうが構わず突っ切り、まるで遙か先の目的地が見えているかのように直進する。

 一体、枯れ木のような体躯のどこにそんな体力があるというのか。出発の際に先行したシァナなどは早々に追い抜かれ、歯を食いしばりながら師匠の背を追いかける羽目になった。

 リングレイに到着した頃にはもう、疲労困憊の状態だ。


「おい、まだ歩けるだろ? 休む前に軽く西からかっさらう。ついてこい」


 とはいえ、師匠がシァナの様子を気遣うこともなく。どんな手段を使ったのか、彼は厳重に警備されているはずの街門を大した問答もなしに通り抜けると、慣れた様子で街の中を歩き始めた。


 かっさらう、という言葉の意味を理解したのは、二人が群衆で賑わう大通りに入ってすぐのことだ。

 その日、リングレイでは四ヶ月に一度の市が開かれていて、大通りには都市在住の職人や商人たちが運営する固定式の店舗だけではなく、遠方からやってきた行商人の天幕も立ち並び、さらには旅の吟遊詩人や大道芸人までもが騒がしく路上を闊歩していた。

 売買許可区を示す藍色の幟があちこちに掲げられ、緩やかにはためいていたのをシァナもよく覚えている。

 そして雑踏の中、師匠はただ漫然と歩いているように見えた。宿を探すわけでもなく、何か目当てがあるわけでもなく、あからさまに『初めてこの街にやってきた旅人』という風体で。実際、表面上はそうだったし、他の人間にはそれ以上の情報を読み取ることはできなかっただろう。

 だが、半歩離れて師匠の後に続いていたシァナには、師匠のやっていることがはっきりと見えていた。


「………………」


 無言で歩く師匠の額の辺りから、青白い光の筋が何本も飛んでいる。

 ぴんと張り詰めた糸のような、か細くも力強い閃光。それらは周囲を歩く人々の頭部をすっと貫くと、巻き取られるように師匠の元へと戻っていく。

 その光は三日前、シァナから五年分の記憶を奪ったあの閃光に酷似していて、


(盗んでるんだ、記憶を。通りすがりの人たちから。いっぺんに)


 彼女はすぐにそう気づかされた。

 同時に、唖然として口を開く。標的があまりにも多過ぎる。

 荷を満載した馬車の乗り手、嬌声を集める吟遊詩人、西方の民族楽器を並べた露天商、真顔で神の教えを説く巡礼術者リャゴ・トゥラ、石畳の上を笑顔で走り回る子供たち。

 師匠が発している無数の『光』は、通りを行き交うあらゆる人間に対して向けられていた。男も、女も、子供も、老人も、庶民も、商人も、貴族も。一切の分け隔てなく、すべてが師匠の標的であり、シァナの目には師匠を中心とした巨大な蜘蛛の巣が街中を蠢いているように見えた。

 盗みというよりも、狩り。あるいは捕食のようだ。

 しかも記憶を奪われた際、前後の脈絡がなくなり、茫然自失となったシァナとは違い、彼らは自分の身に何かが起きたことにすら気づいていない。シァナの目に映る光景が嘘のように、各人がそのままの日常を続けている。


「なんで、誰も気づかないの…………?」

「あん?」


 シァナが思わず疑問を零すと、師匠は軽く振り返り、歩いたまま、『盗み』の手を動かしたままで返答した。


「『これ』が見える奴はそうそういねぇからな。それに、お前のときはうっかり五年分も引き抜いちまった。いつもは必要な分だけ選んで抜いてんのさ」

「……必要な分だけ抜くと、気づかない?」

「ああ。ついでに跡が残らねぇように整えるから、余程勘の良い奴でもその場で気づくのは無理だ」

「……空き巣に入って、色々盗んで、ばれないように片付けてから出ていくようなもの?」

「大体合ってる。経験あるか」

「うん。空き巣はちゃんと下見すれば儲かるから好き。スリよりずっと良い」


 言いつつ、シァナは懐からずっしりと重そうな巾着袋を取り出した。口の部分に結びつけられ、おそらく腰布かどこかへ繋ぐための太紐が、途中で不自然に断ち切られている。

 シァナの所持品ではない。師匠の『盗み』を観察している間に、彼女が通行人の一人から盗んだものだ。あまりにも無防備なものだから、無意識的に盗んでしまっていた。

 袋の口を軽く開くが、残念ながら中身は貨幣ではなく、行商人たちの間で使用されている石印が十数個、まとめて放り込まれているのみである。これでは腹の足しにもなりはしない。

 それを見た師匠は呆れたように少し笑って、


「ふん。少し前までぶっ倒れそうな顔してやがったくせに、やることやってるじゃねぇか」

「え」


 言われてシァナは驚いた。師匠がシァナの状態を把握していたこともそうだが、いつの間にか自分が疲労を忘れていたことが不思議だった。

 シァナは見惚れていたのだ。目の前で淡々と行われる師匠の盗み、ともすれば不気味にも思えるその記憶の強奪行為に対して、生まれて初めて憧憬に近い感情を抱いていた。

 師匠の盗みは圧倒的だった。記憶を盗む不可解な閃光の正体も理屈も、シァナには分からない。だが分からないなりに、シァナはこれが自分の知っているあらゆる常識の外にあり、並々ならぬ研鑽と長い歳月の末にようやく到達できる領域にあるものなのだと、朧げながらに察知していた。

 不格好な石を十も二十も積み重ね、その山を両掌に乗せて崩さないまま、崖と崖の間に渡された綱の上を何度も往復するような、そんな馬鹿げた曲芸めいた繊細さが、師匠の盗みからは感じられた。


「その分ならまだいけるな。適当に見とけ」


 師匠は無償髭でぼさぼさの顎を指で掻くと、シァナから目線を外し、少しだけ歩幅を広げる。群衆と喧騒の間を縫って、通りを真っ直ぐと進んでいく。

 シァナは無言でそれを追った。再び疲れを自覚してはいたが、身体は魅入られたように師匠の背中に張り付き、視線は彼が放つ青白い光の軌跡をじっと観察し続けていた。

 結局、それからリングレイの街を横断する間、師匠は三千を超える数の人々から記憶を掠め取り、日が暮れてから宿の一室に腰を落ち着けた後、シァナは泥のように熟睡した。



 シァナが師匠に初めて教えを受けたのは、二人が行動を共にし始めてからおよそ三週間が経過した頃だった。

 それはリングレイの街を発ち、その後に立ち寄った幾つかの小さな村も通過して、『栄えある団結と自由の大国』ことレイローン連合へ向かう道中。整備された街道を外れ、木々が鬱蒼と生い茂る深い森の中でしばしの休息を取っていた時のこと。


「今日からお前に俺の技を教えてやる」


 朽ちかけた倒木に腰を下ろし、昼食代わりの干し肉を腹に収めた後、師匠は唐突にそう言い放った。本当に何の脈絡もなかったので、シァナは驚いて噛み切り損ねた肉を喉に詰まらせたほどだ。

 ただ心の準備はできていたし、待ち望んでもいた。旅を始めてからの三週間、師匠は記憶を盗む術について教える素振りを全く見せなかったから、シァナは鼻先で餌をちらつかされた野良犬のように痺れを切らし始めていた。

 それは師匠にも分かっていたのだろう。シァナが目の色を変えたのを見て、彼は意地の悪い笑みと共に目を細めた。


「ふん、分かりやすい奴だ。そんじゃ、とっとと始めよう」


 師匠が大仰に右腕を振り上げ、シァナを目の前の草葉の上に座らせる。

 森の中は葉の擦れ合う音、虫のさざめきだけが静かに反響していて、当然ながら近くに二人以外の人間の気配はない。

 後に気付いたことだが、師匠が自分の盗みを伝授する際、彼は誰にも会話の内容を聞かれぬよう、周囲から隔てられた場所を選んでいた。


「まず前置きしておくが、俺は魔術師でも何でもねぇ。この数週間で見てきた通り、お前と同じただの泥棒だ。俺の『盗み』も、いわゆる術師が扱う魔術とは全く別の道理でこの世のものに干渉している」

