最後の盗品、旅の終わり
針手 凡一
前編
それまで暮らしていた孤児院が区画ごと全焼した時、身一つでスラムに放り出されたシァナにはおおよそ三つの選択肢があった。
すなわち、盗人として生計を立てるか、娼婦となって裏の世界で身体を売るか、道端に転がっている死体のひとつに加わるか、そのどれかである。
もとより、天涯孤独の九歳の少女が
スラムの片隅で火傷の痕を押さえながら丸一日呻いた後、シァナが選んだのは第一の選択肢――盗人だった。
シァナはまだ死にたくなかったし、身体を売るのも嫌だったが、盗みを働いて罪人になることにはあまり抵抗がなかった。
奴隷という選択肢は最初から捨てていた。召使いや労働者という名目で遠い町に売られた彼らがどんな扱いを受け、どんな最期を迎えたのか、幼いシァナは知っていた。
シァナが最初に盗んだのは、一切れの黒いパンだった。
それは小汚い通りの露店に並んでいた劣悪な品物で、シァナの掌に収まるほどに小さく、冷めていて、前歯が折れてしまいそうなくらい硬かったし、実際、彼女の乳歯はそのパンにかじりついた時に少し欠けた。
どんなに空腹でも不味いものは不味いのだと、シァナはその時初めて知った。
もっとも、シァナが最初の盗品にそんなものを選んだのは、彼女に見る目がなかったからではない。むしろ見る目があったからこそ、シァナの右手はそのパンに引き寄せられた。
いつ、どこで、なにが、どんな風に盗みやすいのか。
盗みを働くと決めた瞬間から、シァナはそれを感覚的に意識していた。誰に教えられるまでもなく、自然に、いかに捕まらずに奪えばいいのかを。
人通りの少ない場所は目立つ。通行人が多くとも、身なりのよい人間の中に混じれば警戒される。店主の様子や周囲の状況、商品の陳列方法も考慮に入れる必要があるし、逃げ道だってきちんと把握しておかなければならない。
そんな中でシァナが選んだものが、その露店の、その小さなパンだったのだ。
シァナは適当な通行人の背に隠れるようにして店に近づくと、小柄な肢体を屈めて店主の死角に入り、最も手近な棚からこぼれそうになっていたパンを迷わず掴むと、何事もなかったかのように雑踏に紛れた。手近な路地裏に入り込み、振り返らずに早歩きでその場を離れるまで、シァナは息一つ荒げなかった。
丸一日前まで住んでいた場所が灰になり、いつ野垂れ死ぬかも分からない状況に置かれた少女としては、ひどく落ち着いた行動だった。
どうやら自分には盗みの才能があるらしい。
二度、三度、四度と窃盗を繰り返し、悪臭にまみれた路上の隅で空腹を満たしながら、三日目の朝にシァナはそう気づいた。
なにしろ捕まるどころか追われもしない。被害に遭った人間が気づく頃には、シァナは目の届かない距離まで消えていた。急降下した鷹が一瞬の内に兎を攫い、遠く彼方の空へ舞っていくように、シァナは恐ろしく素早い手つきで物を盗んだ。
そして盗む度に、彼女は自分の行動がより洗練されていくのを実感していた。
とにかく、『しっくりきた』のだ。
秀でているというのはもちろんのこと、盗むという行為そのものがシァナの性分に合致した。
他人から奪い、自分のものにする。
その一方的で、自分が優位に立つ行動に、シァナは仄暗い快感すら覚えていた。それは生きていくために仕方なく選び取った手段だったが、同時に自分の欲を満たす楽しみとしても成立していた。
皮肉なものだ。なにせそれは、真っ当に生きていればまず見出されることのない才能だったのだから。
とはいえ、どれだけ天賦の才があろうとも、やはり新参者がスラムで生きていくのは難しい。盗むのが上手いだけではそのうち限界がやってくる。スラムには浮浪者同士の縄張りがあったし、幼い少女が襲われずに一夜を過ごせる場所などないに等しかった。実際そのままの生活を続けていたら、シァナは暴漢に襲われるか、人攫いに売り捌かれるか、狂人に殴り殺されるか、とにかく酷い目に遭っていただろう。
