杉と海とじいさんと

増田朋美

杉と海とじいさんと

杉と海と爺さんと

ある、海の近くにある町に、小さな旅館を営んでいる一家があった。主人の都築保、その妻の華代、妻の父親の権蔵の三人家族だった。都築家には、大人と老人はいたが子供はなかった。その分、お客さんの子供たちに十分なもてなしをすることで、子どもがいない寂しさをごまかしていた。

都築旅館はさほど大きな旅館でもなく、お客さんをもてなす仕事だけであったら、保と華代だけで充分にやっていけるほどの面積だった。華代は、お客さんに食事を給仕したり、部屋とか風呂の掃除を担当し、保は、板前としてお客さんに出す食事を作ること。その仕事を二人は文句言わずにこなしていた。

ある日の事である。全部のお客さんに食事を出してしまうと、華代と保は権蔵を部屋に呼び出した。

「お父さん、一寸話があるんですけどね。」

保は、テーブルの上に一枚のパンフレットを置く。拍子には特別養護老人ホームと書いてあった。

「もう、うちの旅館も、僕たち二人でやっていきますから、お父さんは、ゆったりとここで余生を送ったらどうですか?」

「何だって?」

権蔵はわざと聞こえないふりをした。

「お父さん。そういうときに限って変な真似をしないでください。あたしたちは、そろそろあたしたちのやり方で旅館をしていきたいの。だから、もうこういう古ぼけた旅館はもうおしまいにしたいのよ。わかるでしょう?もうだって、こんな古ぼけた旅館なんて、何も価値ないでしょう。お客さんだって、年々

減ってるし。それを食い止めるためには、旅館というやり方を変えていかなきゃいけないのよ。」

華代が、娘らしく高飛車に言った。そういう容赦なく言えるところは、やっぱり娘ならではだろう。

「それに、お父さんは、もう年を取って、やれることだってほとんどないじゃないの。そういう事だったら、もう私たちに旅館は譲り渡して、たのしい余生を送ることだけを考えればいいじゃない。もう、私は、この家に縛られるのはごめんなの。わかるでしょう?後継者を作るために、恋愛もしないで保さんと無理やり結婚させられて。」

「華代、そんなことを保くんの前でいうもんじゃないよ。」

「いいえ、いいんですお父さん。華代がどうしてもそうしたいというのなら、そうしてやった方がいいと

思います。」

権蔵がそういうと、保は、華代をかばう様に言った。

「華代さんに申し訳ないって、僕もずっと思っていたんです。子どもがいたらまだよかったのかもしれない。でもその願いは叶いませんでした。だからもう、華代さんが、この旅館をたたんで自由になりたいって言ったとき、其れはもう仕方ないなと思いました。華代さんも、この旅館に縛られることなく、自由な人生を送りたかったでしょうからね。それを、かなえてやろうと思ったのです。子どもができなかったのは、ある意味僕のせいでもあるんですから、もうそうなってしまった以上、華代さんを自由にしてやりたいと思います。」

「保くん、そんなに自分を責めなくていいんだよ。」

権蔵はそういったが、保の決断は変わらないようであった。

「いいえ、自分を責めるしかありません。華代さんだって、本当は、もっと楽しい人生があるんじゃないかと思いますし。今は、家がすべてという時代ではありません。其れよりも、個人がどう生きるかでしょう。ですから、旅館をずっと続けている必要もないと思うんです。そんな売れない旅館を何とかして売れる様にしようって努力なんかする必要は全くないですよ。今の時代であれば。だって、どうせ日本文化を厳格に守り続ける旅館をやっていても、そういうのを求めてくるお客さんなんて誰も居ないじゃないですか。だから、こんなところに居たって意味がない。だから、華代さんにも、自由な人生を味わってほしいんです。これが今までの僕の罪滅ぼしかもしれません。」

「保くん、そんな結論を出すつもりで、ここへ婿養子に来て貰ったわけではないだけどね。」

「いえ、結果としてそうなってしまったじゃないですか。その結果をいつまでもだらだら引きずって行けば、何もよいことはありません。もう華代には、これ以上不幸だと思ってほしくないですし。だからいまここで決断を。」