「……そうなの?」

「そうだ。くわつちくらい別物だ」

「ふぅん」


 シァナがぐにゃっと首を傾げる。正直、小難しい言葉を使われたところでよく分からない。鍬と槌だって、シァナにとっては大差ない代物だ。

 師匠が魔術師ではなく泥棒、というのはなんとなく理解できる。行動を共にしてみて実感したが、彼の立ち振る舞いは世に言う術師のそれとはかけ離れていた。自分たちは選ばれし者なのだという魔術師特有の尊大な態度も、術理の探求のためならどんな手段も選ばない情熱や貪欲さも、彼らが独自に有している『塔』の組織的・血縁的な繋がりも、師匠にはなかった。

 しかし、だからといって後者の発言は納得できない。この世界で尋常ならざる現象を引き起こせるのは魔術以外にあり得ない。

 敬虔な信者たちの祈りと犠牲を以て奇跡を起こすアルマ神殿の『聖儀法典クァロン・ヴァッセ』。

 過去と未来を視認し接触し改変するイダ幾何街の改造眼球『第三の瞳ルベル』。

 太古に刻まれた命令と内に蓄えた虚無の燃料だけで今なお動き続ける、忘れられた地の『無尽なる鎧ドゥダ・マギカ』。

 いずれ出会うことになる数々の秘奥。それらの存在をいまだ知らぬ当時のシァナにとって、理外の現象はすべて魔術によるものであり、魔術は魔術師だけの特権だった。


「長い歴史と研究の中で発展し、『塔』を中心に体系化され、特殊な血統と隠匿によって維持されてきたものが、連中の扱う魔術。あれに比べたら、俺の術――いや、『技』は、もっとずっと大雑把な代物だ」


 師匠は足元に生えていた花を右手で摘み、根ごと地面から引き抜く。ユワの花。鮮やかな赤橙色の花弁が印象的な一輪だ。一方、左手は枯れかけた落ち葉を掴んでいて、師匠はその二つをシァナの眼前に突きつけた。


「そもそも、これは記憶を抜き取る技じゃねぇ」


 ばちっ、と青白い火花が散ったような気がした。

 ユワの花の甘い香りに鼻をひくつかせていたシァナは、思わず顔を歪めて目を閉じる。

 再び瞼を開いたとき、師匠の右手が掴んでいるユワの花は冬を迎えた後のように無残に枯れ萎んでいて、逆に左手が掴んでいる落ち葉はまだ枝に付いていた頃のような瑞々しい緑を取り戻していた。


「器に溜められた水を別の器に注ぐように、そこにある『力』を別の場所へ移し替える。俺にできるのはそれだけ。力はすなわち熱量、あるいは情報と言い換えてもいい。今はこの花が蓄えた生命力をこっちの枯れ葉に移したが、普段は他人の記憶を俺の頭に移しているわけだ」


 言いつつ、師匠の左手から青白い光が弾ける。枯れたユワの花が赤橙の色彩と共に息を吹き返し、緑の葉は再び生気を失った。


「……そ、れは。なんでも、移せるの? 他の人の命でも?」

「そうだ。盛りのついた若者から生力を吸い取って、その場でこの枯れ葉と同じようにすることだってできる。ま、後始末が面倒だからやらんがね」

「…………」


 目を見開いて絶句したシァナをよそに、師匠はその技の源流について語り出した。


 曰く、それはかつて存在したとある一族の秘伝であったという。

 五千年、あるいは六千年よりも昔か。正確な時期は分からない。ただ、この『ただひとつの大地イア・スフィア』に数々の国が興り、栄華を極める遥か以前から、彼らは人知れず存在していた。多くの竜が空を翔け、大地に眠る忘却の遺跡群がまだ現役だった時代の話である。

 彼らは流浪の民だった。棲家を持たず、故郷を持たず、関係を持たず、定住することなく大陸各地を渡り歩いた。

 東から西へ。西から北へ。北から南へ。

 その旅に明確な目的地は存在しない。むしろ延々と続く旅路そのものが、彼らの目的だったと言えるだろう。

 

 そんな大それた文言が彼らの掲げる使命であり、思想であり、唯一の行動理念だった。単なる世迷言などではない。実際、彼らはそれを可能にするだけの意思と特別な能力を有していた。

 すなわち、『あらゆる力を任意の場所へ移し替える』という、彼ら一族が受け継いできた秘伝である。

 彼らは実直に――あるいは愚直に――その技を使命の遂行のためだけに用いた。

 木々が生い茂り水源にも恵まれた肥沃な土地があれば、そこから生命力を搾り取り、生物はおろか草の根ひとつ芽吹かない荒れ果てた土地に移した。

 身一つで敵国の軍を蹴散らしたという一騎当千の英雄がいれば、彼から精力を奪い取り、呼吸さえままならない大病に侵された人々を癒した。

 貧しい村落と土地に未曾有の落雷が続けば、それを雨雲ごと消し去って、代わりに贅の限りを享受する南方の黄金都市に落とした。


 ――『凪の民』。

 今では文献にも残っていないが、その存在を知る者たちは彼らのことをそう呼んだらしい。不均衡を嫌い、波ひとつ立たない静かな海面の如き世界を望んだ、聖者紛いの傲慢な一族だと。


 凪の民の操る技はおよそ人知の及ばぬ領域に属していて、実は彼ら自身、その出自を完全に把握してはいなかった。凪の民が放浪していた時代よりもさらに遡る最古の時代に、『竜の巫女』と称される彼らの先祖がいたらしいが、その実在は定かではない。気づいた時にはもう、彼ら一族は大陸各地を旅していて、彼らの技もまたそこにあった。


「これは俺の勝手な推測だが……連綿と続く歴史のどこかで、連中の内の誰かが、一族全員から起源に関する記憶を奪ったんだろうな。あるいはそれは一族の総意だったのかもしれねぇが……どちらにせよ、理由は分からん。放浪の旅を始める前に、連中がどこで何をしていたのかも」


 大して興味もなさそうな顔で、師匠は自分の仮説を口にした。実際、あまり関心がなかったのかもしれない。師匠は一貫して『凪の民』のことを『連中』とだけ呼んだ。


 大陸を渡り歩いた『凪の民』はその後、静かに滅んだらしい。

 彼らは可能な限り隠れ潜んで旅をしていたが、豊かな土地と人にばかり不幸が続き、貧しい土地と人にばかり幸運が続けば、おのずと外的な要因の存在は露呈する。

 力ある時の権力者たちは『凪の民』の存在を恐れ、忌避し、迫害した。富を持つ立場の人間にとって、彼らの存在は意思ある災害に等しい。『凪の民』はそれでも使命を全うしようと敵対者の手から逃れ続けていたが、彼らの社会があまりにも閉鎖的であったこと、一族の出生率が著しく低下していたことを要因に数を減らしていき、やがてほとんどいなくなった。使命を放棄し、東方の奥地へと逃げ込んだ僅かな数人だけが生き延びて、その技を細々と伝えていったそうだ。


「……じゃあ、師匠がその子孫なの?」

「いや、違う。俺は単なる赤の他人だ」


 納得した、という表情のシァナの問いに、しかし師匠は首を横に振る。


「俺にこの技を教えた奴がいるのさ。そいつこそが、連中の最後の子孫だった」


 つまり、師匠にもまた師が存在していたということだ。

『凪の民』の歴史を仔細に語りながらも、師匠は自分自身のことについてはほとんど言及しなかったが、辛うじてそれだけ説明した。

 師匠の師匠。『凪の民』の最後の子孫。大陸を駆けた、稀代の大泥棒。

 その人物の技の粋を、師匠は余すことなく受け継いだらしい。


「この技は血統に依存する能力じゃねぇ、ってこったな。見込みある人間がそれなりの鍛錬を積めば、精度はともかく必ず扱えるようになる。俺には見込みがあった。そして、シァナ。お前にもある」

「……そう」


 それは褒め言葉と受け取ってもいい言葉だったものの、一方でシァナの胸中には漠然とした不安が広がっていた。

 ――本当に自分にこんなことができるのか?