その点、シァナは運が良かった。
焼け出されてから数日後、シァナはとある兄弟に声をかけられた。
兄のニャクと弟のジャディ。共に十を過ぎた年齢の彼らは生まれも育ちもスラムで、血の繋がりはなく、何年も何年も盗みや物乞いで日銭を稼いできた。シァナがスラムの素人ならば、彼ら兄弟は専門家だった。
仲間にしてやる。
二人は声を揃えて、少し偉そうに言った。彼らは陰からシァナの盗みを観察していて、その手際に目をつけたらしい。要するに、利用できそうだから野垂れ死ぬ前に引き入れてやろう、という腹積もりだ。
しかしながら、彼ら兄弟はシァナを脅して無理矢理働かせることもできたはずだった。わざわざ仲間だなんて誘い方をしたのは、おそらく二人とも胸の内でシァナに惹かれていたからだろう。左顔面を覆う酷い火傷を無視すれば、シァナは同年代の少年たちにとって素朴で魅力的な存在に見えた。栗色の髪も、青く澄んだ瞳も、庇護欲を掻き立てる華奢な身体つきも。当然口に出すことはなかったし、当のシァナは突然の誘いにびくびくと怯えてしまっていたが。
兄弟と行動を共にすることによって、シァナの生活は軌道に乗り始めた。もちろん最貧困層での暮らしに軌道も何もあったものではないが、とにかく寝る場所にも困るような状況からは脱することができた。
兄弟は半ば競うようにして、シァナにスラムでの生き方を伝授した。
雨風を凌げる安全な破屋、忌避すべき集団と人種、子供たちだけが通れる下水道の裏道、絶対に足を踏み入れてはいけない
スラムには、そこに住む人間だけが知る数々の原則があった。それを破ったものは手痛い仕打ちを受け、三日と生きてはいられない。一人で行動していた頃、シァナも知らぬ間に浮浪少年たちが盗みを働く縄張りを侵害してしまっていた。兄弟たちの仲間に迎えられ、『同族』だと認定されていなければ、近いうちに暴力を伴った洗礼を受けていたはずだ。
シァナは兄弟と共に路地を駆け回りながら、彼らの知識と経験を吸収し、同時に彼女自身の盗みの技術を磨いていった。
シァナたちは常に三人一緒に行動した。
表街まで出て、ニャクが物乞いの振りをして気を引いている間、シァナとジャディが通行人の金銭を掠め取ることもあれば、綿密な計画を立てて空き巣に入り、家主の財産を裏市場で売り捌くこともあった。
周りの浮浪者仲間たちが致命的な失敗を犯して蠅まみれの牢にぶち込まれたり、報復を受けて命を落とす中、シァナたちは上手く立ち回った。ならず者の集団から目をつけられないように派手な行動を避け、場合によっては金を流し、しぶとく強かにスラムの陰で生き延びた。
その中で凄惨な光景を目にすることもしばしばだったが、それでもシァナの顔には時々笑みが浮かんでいた。楽しいとすら思う瞬間もあった。
夜空の下、ごみ山の上で兄弟が夢を語っている時間もそのひとつだった。
「俺は金細工職人になりたいんだ」
手元の鉄くずを器用に弄びながら、兄のニャクは言った。金を貯めて王都まで赴き、組合に弟子入りして、長い下積みの後で一人前になる。目が飛び出るくらい精密で豪奢な装飾品を作って、金持ちどもから頭を下げて指名されるような大物になってやるのだと。
一方で、弟のジャディはもう少し夢見がちだった。
「俺は偉い術師様になってやるね」
笑われるのも承知だ、という顔つきでジャディは言った。術師――つまりは魔術師。世界の理を操る神秘の使い手。遠い北の山脈の向こうには、高名な魔術師が集まる白亜の都があり、そこには魔術師を育成する『塔』という呼び名の学校がある。いかなる手段を使ってでも『塔』の門を叩き、世界をひっくり返すくらいの力を手に入れてみせると、ジャディは息を荒くした。
言うまでもなく、それらはおよそ叶う事のない遠い夢想に過ぎなかったのだろう。