「家をつぶすことが、幸せになるという事だろうか?」

其ればかり言う保に、権蔵はそう問いかけた。

「ええ。今は、幸せにたどり着くハードルが高いんだと思います。それを乗り越えるには、古い考えは捨てなければならないんじゃないでしょうか。」

保は静かに答えた。もう、昔の幸せと今の幸せは、違うんだと言いたげであった。

「でも、何時の時代にも、家族というものは、一緒にいて、幸せを共有するものではないのかね?」

「はっきり言えばそれが間違いよ!もう保さんもお父さんも、つまらない事言い合ってないで、早く本題に入って!」

保がそういうと、華代がきつい口調で言うのだった。

「そんな家族がどうのなんて古臭い考えはさっさと捨ててって、私何回もお願いしていたじゃないの!今はお金さえあればなんでもできてしまう時代なんだし。それだけ進歩したのにいつまでも古い考えが残っているから、あたしたちが幸せになれないんじゃないの!」

「じゃあ、華代さん。手っ取り早く本題を言ってみてくれ。」

と、気弱な保は、華代にそれではと得意になって、こう切り出した。

「もうこうなったら本当の事をいうわ!お父さんは老人ホームに入ってもらいますよ。そして、あたしと、保さんは離婚して、この旅館もおしまいにすることにする。あたしは、東京に行って、自由が利く職業に就くわ。もう、土日に出かけられない仕事はごめんよ!」

「保くんはどうするんだね。」

権蔵が聞くと、

「わかりません。やれそうな仕事をして、しずかに暮らそうと思います。」

と、答えた。離婚すると女は元気になり、男は落ち込むとはまさしく本当である。そのせいで人生が変わってしまう。

「もう決めているのかね。」

「ええ、もちろん!」

華代は、明るく言ったが、保は、本当は離婚したくないけれど、しぶしぶと言った感じでそういったのだった。本当は、保がもうちょっと強かったら、まだ離婚には至らんないのかもしれないが、今の時代、そういう事を言うと、女性の人権侵害だと言って、すぐに悪人呼ばわりされてしまうことになる。男に出来る事と言えばただ黙って、女のいう通りにしていくしかないだろう。

昔の男はもうちょっと、権威というものがあったのだが、今の時代、女を守ろうという風潮がすごいから、そんなことはとてもできない。それを風刺したテレビ番組も沢山製作されているし。何だかそれほど、男というものは悪いものになってしまったのだろうか。

いずれにしても、この旅館がもう終わってしまうのは間違いなかった。

「そうか。お前たちのすきにすればいいさ。」

権蔵はそういって黙って首を垂れるしかなかった。

夕方になって、権蔵は、みなと公園に出た。特に何かしている訳ではないけれど、今でも港公園で

海を眺めるのは本当に好きだった。でも今日眺めている海は、いつもと違う気がした。

「もうこの海を眺めるのも終いかな。」

思わず、そうつぶやいてしまう。いや、終いにしたかった。若いころに妻を亡くした権蔵は、一生懸命娘を育ててきて、娘が幸せになってほしいからこそ、保くんと結婚するようにと言ったのに。二人が、子どもができなくて、ノイローゼになった時も、自宅を旅館に改造して、出来るだけ人と接触できるようにしろと指示したのは自分だった。保がそのとおりにして、すこしノイローゼは改善されたと思われたが、そうでもなく、元気を取り戻してくれたと思ったら、今度は離婚するだなんて。わしは、何のために、あの二人に旅館をやってみろと言い出したんだろう。

「わしは、華代にとって邪魔な存在なのかな。」

と、権蔵は、しずかにつぶやいた。

もしかしたら、わしも人生潮時なのかもしれない。もう、お母さんの下へ来いと、誰かが言っているのかもしれなかった。もうそういう時なのかなと考えた権蔵は、しずかに港のほうへ向かって、歩きだしていった。