 実演されてなお、彼のしていることは魔術と全く変わらないように見えたのだ。いや、むしろ魔術よりもよほど常識離れしているようにも思える。


「けっ。ここにきて弱腰になりやがって。怖気付いたか?」


 シァナの様子を察したのか、師匠が小馬鹿にするように口角を上げて笑う。

 そんな顔をされれば、シァナとて反抗心が沸々と湧き上がってくる。甘く見られてたまるものかと、彼女は紺青色の両眼で目の前の師を睨みつけたが、


「ま、心配するこたぁねぇ」


 師匠は飄々とその視線を躱して、言葉を続けた。


「できんだよ。第一、お前にはもう見えてやがる」

「見えてる?」

「ああ。この技を扱うために一番重要な資質は『目』なんだよ」

「確かに、目は良い方だけど……遠くまで見えるし……」

「そういう意味じゃねぇ」


 師匠が不意にシァナと目を合わせる。直後、彼の翡翠色の眼差しからあの青白い閃光が飛んできた。

 シァナは草葉の上に座り込んだまま、反射的に首を振ってそれを避ける。

 突然何をするのか。目を丸くして抗議の表情を浮かべたシァナに対し、師匠は軽く溜息を吐く。


「ほらな、見えてんだよ。それだよ、それ。前にも言ったろ? 普通見えねぇんだよ、それは。実際に存在してるもんじゃねーんだから。お前は『流れ』を認識することができてんだ」

「流れ?」

「そう。この世に存在するありとあらゆるものの力の流れ。動植物、無機物、大気、土地――そういう枠組みを全部取っ払って、ただの『力』として感じ取る能力。この知覚を持つ奴だけが、『器』たる物体から中身の『力』を引っ張り出せる」

「…………」

「多分、お前の盗みが上手いのもそのせいだろうな。お前はそもそも、見えている世界をそのまま認識しちゃいねぇ。盗むという目的のためだけに意識を尖らせた結果、人や物をひとつの大きな流れと解するに至った――そんなところか? 道理で、この俺から金を掠め取れるわけだ」

「……よく、分からないんだけど。結局その光はなんなの? ばちばちってやつ」

「これか? これは、そうだな――言うなれば、『腕』だな」


 再び、師匠の瞳から閃光が迸った。ただし、今度は同時に捉え切れない程の数の光が、師匠の体を中心に放射状に伸びていく。それらは周囲に聳える大木の幹を次々に貫くと、即座に師匠の元へと舞い戻って掻き消えた。同時、光に貫かれた木々が生気を失い、枝についていた緑の葉が一斉に枯れ落ちる。


「流れに強引に介入して、そこにある『力』をかっさらう。他人の懐に手を突っ込んで財布を盗むようなもんだ。その工程が、お前には本来あり得ない『不自然なもの』として視覚化されているんだろう」

「ふぅん……」


 頭の上に落ちてきた枯れ葉を払いのけつつ、シァナは一応とばかりに頷いた。

 実際はぼんやりとした理解しかできていないし、逆によく分からなくなった気もする。盗みのために頭を使うのは好きだったが、生まれてこの方まともな教育を受けたことがないシァナにとって、座学は退屈以外の何物でもない。


「ま、言葉で理解できなくともいいさ。俺だって単なる受け売りだしよ――どのみち、ここから先は全部身体で覚えてもらう」


 幸い師匠も口頭でそれ以上の説明をするつもりはなかったらしく、彼は軽く肩を回しながら立ち上がった。

 手で促され、シァナもまたその場で腰を上げる。


「大体、この技は体感しないと使えるようにならねぇんだからな」


 直後、またしても師匠の翡翠色の瞳の辺りから、シァナに向かって青白い閃光が飛んだ。

 驚きはない。シァナは先程のようにはっきりとそれを認識していたし、彼女の身体もまた、差し迫る脅威に対応するために既に動き出していた。

 一瞬で全身が弛緩し、両足が地を踏みしめ、跳躍するために膝が曲がる。

 これ以上ない最高の反応――しかし、それでも遅すぎた。その閃光は直前のものを遥かに上回る速度で飛来し、瞬く間にシァナの視界を白く埋め尽くす。


「俺の教えは厳しいぞ」


 そして混濁する意識の中、師匠の声だけがシァナの頭蓋に反響した。



「見えるか? あの庭園の真ん中にいる、派手な人形劇行者ファク・ラタだ」


 緻密な装飾が施されたシャグロ工房製の石柵に半身を預けながら、師匠が南東の方角を指差す。シァナは手すりに両手を乗せ、半ば床から浮くような姿勢で柵の外へと目を向けた。

『天貫く街』と名高い尖塔都市、ジーグヴェーンの街並みは恐ろしく壮大だ。約三百年前に勃発したトォン王朝没後戦争の最中、『層理形成のド・ダウ』と呼ばれる伝説的な魔術師によって創造された、山の如く巨大な岩石を削り取って、ジーグヴェーンの建造物は形作られている。

 地上からでは先端を見ることすら叶わない、脅威的な高さを誇る尖塔の群。それらは住居であり、工房であり、城館であり、行政施設でもある。足を踏み外せば落下死は免れない超高度の世界で、住民は尖塔間に伸びるストラト鋼の縄を伝って都市の内部を行き来するのだ。

 シァナたちもまたそのひとつである尖塔の高層に佇んでいて(外壁には七六三番塔と記されている)、師匠が指差した方角にも同じように巨大な尖塔が聳えていた。

 節くれだった師匠の指先の延長線上を辿ると、確かにその尖塔の中層からは湾曲した庭園が伸びており、多くの観衆に囲まれた中心で、道化のような格好をした人形劇行者ファク・ラタが卓越した人形劇を披露している。

 五頭身程の人形を、同時に六体。細い糸か何かで器用に操っているのだろう、傍目には手足の長い小人たちが自我を持ってその場を動いているように見えた。

 彼我の距離は広く、さすがに劇の内容までは判別できないが、しかしこれだけ見えていれば支障はない。

 シァナは一瞥してそれを確認すると、師匠に向かって頷いた。


「……うん。見えてる。すごく目立つ」

「よし、今回の相手はあの男だ。ここから『腕』を伸ばして、適当に記憶を漁ってこい」

「制限は?」

「ない。だが長引かせるんじゃねぇぞ。あいつが少しでも違和感を抱いて手を止めたら失敗だ。あまりにも酷い出来ならすぐにここから突き落としてやる」

「わかった」


 物騒な脅しを真顔で受け止めて――その実、それが単なる脅しではないことを彼女は知っているが――シァナは頭部をすっぽりと覆っていた外套の頭巾部分を外す。首先まで伸びた茶髪がふわりと解き放たれ、左顔面の火傷が露わになるが、どうせ周囲に人はいない。