それでもシァナは彼らの話を聞くのが好きだった。日銭を稼ぐだけでも精一杯の毎日の中、一筋の光に目を細めるような気分で、心底二人の夢が叶えばいいと願っていた。
シァナがスラムで生活を始めてからおよそ三年後、ニャクとジャディは死んだ。
それはあっけない最期だった。
すっかり三人での行動に慣れ、生活にも多少の余裕が出てきた頃。ある夜、シァナたちと別行動をとっていたジャディが、裏路地で複数の荒くれ者に囲まれ、一方的な暴行の末に殺された。
油断していたのだ。スラムで力を持つ集団には近付かず、稼ぎは出来る限り秘匿して、決して妬まれないように注意してきた。だがこの薄汚い
ここには気を抜いて歩ける道などひとつもない。
少しでも選択を間違えれば、蝿に集られ、烏に
それを分かっていたはずなのに。三年で生じた僅かな余裕が、取り返しのつかない死を引き起こした。
そしてジャディが命を落とした翌日、兄のニャクも彼に続いた。
弟の死を知って逆上したニャクは『絶対にここから離れるな』と言い含めてシァナを縄で縛り、隠れ家に閉じ込めると、怨嗟の形相で街に飛び出し、スラムの情報網を駆使して、僅か半日でジャディを殺した人間たちの住処を突き止めた。
だが迅速な手際に反して、ニャクのとった行動は非常に短絡的なものだった。彼は自らが普段から研磨していた一振りのナイフを片手に、殺人者たちの住処に単身で乗り込んだのだ。
結果は想像するまでもない。
ニャクは一人を殺し、二人に手傷を与えたが、残る四人に反撃を受けて殺された。
全身は殴られなかった箇所がないほどに打ちのめされ、頭蓋骨は見るも無残に変形していた。
シァナが必死の格闘の末に縄から抜け、隠れ家の戸を破った頃にはもう、ニャクの死体は路地裏の隅で雨に打たれていた。
シァナは再び一人になった。
彼女の手元に残ったのは、類稀なる盗みの技術と、兄弟に教わった生きていくための知識、それから三年分の記憶だけ。
悲しんでいる暇はなかった。家族同然の兄弟が死んでなお、シァナはまだ死にたくないと思っていた。
彼女は三人で住んでいた隠れ家を捨てると、より目立たない居所を転々としながら、スラムで一人生き続けた。ひたすらに盗み、ひたすらに逃げた。もう以前のように、ごみ山の上で夜空を見上げることはなかった。
そうして、さらに一年が過ぎた頃。
十三歳のシァナは、見慣れた街で『彼』に出会った。
あのどうしようもなく不器用な男。世界を旅する記憶泥棒。翡翠の目を持つ生涯の師に。
その出会いは偶然でも運命でもなく、そうあるべき必然だったのだと、彼女は後に回想している。
◇
楽な獲物を見つけた。
初めてその男を目にした時、シァナは真っ先にそう思った。ほくそ笑んですらいたかもしれない。
冬の始め。底冷えする空気が路上で暮らす浮浪者の幾人かを永い眠りへと誘い、深く重い霧が街全体を覆い尽くした、とある真っ白な朝のこと。
その朝、シァナは表街の大通りに面した教会の尖塔の上に座り込み、息を潜めて道行く人々を観察していた。
理由はひとつ。盗みの標的を探すためだ。
スリはシァナにとって貴重な収入源のひとつであり、その標的を事前に決めておくことは、犯行をより円滑で実のあるものに変えてくれる。
盗みやすい相手なのか、金はどれだけ持っているのか、手を出していい立場の人間なのかどうか。その人物の行動や警戒具合まで把握してから、シァナはいつも盗みを実行に移していた。用心し過ぎかもしれないが、慎重になるに越したことはない。貴族の装飾品を盗んで後に酷い報復を受けたり、平民に扮していた魔術師に手を出してその場で焼き殺されたり、相手を見誤って命を落とした同類をシァナは何人も知っていた。
そしてそんな経験則を踏まえてみても、その男は絶好の獲物に見えた。