と、その時。

「今日は。」

不意に誰かの声が聞こえてきて、権蔵は後ろを振り向いた。

「こんな所で何してるんだ、夜釣りでもしようと思ったのか?」

と、そこには、影山杉三こと、杉ちゃんがいた。

「あ、いいや、そういう事ではないんですけどね。」

「へえ、其れじゃ、何しにここへ?」

と、杉三は聞く。

「僕は、バスを待っているのだが、一本逃してしまったので、ここで一時間ほど待たされることになった。」

「なら、タクシーを拾ったらどうですか?」

権蔵が聞くと、

「いやあ、僕、読み書き出来ないんだ。だからダイヤルは出来ないんだよ。ちなみに僕の名前は影山杉三。よろしくね。」

と、杉三はからからと笑って握手した。その態度には、まったく悪気はなさそうで、なにか魂胆があるとか、他意を言っているようなことは少しも見られなかった。

「そうか、確かにわしが若いころは、読み書きのできない同級生もたまに見かけたな。」

と、杉三の顔を見て、権蔵じいさんは言った。そういう子たちが居たから、勉強するという事も本当に楽しかったものだ。初めて、手紙を出し合ったときの感動を、爺さんは忘れてはいない。あの時は、本当に感動したなあ。初めて気持ちを他人に伝えることができたから。

「わしも、子どものときは、字なんてあまり縁がなかったから、確かに字を習ったときは、すごいなあと思ったよ。今みたいに、だれでも字が読めて当たり前じゃなかったからねえ。」

爺さんは、杉三にそんなことをいわれて、なんだか急に昔のことを思い出したような気がした。

「字にはあまり縁がない?って、爺さん何をしていたの?」

杉三にそういわれて、爺さんは次のように答えた。

「ああ、ただ、魚を掴まえて生計を立てていたんだ。と言っても、一日に数匹くらいしか捕まえられないがな。貧乏だから船も持てずにそのまま海に飛び込んで泳いで。」

爺さんはちょっと恥ずかしそうに言うのだった。これを言ってしまうと、バカにされることがほとんどであるから、娘には絶対口に出さないように言われている。自分はこれのおかげで、クラスメイトからバカにされた、どうしてくれるんだ、なんて、娘から何回もどなられたものだ。こんな時、妻がいてくれれば、そこをうまくごまかしてくれるかもしれないけれども、そういう能力は、自分にはなかった。

「でもすごいね。其れじゃあ、水泳の選手並みに泳げるんじゃないか?だって、生活のために魚とっていたんでしょう?単に潜って銛で魚を取るの?」

杉三は、そんなことを聞いてくる。そんな反応をするのが、意外なところだった。大体素潜り漁をしている何て言ったら、みんなにバカにされるに決まっているからだ。

「いやあ、銛というものも、正直に言って用意できなかったので、、、。」

それほど、貧しかったのだ。それさえも用意出来なかった自分は、本当に恥ずかしいものだ。

「そうなのね。じゃあ、素手でつかみ取りをしていたのか?」

と、また杉三が聞く。そんな反応をされるなんて、権蔵じいさんは思ってもいなかったので、一寸びっくりしてしまった。

「わしのこと、バカにしてそういっているのかね。」

「いや、そんなことない。」

杉三は、またそういった。

「僕の友達にも、一日のご飯を食う事すら出来ないくらい、貧しい奴がいるからさ。そいつはな、本当にまずしい家庭であったけれども、頑張ってピアニストにまでなった。でも、体を壊してな、今は、いろんな人に看病してもらってやっと生きているほどまで弱っちまってる。貧乏な奴が、大きな役目に就くと、そうなるんだよね。もともとつけないポジションに、無理矢理つこうとするんだからな。そうじゃなくて、貧乏であっても、明るく楽しく生きて要られれば、そいつは幸せになれたんじゃないかと思うんだが、運命ってもんは残酷なものでよ。結局、体を悪くして倒れるしか出来んかったよ。」

「そうか、運命か、わしも、結局のところ、娘に捨てられるしか、なかったのかなあ。」

権蔵じいさんは、そういってため息をついた。この杉三という人であれば、自分の不幸を語ることもできるような気がした。

「わしは、もともと、石で漁をするのを得意としていたのさ。海藻の茂っているところに、罠を仕掛けておいて、その近くに隠れて石を打つんだ。火打ち石みたいにね。そうすると、その音に興味を持って魚が寄ってくる。そこで罠についている餌を食べたところを、わしが網で取る。こういう伝統的な漁をしていたんだよ。まあ、ちょっとした魚程度しか取れなかったことのほうが多いが、時には大きな鯛が取れて、大喜びしたこともある。最も、娘にはそんな古くさい漁、早くやめて!としか言われなかったけどね。わしはほかの仕事に就けるような、経歴も肩書もないんで、漁を続けるしか無くてね。」