 一度深く息を吸い、吐いて、そのまましゃがみ込むように上体を低くすると、シァナは石柵の隙間から標的たる人形劇行者ファク・ラタの姿を見下ろした。


「じゃあ、いく」


 小さな掛け声とともに、シァナの両眼から青白い閃光が迸る。


 旅が始まってからおよそ一年。

 師匠から『技』に関する手ほどきを受け始めたシァナは、当初抱いていた不安とは裏腹に、さながら言語を解し始めた幼子のような驚異的な速度と柔軟さで、彼の教えを吸収し続けていた。

 当然、師匠の指南が優れていたというのも一因であろう。

 普段の粗暴な口調と振る舞いに反して、師匠の教え方は非常に理性的だった。

 高所へ至るために築かれた長い階梯のように、彼の教えは段階的に細かく分割されており、適宜シァナの習熟度に相応した課題が与えられ、それらを達成する度に確実な進歩が見込まれる仕組みとなっていた。

 例えば、修行が始まってからの一週間は丸々『技』を扱う感覚を養うための修練――ひたすら師匠の『技』をその身で受け続ける苦行――に費やされた。行動に必要な幾ばくかの体力を奪われ、戻され、さらに奪われての繰り返し。単純に疲労し、回復するのとも違う奇妙な感覚に慣れるまで、軽く二、三十回は嘔吐しただろうか。それは極めて負荷のかかる、拷問めいた修練だったものの、ある種必要不可欠な通過儀礼とも呼ぶべき作業であり、事実地獄のような一週間を経た後、シァナは自分の身体に新しい常識――あるいは新しい法則が刷り込まれたような、妙に清々しい体感を獲得していた。

 実践的な修練に移ったのはそのすぐ後だ。


「まず、これを枯らせ」


 物体の内側から『力』を引きずり出し、移動させる、その最も初歩の課題としてシァナに手渡されたのは、一輪のユワの花だった。

 枯らす、すなわち花に内包された生命力を抜き取れということである。

 それはシァナにとって初めての『技』の行使だったが、不思議と無理難題だとは感じなかった。この世の法則を逸脱した熱量移動の感触を、先の一週間で叩きこまれていたからだろう。

 明け方に受け取った花を、シァナは夕暮れ前に朽ち果てさせた。

 それが成果として上々だったのかは分からない。ただ師匠は呆れたように顔を歪め、シァナから萎れたユワの花を取り上げてその場に放り投げると、「じゃ、次だ」とだけ言って新たな課題を提示した。


 そこから先は概ね万事が円滑に進んだ。

 決して一ヶ所に長く滞在することなく、街から街を渡り歩く師匠に追従しながら、シァナは彼に与えられた課題を無我夢中でこなし続けた。

 燃え盛る炎を消し去り、その熱で水を沸かす。

 百歩離れた距離で暴れる獣を、殺さずに昏倒させる。

 壁越しに民家の明かりを奪って回り、夜の都市を丸ごと闇に沈める。

 同じ『力』を移し替える行為でも、条件によって難度は大きく異なった。

 移動させる『力』の種類と量。干渉する『器』との距離。『技』を行使する起点と終点の方向。それらすべてを複合した、目の前の空間の現状況。


「例えば目の前に一頭の山羊がいたとして、『技』を使ってこれをぶち殺すのはさして難しいことじゃねぇ。分かるな?」

「うん。『中身』を全部外に出すだけで死んじゃうから」

「そうだ。奪い取る『力』の種類を区別する必要性すらねぇ。だが、これがだだっ広い牧草地で歩き回る大群の中の一頭で、そいつからほんの少しの『熱』だけを盗み、さらに別の一頭へ移す、となりゃ話は変わってくる」


 師匠は山羊を、さらに木箱に例えた。

 複数の種類の品物が収められた木箱。この蓋を外し、乱雑にひっくり返して空にしてしまうのが前者。丁寧に蓋をずらし、その中から特定の品だけを取り出して、傷つけないように別の箱へ仕舞うのが後者なのだと。

 そして難度の違いで言うならば、記憶の盗取はそれらより遥かに上の領域の技術だった。

 シァナがその修練に到達するまで、およそ十ヶ月は要したであろうか。

 熱や光という分かりやすい『力』と違って、繊細で不安定な情報である記憶は扱いが難しい。花を枯らす感覚で『技』を行使すれば、誤って余分な記憶まで引き抜いた挙句、後遺症を残す可能性もある。最悪の場合、廃人だ。

 その実践には大きな危険が伴った――が、師匠もシァナも、他人の安否に大した懸念を抱くような人間ではない。シァナは旅路の途中で遭遇した多くの人々を容赦なく練習台として使い、その技術を磨いていった。


 このジーグヴェーンの街でもまた、同じことをしているという訳だ。


「………………!」


 大きく引き伸ばされたシァナの意識が、『腕』に乗って中空を駆ける。

 四方八方に行き交うストラト鋼の合間をすり抜けて、彼女が見下ろす庭園広場の中央へと、一直線に。

 その閃光を目視できる人間は師匠を除いて誰もいない。

 反応されることも遮られることもなく、『腕』は標的である人形劇行者ファク・ラタの、白い芸化粧が施された頭部を寸分違わず貫いた。


「……つかまえた」


 シァナの口からぽろりと声が漏れる。意図してのものではない。シァナは自分が呟いたことにすら気づいていない。

 それどころか、ジーグヴェーンの壮大な街並みも、隣で状況を見守っている師匠の姿も、目の前の空を横切る『商い鳶メェレ』の曲芸飛行も、彼女の視界には入っていない。

 ただ、極度の集中だけがそこにある。この瞬間、シァナが持つ意識のすべては『腕』の貫いた先―― 人形劇行者ファク・ラタの内側へと向いており、見開かれた両の瞳は、本来そこに映るべき現実の像とは全く異なる光景を捉えていた。


 すなわち、海である。


 見渡す限りの水平線と、雲一つない抜けるような青空。

 周囲に生物の気配はなく、どの方向を見ても陸地の端すら見つけられない。

 穏やかな波の音だけがシァナの鼓膜を揺らしていて、彼女はたった一人で孤独の海面に浮かんでいる。

 それは幻視か錯覚か、はたまた人の心象の具現なのか。

 理屈は何も分からない。ただ記憶を盗むために他人の内側に侵入した時、シァナは決まって『海』にいた。

 当初は、夢でも見ているのかと思った。日陰者の街ダブラの孤児院に放り込まれるよりも前、シァナは海岸沿いの小さな漁村で暮らしていたのだ。朝早く目覚め、小舟で沖へ向かう村の漁師たち――その光景を夢に見ることは珍しくない。

 だがこの『海』は師匠にも、師匠の師である先代の『技』の使い手にも、同じように見えていたらしい。だとすれば、シァナだけの幻ではない。

 不可解と言えば不可解だったが、しかしそこにあるのだから受け入れる他ないと、彼女は早々に匙を投げた。何にせよ、盗めさえすればそれでいい。


「慎重に、慎重に、慎重に…………」


 海面近くで波に揺られながら、シァナは自身に言い聞かせるように同じ言葉を繰り返す。

『腕』を伸ばし『海』に入り込んだところで、その人間の記憶を奪うには至らない。工程としてはまだ半分以下。ここから先の一挙一動次第では、簡単にすべてが崩れてしまう。

 シァナは深く息を吸い込むと、身体を上下に反転させて、眼下に広がる巨大な海へと潜った。

 視界が青く染まり、冷たい海水が全身を包む。どれも現実の感覚ではない。しかしこの瞬間、目の前にあるものがシァナにとってのすべてだった。

 シァナの華奢な身体はおよそ現実ではありえない速度で海中を進んでいく。この奇妙な海の世界には常識も法則も通用しない。理屈はむしろ邪魔であり、意思次第で身体は自在に動いてくれる。