擦り切れた灰色のローブを頭まですっぽりと被り、大きな荷を背負った一人の旅人。歳はおそらく三十といった頃合いだろうが、表情にも身体にも覇気がない。珍しい翡翠色の瞳はどことなく虚ろで、乱雑に切り揃えられた黒髪と無精髭がみすぼらしさを助長させている。余程荷が重いのか、酷い猫背のまま石畳の上をゆっくりと歩いていて、それがまた外見から計り知れる年齢以上の老いを感じさせた。
濃い霧の中、持ち前の高い視力で男の一挙一動を観察しながら、シァナは自分の身体が疼くのを抑えていた。
いける。盗みたい。今すぐに。
まず、旅人というのがいい。しかもこの街を初めて訪れた旅人だ。しきりに周囲を見渡しながら歩いていることから、それが分かる。
流浪の民は街に繋がりを持たない。後ろ盾もない。どれだけ酷い目に遭わせようとも、組織ぐるみの報復を心配する必要がない。土地勘がないから逃げるのも容易だ。
第二に、男はそれなりの金を持っていた。行商か何かで一稼ぎした後なのだろうか。通りの露店で串焼きを購入した際、彼が取り出した革袋の中に幾つもの金貨のきらめきがあったことを、シァナの眼は見逃さなかった。左半身の懐へ仕舞ったところもきっちりと確認した。
第三に、男が向かっている方角はシァナにとって都合が良かった。宿を探す前に街を散策するつもりなのか、それとも補給だけして旅を再開するつもりなのかは分からないが、男の足取りは右往左往しながら表街の外周へ向いていた。要するに、スラムの方角だ。そこまで足を踏み入れることはないにしても、表街とスラムの境界には真っ当な衛兵が少ないし、逃げ道も熟知している。一度シァナがスラムに身を潜めてしまえば、捕まえられる余所者はまずいない。とにかく、盗みを働くには十分過ぎるほどの条件が整っていた。
「えへへ…………」
口角を吊り上げ、自分が邪な笑みを浮かべていることに気づかぬまま、シァナは男の後を追った。
尖塔から飛び降り、身軽な猫のように隣の建物の上へ着地して、そのまま屋根から屋根へと走り移る。洗練された立体的な動きは、長年の盗人生活の賜物だ。
シァナは濃い霧の中でも男を見失うことなく、屋根から足を滑らせることもなく、やがて大通りから外れた狭い路地で盗みを実行に移すことにした。
建物の壁を器用に伝い、男から十数歩ほど離れた地面に足を降ろす。そこはもうスラムに程近い区画であり、道もろくに舗装されていない。
男はこちらに背を向けていて、依然として猫背のままゆっくりと路地を進んでいる。警戒した様子は微塵もなく、やはり与し易い相手のように思われた。
そしてそのまま、シァナは行った。
足音を立てずに男へ駆け寄り、どん、と軽くぶつかる。突然の衝撃に男の身体がよろめいた瞬間、目にも止まらぬ素早さで左の懐から革袋を抜き取る。反応の暇は与えない。革袋を掴んだまま加速し、男が呆けている間に路地を曲がると、シァナは両脇の壁を蹴って再び建物の上へ舞い戻った。
見る者が見れば、一流の曲芸師の動きに近いと評していただろう。それくらい、彼女の身のこなしは俊敏だった。
「ふふ……大漁……」
烏の糞尿にまみれた高い屋根の上、ずっしりと重い革袋を手に、シァナは顔を綻ばせる。
スリというよりひったくりになってしまったし、少々強引ではあったが、問題はない。深い霧がシァナの姿を覆い隠して、追跡をより困難にさせている。急いで追いかけたところで後ろ姿すら見えなかったはずだし、よもやこの一瞬で遠く離れた屋根の上まで身を移したとは思うまい。鈍い人間なら、革袋を盗まれたことにすら気づかないだろう。
しかしながらこの時、シァナは既に致命的な失敗を犯していた。
革袋を手に数秒ほど笑みを浮かべていたシァナは、次の瞬間、異様な違和感を覚えた。いや、違和感どころではない。息が詰まり、頭が真っ白になるほどの、強烈な喪失感だ。
つい数秒前まで、自分が何をしていたのか思い出せない。
この両手に掴んでいる革袋は何だ? 見覚えがない。自分のものとは思えない。
そもそも、ここはどこだ? 何故自分はこんな屋根の上で一人佇んでいる?