 ただ、それでも『海』は深かった。どれだけシァナが潜っても、その底が見えたことは一度もない。現実の海と同等か、あるいはそれ以上の深淵がそこには広がっている。


「…………っ」


 潜るシァナの眼前を、不気味な骨格をした大魚が横切った。次いで、周囲の海水の色が目まぐるしく変化し、どこからともなく海藻の帳が下りてくる。間髪入れず、中から人形の大群がけたけたと笑いながら飛び出してきた。

 シァナは驚かず、冷静に海中を蹴って振り切る。奇怪な現象には慣れていた。

 師匠が言うには、『海』はその主の記憶そのものらしい。

 生まれてから現在までの、見たもの、聞いたもの、考えたこと、そのすべて。

 本人が忘れてしまったと認識しているものまで含めて、ありとあらゆる記憶が混然一体となって各々の『海』を形成している。

 基本的には上層に新しい記憶が、深層に古い記憶が揺蕩っていて、深ければ深い程盗みにくい。

 今回は『適当に漁ってこい』とのことだったが、どうせなら難度の高く、当人にとって重要な記憶を盗んだ方が面白いだろう――そう考えて、シァナはより深く深く潜っていく。


「…………がほっ!」


 しかし、欲張りすぎたのか。

 海水を掻き分けて潜り続けるシァナの体が、不意に精彩を失う。

 まだまだ深層には程遠いというのに、海流がより重く、激しく、そして冷たくなっていた。振り切ったはずの笑い声が、暗い海の底から鳴り響いてくる。

 息も苦しい。本来存在しない感覚であるはずなのに、それは現実的な危機感を伴ってシァナの脳髄を圧迫する。意識も徐々に遠のいていた。

 ――ここまでか。

 シァナは歯噛みして水を掻く手を止めた。盗人にとって、諦めの良さは生命線だ。スラムにいた頃からずっと、引き際だけは弁えている。

 せめてもの手土産に、シァナは手近な水域から記憶の束を引き抜くと、勢いよく海面に向かって浮上した。



「その様子じゃぁ、あまり上手くいかなかったみてぇだな」


 くたびれた相貌。見慣れた翡翠色の瞳と目が合う。

『海』から帰還し、意識が現実に戻ると、頭上から師匠がこちらの顔を覗き込んでいた。いつの間にかシァナはその場で仰向けに倒れ込んでいて、右の鼻孔からは微かに血が垂れている。存在しない海水の冷たさも、いまだ全身に残っているようだ。

 どうやら、思ったよりも潜り過ぎていたらしい。

 シァナは身を起こし、柵の外を見下ろす。広場の中央では、件の人形劇行者ファク・ラタが何ら変わらぬ調子で人形劇を続けている。不幸中の幸いと言ったところか、少なくともシァナの『技』が彼の身体に与えた影響はほとんどなかったようだ。もっとも、今回の盗みがシァナにとって満足いくものではなかったという事実に変わりはない。


「ちっ…………」

「拗ねんな。で、どれだけ奪ってこれた?」

「……これくらい」


 師匠の問いに対し、シァナは『技』で答える。記憶を引き抜く要領で、逆に今しがた人形劇行者ファク・ラタから奪ってきた記憶を彼に譲渡した。

 苦し紛れに上層から浚ってきた、重要度の低い代物だ。


「『緑の酒場リディア』の燻製肉料理、シギ豆と赤野菜のスープ、西トルト海で獲れた竜泳魚ジュラの荒釜煮……? ひひっ……なんだこりゃ。お前、ここ一週間の晩飯の記憶なんて奪ってきてどうするつもりだったんだよ」

「……それしか持ってこられなかったの」

「選別する余裕もなかった、と。さては欲張りやがったな?」

「…………」


 シァナは外套の頭巾を被り直して目を逸らす。図星だったが、正直に肯定するほど彼女の精神は図太くない。単純に、悔しかった。『酷い出来』と認定されて、この尖塔から突き落とされても構わないと思う程には。

 実際、同じような罰――運が悪ければ死んでいたかもしれない程の危険な折檻を受けたことは何度もある。最初に宣言された通り、師匠の教えは甘くない。


「はぁ。まあいい」


 しかし、今回の師匠は大して機嫌を崩した様子もなく、小さな溜息ひとつでシァナの失敗を看過した。


「……いいの?」

「ああ、つっても情けじゃねぇぞ。今回は前提条件が違ったからな。お前がさっき記憶を盗んだ人形劇行者ファク・ラタの男――あいつはそこらの人間と比べて、外部から精神に介入しようとするものへの耐性が高い」

「耐性………確かに、ちょっと盗みづらかった、ような……人形劇行者ファク・ラタってみんなそうなの?」

「違う。そもそもあの男はただの人形劇行者ファク・ラタじゃねぇんだよ」

「?」

「見ろ」


 シァナが首を傾げると、今度は師匠から『腕』が飛んできた。

 同時に、自分のものではない誰かの記憶がシァナの頭に流れ込んでくる。


『首尾は上々か?』


 薄暗い夜の裏路地。街灯はなく、月明かりも乏しい。周囲の建物は堅固な作りだが、つい先程まで目視していた尖塔群のような圧倒的な高さはない。これはジーグヴェーンではないどこか、シァナの知らない街での誰かの記憶。

 記憶の主の視界には、黒い衣に身を包んだ怪しげな男の姿が映っている。先刻の言葉は、その男が発したものだ。


『問題ない』


 記憶の主が男に返答する。その声は少し苛立っているようにも感じる。


『わざわざこんな場所へ呼び出して聞くな。俺の手際はお前たちもよく知っているはずだ』

『へっ。そりゃよくご存知だとも。しかしね、雇い主としちゃぁ逐一報告してもらわないと信用できないわけ。ただでさえ、あんたのような流れの術師のことはな』

『……心操ゲルグの魔術を極めたこの俺を愚弄するか』


 静かな怒気。嘲笑うような黒衣の男の言葉に対し、記憶の主は不意に右腕を広げる。瞬間、暗い空間にきらりと何かが瞬いた。

 糸だ。右手の五指に繋がれた細い糸が、狭い裏路地を取り囲むように一斉に射出されている。この記憶を主観で追体験しているシァナにはそれが分かる。

 目の前の男もまた、その脅威に気づいたのだろう。途端に顔色を変えて、腰元に手を伸ばした。外套によって隠されているが、帯刀しているらしい。


『おいおい待て待て待て。ちょっと口が滑っただけだ。落ち着けよ、なぁ? こっちは常識的な話をしているだけだぜ』

『では口を慎むんだな。お前のような使いの者ならば、腕の一本や二本、落としてしまっても構わないだろう』


 記憶の主が軽く指を動かした。きりきりきり、と不快な音が辺りに響き、先の一瞬で張り巡らされた糸がその範囲を狭めていく。

 脅しだが、彼は実際にそうしてもいいと考えているようだ。記憶に残る彼の思考がそう告げている。


『分かった分かった! 俺が悪かった! 謝るから勘弁してくれ! こっちとしては、仕事の進行に問題がなければそれでいいんだ』

『ふん、そうだとも。お前たちが契約通りに金を払い続ける限り、こちらも相応の働きはさせてもらう』

『そうだな、そうだった。とりあえず、次も頼むぜ? 上にはちゃんと報告しておくからよ』

『次は、ジーグヴェーンだったな』

『あ、ああ……それじゃあ俺はこれで失礼させてもらうぜ』


 黒衣の男は早口でそれだけ告げると、最初の威勢が嘘のような怯えぶりで、足早にこの場を去っていった。


 ――取るに足らない男だ。それなりの対価で雇われているとはいえ、あの男とその裏にいる国には虫酸が走る。


『狂信者どもめ』


 記憶の主は小さくつぶやき、射出した糸を回収すると、反転して裏路地に背を向ける。

 そして彼の強い不快感をシァナが共有した次の瞬間、師匠から渡された記憶はぷっつりと途切れた。



「これが……」

「ああ、あの人形劇行者ファク・ラタの記憶だ。三ヶ月前、ってところか」


 師匠は懐から長方形に押し固められた草葉の束――テイバタと呼ばれる東方の噛み煙草を取り出して口の中へ放り込むと、くちゃくちゃと噛み砕きながら話を続けた。


「あいつの正体は魔術師なのさ。それも『塔』を追い出されたはぐれ者。大金を積まれればどんな仕事でもする雇われ術師だ」

「……でも、全然印象違う。なんであんな格好で人形劇なんか?」

「それがあいつの術にとって都合が良いからだろう。人心を惑わし、掌握する、心操ゲルグの魔術。それが最も有効に作用するのは、対象となる人間の精神が揺れ動いている時だ。悲哀、興奮、好奇心。心操ゲルグの魔術師は代々優れた芸能の技を持つと聞く。人形劇も魔術を浸透させるための一手段ってこった」