シァナ。そう、自分の名前はシァナ。それは思い出せる。
だが直近の記憶を思い出そうとした時、シァナの脳裏に浮かんだのは黴の生えた孤児院の壁と、狭い部屋の中にひしめき合う栄養失調の子供たちの顔だった。
記憶によれば、つい先ほどまで、シァナはあの部屋で年少の子供たちの面倒を見ていたはずだった。ろくに食事も与えてくれない酷い環境の中で、お腹を空かせた子供たちを必死に宥めていた。大丈夫。大丈夫だから。そんな汚いシーツを噛んではいけない。指を口に含んだって腹は膨れない。大丈夫。大丈夫。今日の夕食はきっとちゃんと用意されているはずだから。騒がないで、落ち着いて。あの人たちを怒らせないで――
だが記憶はそこで途切れている。今ここにいる自分の状況とまるで結びつかない。時間の連続性がない。
とにかく、訳が分からなかった。
シァナは革袋をその場にぽとりと落とし、記憶よりも随分と成長している自分の身体に驚いて身をよじり、助けを求めるように周囲を見渡した。
しかし周りには深い霧が広がるばかりで、シァナの助けに応じてくれるものはひとつもなく。
代わりに、飄々とした低い声が聞こえてきた。
「お前、中々良い腕してるじゃねぇか」
愉快そうな口調と共に、目の前の霧の中からふらりと現れたのは、翡翠色の眼を持つ猫背の男。
身の丈程はあろうかという大きな荷をその背に担ぎながら、男は傾斜した屋根の上で微塵も体勢を崩すことなく歩を進め、シァナから三歩離れた距離で立ち止まった。
見覚えのない男だ。少なくとも、その時のシァナはそう思った。朝から彼を尾行し、あまつさえ銀貨の詰まった革袋を強奪したことすら、綺麗さっぱり忘れていた。
唐突に現れた奇妙な男に対し、シァナはただ強い警戒の念だけを露わにしていた。
「すまねえな、ガキ。あんまり驚いたもんで加減できなかった。うっかりここ五年分の記憶を抜いちまったよ」
シァナの訝しげな視線を気にすることもなく、男はぽりぽりと頭を掻いた。
気にしていない、というより眼中に入っていない、という印象だろうか。彼は独り言を発するようにシァナに話しかけ、どこにも焦点を合わせていないような瞳でシァナを見た。奇妙ではあったが、恐ろしくはなかった。
「…………?」
言っていることの意味が分からない、とシァナが首を振ると、男は特に面白くもなさそうに「けけっ」と笑った。
「そうだろうな。分からんだろうな。当たり前だな。ま、そんなことはどうでもいいのさ。俺はお前が見事な手際で掠め取っていったその金を回収して、ついでに手癖で盗んじまったお前のもんを返しにきただけだからよ。分かる必要はない。考える必要もない。もう二度と会うこともないだろうからな」
実際、特に話す必要すらなかったのだろう。男はそれ以上シァナに説明することなく、屋根の端に転がっていた革袋を拾うと、終いとばかりに小さく呟いた。
「んじゃ、返すぜ」
端的に、一言。だが、直後の結果は劇的だった。
男がその翡翠色の瞳でシァナを見据えたと思った瞬間、青白い閃光が視界いっぱいに広がり、頭の中身をかき混ぜられたような強い衝撃がシァナを襲った。嵐のような奔流が意識の合間を駆け巡り、あらゆる思考が意味をなさずに霧散していく。天地がひっくり返ったように平衡感覚は失われ、シァナはその場に尻餅をついて屋根から転がり落ちそうになった。
男に何らかの暴力を振るわれた訳ではない。それはおよそ物理的な衝撃によるものではなく、偏には言い表せない不可視の力によって引き起こされた現象だった。
「あ、がっ…………」
そして声にならない声を漏らし、頭を貫く鈍痛に悶えながら、シァナは失ったものが自分の中に戻ってくるのを感じていた。
すなわち、五年分の記憶。孤児院で同室の子らの面倒を見ていたあの場面から、スラムで暮らし始め、兄弟と出会い、死に別れ、今日旅人の男から革袋を盗んだ先刻までの長い記憶が、瞬く間にシァナの元へと流れ込んできたのである。
同時に、先ほど男が発した言葉の意味も理解した。
文字通り、シァナは彼に記憶を盗まれていたらしい。
慎重に観察した上で自分が『楽な獲物』だと侮ったこの男は、きっと手を出してはいけない類の人間だったのだ。