「ふぅん……狂信者っていうのは?」

「あいつを雇ってる国の連中のことだな。聖皇国ディ・メア」

「聞いたことある。随分前に素通りした気がする」

「頭のぶっ飛んだ人間がうじゃうじゃいるから近寄りたくねぇんだよ、あそこは。わざわざあの術師を雇った理由も、大衆を扇動して大規模な戦争を起こしてぇからだときてる。ああ馬鹿馬鹿しい馬鹿馬鹿しい」


 師匠は嫌悪感を隠そうともせずに吐き捨てる。

 とにかく、記憶を盗みにくい理由は分かった。他人の精神を操る術に精通しているのならば、自分の精神を守る術も同じように心得ているはずだ。『腕』がどんな理屈で他人の頭の中へ入り込んでいるのかは分からないが、何らかの抵抗力が働いたのは間違いない。

 そして今回、師匠はわざわざ『そういう相手』を選んだのだろう。

 彼の与える修練には時々裏の思惑が存在する。シァナの盗みが上手くいかないことも、予め想定済みだったわけだ。


「むう……」


 もっとも、理解と納得は同一ではない。シァナはただ、『自分の思うように盗めなかった』という事実がどうしようもなく気に入らなかった。

 いまだに人形劇を続けている人形劇行者ファク・ラタの姿を再び見据えて、彼女は言う。


「師匠。もう一度行く」


 次はもっと上手くやる。そういう意図での発言だった。

 しかしそれを聞いた師匠は首を横に振り、上からシァナの頭を押さえつける。


「やめとけ。二度目は気づかれる」

「気づいた記憶も盗めばいい」

「お前にゃできねぇだろうが。急くな急くな。焦らずとも、お前はそのうち記憶を自在に盗めるようになる。それこそ路上で金をスるみてぇにな」

「…………」


 大きな掌で頭頂部を掴まれたまま、シァナは引き摺られるように石柵の前から移動させられる。握力の使い方が上手いのか、まるで痛みは感じない。とはいえ無抵抗なのも性に合わないので少し暴れてみると、投げ捨てるように解放された。

 尖塔外縁の床に尻餅をついた後、シァナは立ち上がって師匠に尋ねる。


「ひょっとして、慰めてる?」

「俺がそんな優しい人間に見えるかよ」

「見えない。今のは冗談」

「……分かってるじゃねぇか。俺は本当の事しか言わねぇ」


 だから焦るな。そう言外に諭しているのだろう。

 実際、師匠は嘘を吐かない。慰めの言葉もかけない。シァナのご機嫌取りなど以ての外だ。それはいつ断ち切れるかも分からない二人の関係において、信用という言葉で表されるよりも淡白な、しかし揺るぎない事実として確かに鎮座していた。


「………………」


 シァナは自分が少し熱くなっていたことを自覚して頬を赤らめると、それを隠すように外套の頭巾を被り直し、既にその場から立ち去ろうとしていた師匠の背中を追う。

 不意に、ぴぃぴぃ、という甲高い鳴き声がして視線を上へ向けると、二人の真上を二羽の『商い鳶メェレ』が飛び去り、遠方の尖塔の影へすぅっと消えていくところだった。



「次はあの人」


 雑踏の中。焦茶色の外套に身を包んだシァナが、溌剌とした笑みを浮かべて道をゆく。


「次はこっちの子」


 その瞳からは青白い閃光――『腕』が飛んでいて、何も知らない通行人たちの頭蓋を次々と貫いている。


「あとあっちの人も!」


『腕』はシァナの元へ戻り、また飛び、そしてまた戻る。

 その不可思議な力の流れを認識できない周囲の人間からすれば、それは旅の少女が初めて訪れる街を上機嫌に歩いている光景にしか見えなかっただろうが、シァナにとって、その時間は愉快な盗みのひと時だった。


 ――お前はそのうち記憶を自在に盗めるようになる。


 師匠の発言が現実のものになるまで、そう大した時間はかからなかった。

 ジーグヴェーンの街を後にしてから半年が過ぎる頃には、シァナは十分に『自在』と形容できるだけの技術を獲得しつつあり、その成長ぶりは下り坂を転がり落ちる石のように加速し、熱を帯びていて、全くとどまるところを知らなかった。一度に数十を超える人間から記憶を奪い取る師匠の技量には及ぶべくもないが、『腕』を伸ばして他者の『海』へと侵入し、任意の記憶を盗み取るその工程は驚くほどに洗練され、一人の標的に要する時間はいまや十秒にも満たない。

 シァナには間違いなく記憶の盗み手としての適性があった。驚異的な速度で『技』を習得していくその才気は言うまでもなく、盗みに臨む精神性そのものが見事なまでに合致していた。

 シァナは楽しくてしょうがなかったのだ。他人の記憶を盗む行為が。

『技』を応用すれば、大抵の物は手に入れることができる。平民では目にすることすら許されない豪奢な宝石や装飾品、一流の料理人による贅の限りが尽くされた美食・珍味、深山幽谷でしか手に入らない貴重な原材料が使用された嗜好品、古今東西にその名を轟かす稀代の名匠の金細工、それひとつで世の情勢を大きく左右してしまうような大国の機密。いずれもスラムで暮らしていた頃には手が届くことなど有り得なかった代物ばかりだが、それでも一番盗んで楽しいのは記憶だった。


「あはははは」


 他人の記憶を盗みながら、いまだかつて見せたこともないような表情で、シァナは笑う。

 彼女は特に『幸せな記憶』を盗むことを好んだ。

 その人間の、それまでの人生の中で最も満ち足りていたひと時。他の何よりも大切な思い出であり、日々の支えとなっている精神的な柱。

 それは例えば実子が誕生した記念すべき日。あるいは積年の恋が実った瞬間。あるいは仲間と馬鹿騒ぎした他愛もない日常。あるいは大志を胸に村を出た旅立ちの朝。あるいは工房の師に認められて涙した夜。あるいは戦に駆り出された父が帰郷した安堵の午後。

 シァナはそのすべてを一方的に盗み、躊躇うことなく自分の頭へ仕舞い込んだ。

『技』によって奪い取った記憶は、まるで昨日のことのように、自分が体験した出来事そのもののように、細部まで鮮明に思い出すことができる。盗んだ『幸せな記憶』を回想している間、シァナは当人と同じように幸福な感情に浸っていられたし、本来の持ち主からその記憶が永遠に失われていることを想像すると、また別種の仄暗い喜びが全身を駆け巡った。

 奪い、得る、その行為において、これほど自分の嗜好に合致した盗品は他にないと、心の底からそう思える程に。


 ただし、一方で大きな弊害もあった。


「おい、シァナ。聞いてんのか。おい!」


 大陸南東部、コルトシニ地方の小国トリエの国境沿い。世に二つとない絶景と名高い『旋律の渓谷イル・キニーア』の狭間、蠢く大蛇のように捻れ曲がりくねったシゥク河の淵辺を進んでいる最中、師匠は唐突に背後を歩くシァナを怒鳴りつけた。


「ふぇ?」


 珍しい怒号に対して、しかしシァナはとぼけた声を返す。彼女の表情は夢心地のように微睡んでいて、瞳は焦点が合っていない。手足もひらひらと頼りない動きをしていて、普段の揺るがない体幹が嘘のような覚束ない姿勢で歩いていた。足元は砂利道が続いていて滑りやすく、今にも転んでしまいそうだ。

 シァナは物心ついたばかりの幼女めいた口調で、首を傾げる。


「どーしたの、? おこってるの?」

「ちっ」


 他人の記憶に浸る副作用がこれだった。

『海』から抜き取った記憶には、当人がその瞬間に抱いていた感情や思考、五感までもが残っている。それを精緻に体感するということは、事実その人物に『なっている』に等しい。幾度となく回想すれば、当然精神はそちらに引っ張られ、自分が記憶の当人であると錯覚してしまう。既に何百という数の記憶を収奪し、それらを乱雑に体感し続けてたシァナの自我は、恐ろしく不安定な状態に陥っていた。

 この時はおそらく、奪った記憶の内のひとつ――父親と初めて『落星祭りアルスピカ』に出掛けた、片田舎の幼い女児が自分自身なのだと、そう思い込んでいたのだろう。

 そしてこんな時、師匠は決まって直接的な暴力でシァナを律した。


「俺は、お前の、父親なんかじゃ、ねえ!」

「ぐぁ⁉︎」


 師匠は振り返り、朦朧と歩くシァナの眼前まで近づくと、何の予備動作も無しにその右足を大きく振り上げた。目にも止まらぬ速度で爪先がシァナの顎を直撃し、その華奢な肉体が上方へと吹き飛ばされる。そのまま彼女の身体は斜めに回転しながら宙を舞うと、緩やかな放物線を描き、盛大な水飛沫と共にシゥク河の水面へと吸い込まれた。

 落下の衝撃と水中の冷たさ、明確な命の危機に瀕してようやくシァナの意識は覚醒する。


「がぼっ……ごめんなさっ……わたし、また……ごほっ」

「るせぇ、んな体たらくならそのまま流されて死ね。俺は先に行く」

「まっ……って……し、師匠!」


 きっと師匠の『技』を用いれば、わざわざこんな乱暴な手段を行使せずとも、シァナの自我を安定させることができたはずだ。

 そうしなかったのはおそらく、この意識の紛然そのものが、真に『技』を習得する上で必要な工程の一部だったのだろう。


「――盗んだ記憶は分類しとけ。狂いたくなければな」


 シァナが記憶の混濁から回復した後、師匠は言い聞かせるようにそう言った。

 分類。自分のものにした記憶のそれぞれを、いつ、どこで、誰から盗み取ったのか。頭の中でひとつひとつに札を付けて管理しろ、と。

 それは恐ろしく煩雑で手間のかかる作業だったが、いざ分類してみると自他の境界線が明確に引かれ、以前よりもずっと俯瞰して他人の記憶を見ることができるようになっていた。


 それにしても、師匠はこれまで一体どれ程の記憶を盗んできたのだろう、とシァナは疑問に思う。

 彼女は二年にも満たない期間で精神に支障をきたした。だが師匠はおそらくそれを十数年、あるいは何十年も続けている。膨大な記憶の中、確かな足取りで旅を続ける彼の自我はそれだけ強固なのか。あるいは、シァナのように深く他人の記憶に浸ることがないのか。

 師匠は自身のことをほとんどシァナに話さない。

 彼の過去は、その心の内側は、濃い霧に包まれたように白い闇の奥へ覆い隠されていた。

 実は『技』による記憶の盗取にも慣れてきた頃、シァナは何度か師匠の記憶を盗み出そうとしたことがある。不興を買うかもしれないという懸念はあったが、彼の素性に対する好奇心がそれを上回ってしまったのだ。

 もっとも、結果は全て失敗に終わった。

 シァナがこっそりと伸ばした『腕』は、師匠の内側へ入り込もうとした瞬間、弾かれるように霧散した。完璧に捉えたはずだったのに、『海』を垣間見ることすら叶わずに『技』が途切れたのである。それはシァナにとって初めての経験だった。


「ひひっ、下克上たぁ上等だ。しかし、そう簡単に俺から盗めると思うなよ」


 師匠はシァナの狼藉に対して特に気分を害した様子もなく、そう言って少しだけ笑った。


「そんなに記憶を盗んで、師匠は一体何がしたいの?」


 あるいはそんな風に、真っ向から問いを投げかけてみたこともある。

 師匠はシァナと違って、この世のすべてを盗みたいなどという巨大な野望を抱いているようには見えない。彼はただひたすらに大陸各地を巡り、人が集う場所へ足を向け、片っ端から記憶を奪う。シァナと同様、金品や宝石を盗むこともあったが、それは行きがかり上どうしても金が必要な時だけで、彼が現実的な価値を伴う物品に興味を抱くことはほとんどなかった。

 とはいえ当然のことながら、師匠がシァナの問いに答えてくれるはずもなく。


「…………ある女を探しているのさ」


 珍しく酔いが回っていた満月の晩に、辛うじてその一言を聞き出すだけで精一杯。

『ある女』とやらが一体どこの誰なのかすらも分からないし、単なる酒の席での譫言に過ぎない可能性も高い。

 師匠の素性は依然として謎に包まれていて、その力量の底は成長したシァナの目を以てしても窺い知ることができなかった。むしろ『技』について知れば知るほど、彼の背中が遠く離れていくように感じた程に。

 そしてそれは師匠の本分である盗みだけでなく、他の面でも同様だった。



 師匠は自分の存在が、その『技』が世間に知られることを好まない。忌避しているとすら言える。

 だから彼は自分が少しでも関わった人間――例えば道ですれ違った程度の相手からも、自分とシァナがそこにいたという記憶を奪う。異常なまでの警戒心とともに、可能な限りの痕跡を消すのだ。当然、その正体が露見することはない。

 ただし、旅路の途中で厄介な者たちに遭遇することはままあって――そんな時、師匠の持つ盗み以外の力量が露わになった。


「稀有な力を持つ御仁とお見受けした。是非とも一対一の手合わせを願いたい」


 それは例えば、大陸の各地で凄絶な修行を続ける『黄昏の流派ゴーファ』の武人。

 人間離れした身体能力を持ち、四百年前から続く戦闘流派を継承し続けてきた彼らは、師匠の身のこなしを一瞥しただけでその異常性を見抜き、問答無用の果し合いを挑んでくる。

 断っても付け回される上に、即座に記憶を消して逃げることもできない。

 彼らは音よりも早く動く。記憶を消そうと視線を向けた瞬間、尋常ならざる戦闘勘で危機を察知し、見えてもいない『腕』を回避する。故に、相手をする以外の選択肢がない。


「理を乱す流浪の者よ。己が暴挙を自覚し、その身を捨てて地に還れ」


 それは例えば自然の調整機構とも呼ぶべき大地の幻精イド。旧時代から永くこの世に在り続ける本物の神秘。曰く名を『不滅の守り手シグルトゥリカ』。

『彼女』は明確な自我を持つ一個の知性体でありながら、あらゆる土地に遍在する形而上的な存在だ。『力』を奪い、一時的に消失させたとしても、やがてまた別の場所で力を蓄え、肉体を再構成し、師匠を殺すために不定期的に顕現する。