おそらくは、魔術師。シァナはこの世の魔術なるものに関する知識を露ほども有していなかったが、記憶を奪うなんて芸当が彼ら以外に可能だとは思えなかった。
「…………っ!」
シァナは歯噛みして、飛び跳ねるように後ずさった。記憶が戻ると同時に頭の痛みも収まっていて、身体を動かすのに支障はなかったし、何より目の前の男のことが怖かった。
魔術師は皆傲慢で優越思想の塊だと相場が決まっている。以前、盗みを働いた浮浪少年が路上で通りすがりの魔術師に焼き殺されたように、この男もまた自分に手出しした薄汚い盗人を許さないだろう。
「ん? 何見てんだよ。もうお前に用はねえ」
しかしシァナの恐怖は杞憂に終わった。
男は先ほど取り返した革袋を手の甲で軽くはたき、再び自身の懐へ仕舞いこむと、目の前のシァナに大した関心も払わず、くるりと背を向けたのだ。
「じゃあな。同じ泥棒のよしみだ、達者でやれよ」
「え……?」
不意に飛び出した『同じ泥棒』という言葉に疑問を挟む間もなく、男は右足で屋根を蹴ると、何もない中空に身を投げた。担ぐだけでも難しいような重い荷とともに、大の男十人分はあろうかという高さの建物から跳んだのだ。驚いたシァナが軒先に駆け寄って下の地面に目を向けるも、そこには既に誰もいない。先ほどまでの一幕が嘘だったかのように、男はゆらりと消えてしまった。
一体、彼は何者だったのだろうか。
シァナはぽかんと開いていた口を閉じて、屋根の傾斜にもたれかかった。いつの間にか息が荒く、脈が速くなっていたことに気づき、軽く深呼吸する。
周囲はいまだ深い霧に満ちていて、数軒先の建物すらうまく見通せないほどだ。
目の前を一羽の烏が横切り、こちらを笑うような声でひとしきり鳴いた。普段なら眉をひそめていただろうが、たった今シァナの意識は外ではなく内に向いていた。
何故だかあの男のことが気になって頭から離れない。
初めて盗みを失敗したことによる動揺や、油断していた自分に対する怒り、それから記憶を奪われるという異様な経験に対する驚愕などが、シァナの脳裏で混然一体となって渦巻き、酷く絡み合った茨のような様相を呈していた。その中心には、あの男がいる。正確には、彼が用いた恐ろしい術、記憶を盗む奇妙な技が。
自分を見据えた翡翠色の双眸を思い出す。直後の閃光と、頭の中へ土足で入り込まれた感覚と共に。
「…………」
そのまま十数分ほど佇んだ後、シァナは立ち上がった。
思考と感情の渦はいまだ収まっていなかったが、それでもある種の焦燥と切望が彼女の足を動かした。
もう一度あの男に会わなければならないと、シァナはどこかで直感していた。
◇
男の捜索は難航した。なにせシァナは彼の身分も行き先も目的も知らなかったのだから、当然だ。唯一はっきりしているのは、あの男がこの街の人間ではないということだけ。
シァナは旅人が立ち寄りそうな宿、店、組合などを虱潰しに探し回り、街を端から端まで横断する勢いで屋根の上を駆けた。街は無駄に広かった。それこそ、外周にスラムが形成されるほどには。しかもぼろ衣と見紛うような服を着たシァナでは真っ当な店の中へ入ることができなかったし、捜索の範囲は屋外に限られたので、あの男を見つけられるどうかはほとんど賭けに等しかった。すべての行動が徒労に終わる可能性もあった。
だからこそ街と外を繋ぐ城壁門の近くであの男の姿を発見した時は、珍しく胸が弾んだ。
既に日が落ちかけ、街を包む深い霧にぼんやりとした橙色の光が馴染み始めた時刻。男は二人の衛兵の脇を通り抜け、今まさに街を出るところだった。きっと、元々ここに滞在する予定もなかったのだろう。相も変わらずの大きな荷物が増えている様子はなく、そのくたびれた風体も何時間か前に見た通りだった。
シァナは付近にあった高い建物の上に立つと、勢いをつけて城壁に飛び移り、そのまま蜘蛛のように四肢を動かして上までよじ登った。
まともに門を通れば、衛兵に止められる可能性がある。いつも相手に悟られぬほどの手際で盗みを働いてきたため、盗人として人相が知られている心配はなかったが、それでもスラムの子供というだけで目をつけられるかもしれない。
幸い、老朽化した壁には幾つもの窪みがあって、シァナほどの身軽さがあれば登り切るのも難しくはなかった。
シァナは城壁の上で身を屈めると、街から出たばかりの男へ目を向けた。辺りには見渡す限りの平原が広がっており、門から外へは馬車が通れるほどの幅を持つ道が真っ直ぐ続いていて、男はその上を徒歩でゆっくりと歩いている。
もっとも、いざ男を目にする段階まできたところで、シァナに何か明確な目的があるわけではなかった。自分を突き動かす衝動の正体に明確な結論を出せぬまま、シァナは城壁を外に向かって降り、彼の背中を追いかけた。
「おいおい、参ったな。どんな風の吹き回しだ?」
シァナが後数歩という距離まで近づいた時、男は突然立ち止まって振り返ると、目を見開いてそう言った。少なからず驚いた様子だった。自分から金を盗み、失敗した小さな盗人が、今度は堂々と歩いてきたのだから、無理もない。
しかし自分の行動に驚いているのはシァナも同じだった。彼女は何を言えばいいのか分からず、何のために来たのかも分からず、結局絞り出すように一言だけ声を発した。
「…………あれ、なに」
『あれ』とは、男がシァナに用いた、記憶を奪う術のことだ。
随分と大雑把な問いだったが、男はその言葉が何を指しているのかすぐに分かったようで、少し困ったように口を歪めた。
「あんだよ、気になっちまったってのかよ。そんでわざわざここまで来たと?」
「……うん」
「ふん。信じられねぇなあ、まったく。慣れないことするもんじゃなかったぜ。おい、ガキ。お前今ここでまた記憶を盗まれるとか思わなかったのか? 何ならあの時、俺はお前から『俺と会った記憶』そのものを抜くことだってできたんだぜ?」
「…………」
そんなことは分かっている、と言う代わりに、シァナはむっつりとした表情を男に向けた。あれがどれほど恐ろしいものなのか、その身を以て体感したシァナ自身がよく理解している。
「あのなぁ、何を期待しているか知らねぇが、あれについて話すことは何もないぞ。むしろ興味を持っちまったのは最悪だ。俺は今からお前の記憶を奪う。今度こそ、俺の存在自体を思い出せないように」
若干呆れたような声色とともに、男は再びその翡翠色の瞳でシァナを見た。シァナに五年分の記憶を送り返したときのように、力強い眼差しで。そこに一切の情け容赦はなく、その瞳が『これ以上話すことはない』と何よりも雄弁に告げていた。実際、慣れているのかもしれない。きっとこの男は、自分の術に関する痕跡を残さぬよう、これまで多くの人間の記憶を闇に葬ってきたのだ。
「悪く思うなよ」
そして、すぐに『それ』は来た。
青白い稲妻のような鋭い光が、シァナ目掛けて真っ直ぐに飛んでくる。放たれた矢の如く、逃れようもない速さで。
しかしシァナはそれを認識し、そして瞬時に反応していた。男と目を合わせた瞬間からずっと、彼女の全神経はそれを避けるためだけに研ぎ澄まされていた。
「っ!?」
男が驚愕に目を見開く。
シァナは身を捻り、左後方に回転しながら飛び跳ねると、男から放たれた稲妻のような光――およそ目で見ることすらできないはずの思念の奔流を、紙一重で回避したのだ。
ずざざざざ、と地面の上に転がりながら、シァナは自分の記憶が欠片ほども盗まれていないことを自覚していた。頭の中へ入り込まれるあの不快な感覚もなかった。
避け切った。
どうだ、と言わんばかりの目で再び男に目を向けると、彼は「ひひひ」と奇妙な笑い声を上げていた。
「ひひっ、ひひひっ。こいつは驚いた。お前、本気かよ。『あれ』が見えるのか? 本当に? いや、勘で避けられるようなもんでもねぇ。分かってる。しかし、こんなところで、こんな奴が? 珍しい話もあったもんだ。ひひ、ひひひっ。腹が痛ぇ、笑いが止まらねぇや、ひひっ」
『次』が来るかもしれないと身構えていたシァナは思わず面食らった。何がそんなに愉快なのか、どうして膝を叩くほど笑っているのか、さっぱり理解できない。今度こそ記憶を消す、と力強く宣言していたのに、どうやらそのつもりも消え失せたようだ。
男はひとしきり笑い続けた後、目の前で立ち尽くしたままのシァナに言った。