「――にく、ください。にく、にく、にく」


 それは例えば、影に生まれ、影に潜み、影を行き来する『呪い憑き』の害獣、『翳這鼠ゲゲラニ』。

 より栄養価の高い肉を好み、音もなく影から現れては人や家畜を捕食するこの獣は、大陸中で一種の天災として扱われ、何の不運かその牙は師匠にも向けられた。『翳這鼠ゲゲラニ』は種全体で意識と記憶を共有する群体であり、目の前に現れた個体をどれだけ駆逐しようが根絶するには至らない。加えて彼らは簡易な人語を解し、発声する程の不気味な知性を持っていて、一度取り逃した師匠の前へと幾度なく現れた。


 これら旅の闖入者たちは、いずれも生半可な方法で対処できるような相手ではなかった。

 時代が時代ならば史書に名を刻んでいたかも知れぬ程の古兵、神秘、災害ばかり。事実、中には伝説上の存在そのものもいただろう。

 しかし、師匠はそのすべてを蹴散らした。

 素手で鋼を切り裂く『黄昏の流派ゴーファ』の武術も、現行の魔術の原型たる『不滅の守り手シグルトゥリカ』の太古の秘術も、一夜にして村ひとつを食い滅ぼす『翳這鼠ゲゲラニ』の物量と奇襲性も、師匠には一切通用しなかった。

 師匠は自称通りの泥棒だったが、それ以前にありとあらゆる敵に対応する手段を持つ、百戦錬磨の豪傑でもあった。

 千を超える技と千を超える知識。その組み合わせで瞬時に最適な戦闘手段を割り出す才覚。

 師匠の強さは、それまで彼が盗んできた記憶の集積によって成り立っていた。

 記憶とはすなわち経験であり、知見である。余人が長い年月をかけて培ってきた技術の粋を、師匠は一息で自分のものにしてしまう。膨大な経験を持ち、膨大な知恵を蓄え、膨大な技術を保有している彼の力量は、一人の人間がひとつの生で到達できる領域を遥かに通り過ぎていた。


 あるいは本当に、師匠は人でなくなりかけていたのかもしれない。


「……何か代償とか、ないの?」


 とある夜。夜営の準備を済ませた洞窟の中で、シァナは師匠にそう聞いた。

 あらゆる記憶を、『力』を移し替える凪の民の『技』。旅路の中で、シァナは幾つもの魔術や呪術、その他神秘や奇跡などとも形容される存在に触れてきたが、それらと比較してもこの『技』は明らかに異常だった。

『技』の万能性には理屈がない。絡繰りがない。

 どんなに常識外れに見える魔術だって、仕組みを紐解けばそこには必ず現象を引き起こすだけの理由があるというのに、『技』にはそれが全くない。

 しかも『技』の使い手は、他から奪った生命力や記憶を、いくらでも自分の内へ保持しておくことができた。眠らずに一週間を過ごすことも、片腕で軽々と大岩を持ち上げることも、早馬並みの速度で街道を走り続けることも、二人には可能だった。例えるなら、自分がどれだけ水を注いでも満たされない無限の器になったようなものだ。

 これはあまりに、この世の理から『外れている』。

 ――果たして、こんなものが存在していいのだろうか?

 シァナの目にはそれがあまりにも理不尽で、強大で、どうしても納得できないものに見えた。

 だから尋ねたのだ。『技』を行使することによる代償や反動はないのか、と。

 師匠の答えは簡潔だった。


「あるぞ」


 洞窟の内壁に背中を預け、だらしない姿勢で酒の入った革袋を呷りながら、師匠は淡々と告げた。


「当たり前だが、本来人間一人の器に抱え込める『力』の容量には限度があんだよ。だから、『技』を使って『力』を身体の中に放り込むとその反動が来る。徐々に人の領域を外れていく」

「人の領域を外れる?」

「ああ。内側の『力』に耐えられるように、身体が別のもんに作り替わっていくのさ」

「……作り替わる」


 思わずシァナは自分の身体を見渡したが、しかし『技』を覚える前と何ら変化があるようには見えない。単純に成長期を迎え、ほんの少し背と髪が伸びた程度だ。


「けっ。お前が『技』を使ってきた程度の年数じゃぁ、まだ変化は出てこねぇよ。もっと目に見えて分かるからな」

「……そっか。じゃあ師匠はもう、『そう』なってるの?」

「知りたいか?」

「うん」

「じゃあ、教えてやる」


 シァナが頷くと、師匠は自分が羽織っていた分厚い外套を脱ぎ捨てた。

 次いで、上半身に纏っていた服もぽいぽいと脇に置く。

 ゆらめく焚火に浮かび上がるのは、くたびれた外見からは想像もできない程に鍛え上げられた腕や胸の筋肉と、右肩の付け根から右手の指先までを覆う灰色の襤褸布だ。

 師匠の裸くらいシァナは何度も見てきたが、その布の内側だけはいまだに目にしたことがなかった。道中で暴風雨に晒され、腰を落ち着けた宿でずぶ濡れになった衣服をすべて脱いだ時でさえ、その布だけは巻いたままだった。

 シァナがごくりと喉を鳴らす。

 師匠はにやりと笑って布に手をかけ、べりべりと剥がしながら、言った。


「人の領域を外れると――竜になるのさ」


 それは鱗だった。爬虫類を思わせる、しかしこれまで見たどんな生物のものよりも硬質で真っ黒な鱗。それが師匠の右腕をびっしりと覆っている。

 暗い洞窟の中、焚火の明かりが滑らかな鱗の表面にてらてらと反射していて、少しだけ気味が悪かった。まるでそこだけが別の生物のようだ。


「……触っても、いい?」


 僅かな沈黙の後、シァナが問う。

 師匠が無言で頷いたので、彼女はゆっくりと近づいてその表面に触れた。


「あったかい」


 その外観からひんやりとした質感を想像していたが、存外温もりがある。

 作り物などではなく、本物の鱗だ。

 内側に感じる脈動が人間のそれとは明らかに違っていて、『中身』まで人ではないものに作り替わっているのだろうと理解できた。


「……もしかして、竜ってみんな元は人間だったの?」

「んなわけねぇだろ。竜は元から竜だ。大体、『技』を使ってこうなっても、まず竜になる前に死ぬ」

「そうなんだ」

「ああ、だから気を付けろよ? 調子に乗って使い過ぎたら全身がこうなるぜ」

「……でも、竜そのものになれる可能性もあるんでしょ? それならそれでいい」

「はぁ?」


 師匠の右腕をべたべたと触り続けながら、シァナが言う。


「もしわたしが竜になれたら、空もわたしのものになる」


 竜は空の支配者。あらゆる生物の頂点。『旧き霊長』と囁かれ、種としての数を大きく減らした今となっても、その事実は変わらない。

 そんなシァナの言を聞いた師匠は、わずかに目を見開いた後、


「ひ、ひひっ、お前、空まで盗んでやろうってか! 阿呆だなぁ!」


 そう言って大声で笑った。目は笑っていなかったが、しかし半身をのけ反らせるほどの爆笑だった。


「……本気なんだけど」

「分かってる分かってる。お前はそういう奴だ。この世のすべてを盗むなら、空も盗まなきゃならねぇよなぁ」

「馬鹿にされてる気がする」

「ふん、してねぇよ。とりあえず手ぇどけろ。肌が切れんぞ」


 師匠がシァナの手を乱暴に振り払って、その夜の会話は終わった。

 ひょっとすると、目に見えて『竜になっている』右腕の他に、本当はもっと多く、身体の内側で変質していた部位があったかもしれない。

 シァナがその可能性に思い至ったのは、もっとずっと後のことだ。

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