「お前、何か望みはあるか? 欲しいもんでもいい。あるいは盗みたいものでも。なにせ、お前は泥棒だからな」
不可解な問いだった。先ほどの笑いと同じように、これも意味が分からない。
しかしシァナにとってこの問いは深く考える必要もないものだったので、素直に自分の答えを口にした。胸に抱えた欲望、あるいは夢を。昔、兄弟がシァナに語り聞かせてくれたように、偽ることなく。
「…………全部。全部欲しい。この世にある何もかもを、一つ残らず盗みたい」
それを言葉にした時、シァナは不意に理解した。そう、自分はすべてが欲しい。あらゆるものを盗みたい。奪いたくてたまらない。だからこそ、男が有している不可思議な術に魅入られた。あの術があれば、記憶すら盗み、自分のものにすることができる。そんな行為が可能だと知って、どうして興味を抱かずにいられるだろうか。
「ひひひ! この世のすべてときたか! 見かけによらず、馬鹿みてぇに傲慢で強欲な奴だ!」
そして男はシァナの大きすぎる答えに対し、笑いはしても馬鹿にすることはなく、むしろ感心したといった様子で続けた。
「おいガキ。お前、名前は?」
「……シァナ、だけど」
「ふうん、シァナ、シァナね。これまた傑作だ。とんだ皮肉な名前じゃねえか」
「……何か……おかしいの?」
「知らねぇのか。シァナってのは、西方の古い言葉で『恵み』や『豊穣』を意味するんだよ。他人から奪うだけ、盗人のお前とは正反対さ。これがおかしくなくてどうする? ほら、お前も笑っていいぞ」
「あはは」
シァナは真顔で笑った。確かに皮肉だとは思ったが、特に面白いとは感じていなかったので、平坦な声しか出なかった。
男は「けっ、乗り切れん奴だ」と眉をひそめると、
「まあいい。気に入った。お前、俺と来るか? 来るってんなら、いいぜ、形なきものの盗み方を教えてやる」
そう言って、突然シァナに手を差し伸べた。
ごつごつした右の手のひらとともに、旅の道連れにならないかと誘ったのだ。
シァナは男のくたびれた相貌と翡翠色の瞳を見つめ、しばし逡巡していたが、やがて自分の小さな右手を男の手に乗せた。心は既に決まっていた。ひょっとすると、こうなることをどこかで予期していたのかもしれない。この街から、あのくそったれなスラムから去ることを。
男はシァナの右手を引っ掴んで身体ごと引っ張り、自分の隣に立たせると、手を放してすぐに歩き出した。どうやらこのまま行くらしい。スラムの隠れ家には残してきたものもあったが、しかしシァナはそれらを振り返ることもなく、男から少しだけ距離を開けて歩を進めた。
「あの」
歩き始めると同時、シァナは男の背に尋ねた。
「………あなた、名前、なんていうの?」
「あ? 名前? そんなもんねぇよ。とっくの昔に捨てちまったさ」
「…………でもそれじゃ、困る」
「呼ぶ時にか? 別に『お前』だろうが『あんた』だろうが構わねぇが……そうだな、強いて呼ぶなら『師匠』とでも呼びな。今後、お前には色々叩き込んでやるからな」
「わかった。師匠」
「お前……臆面もなく言いやがるな」
あるいはそれは男の冗談だったのかもしれない。彼は振り返って少しだけ嫌な顔をしたが、しかし結局訂正することなく前を向いた。
広い平原の中、地平線の近くには大きな山脈が視界に入る。シァナには、今踏みしめている道がどこまでも続いているように感じられた。
街から出たせいか、周囲には霧もなく、沈む夕日も鮮明に見える。
「今日は随分と月明かりがあるはずだ。悪いが、夜通し歩くぞ。野宿に最適な場所があるもんでな」
「……どうして街で宿を借りなかったの?」
「用が済んだらさっさと出ていくことにしてんだよ。ついてくる自信がないなら、一人で引き返したっていいんだぜ」
「…………」
シァナは無言で男を――否、師匠の隣を追い越した。
「けっ。やっぱり威勢のいい奴だ」という声が後ろから聞こえてくる。
街を探し回って相当疲労したはずだが、不思議と足は軽かった。
これが記憶泥棒とその弟子の、旅の始まりの一幕である。
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