「へえ、すごいじゃん、原始的な漁をやっているなんて、すごいと思うよ。今じゃ、電気で銛を発射するような漁もあるようだし。そういう昔ながらのやり方、大事にしてほしいよ。」

権蔵じいさんがそういうと、杉三はにこやかに言った。こんなほめ方をされたのは生まれて初めてで、爺さんは、一寸面食らってしまったくらいだ。

「火打石みたいに、石を打つ漁ね。確かに魚には石をコンコンと打ち付けて鳴らす音は心地よいのかもしれないね。そこをだまして、網で取る。うん、なんだか人間と魚が知恵比べをしているような気がするよ。なかなか面白いや。」

「面白いかなあ。」

爺さんは、杉三がにこやかに笑っているのを見て、思わずぼそっと呟いた。

「しかし、娘にはそんな古くさいものをとか言われて、いつも罵倒ばっかりされて、それはどうしようもなかった。漁はできたかもしれないが、家庭的な幸せは何も得られなかった。」

「でも、それはある意味仕方ないじゃないか。誰でも、満足の行ける家庭なんて持てるはずはないじゃないか。たしかに喧嘩するとよくないけどさあ、喧嘩が出来る事は、幸せなことでもあるよねえ。ほかの事が満たされていなければ、喧嘩なんてできないよねえ。さっき話した僕の友達は、衣食住を得るために、体まで壊してピアノやってたんだぞ。喧嘩なんてぜんぜんできる暇もないんだよ。毎日喧嘩のできるんだから、それで幸せだと思うべきじゃないのかよ。」

と、杉三はカラカラと笑った。

「もし、娘さんが、また貧乏な漁をしているとでかい声で言ってきたら、お前の衣食住はおれが作ってやったんだよって、怒鳴り返してやればいいさ。それでいいじゃないか。少なくとも、娘さんを大人になるまで育てたのは、お前さんだろう。」

「そうだけどねえ、、、。」

と、権蔵じいさんは、あたまを垂れる。どんなことをいっても、もう一家はバラバラになってしまうことが決定しているのだった。今更怒鳴っても遅すぎる。

「そうだけどねえ。ではないよ。事実そうだろう?お前さんがそうやって育ててきたんだろう?それでは、其れは事実なんだからよ。娘さんが親の職業を恥ずかしいと言ってきたら、それでは、誰がお前をここまで育てたんだ!って、怒鳴り返してやれよ。そんな事で親を尊敬しない子どもなんて、要るわけないよ。」

「そうだけど、今は時代が違うような気がするな、今は、完璧に縁を切ってしまうことも簡単にできるような気がしてしまうよ。」

「まあねエ。そうだけどやっぱり親は親だもん。いくら嫌な親でもいずれは分かるときは来るさ。それを目指して生きていかなくちゃ。どんな時でも、そう思って生きていかなきゃいけないと思う。たとえ通じなくても思い続ける方が大切だ。」

と、杉ちゃんは、そう言った。

それをいうのは理想的であるが、なかなかそういう事は実行できないと思う。そういう事ができたなら、今頃、娘夫婦は離婚何かしないはずだ。

「もし、可能であれば、もう一回お父ちゃんってすごいなってところを見せてやれるといいな。そうすれば、もう一回お父さんってすごいって伝えてやれれば、娘さんの気持ちも変わるんじゃないかな。」

杉三はそういう事をまた言った。

「いやいや。もうむりだ、今になってしまっては、そんなことはもうできないさ。もうそんな、魚を取りに行く、きっかけもないんだよ。それは、もう魚何ていろんなところに行けば、買えるじゃないか。」

爺さんは、そういったが、杉三はまたカラカラと笑った。

「いやいや、いつか、必ずそういう事が必ずあるよ。頑張って生きような。」

そう言ったのと同時に、クラクションの音がして、バスが走ってきたのがわかった。杉ちゃんは、運転手さんに手つだってもらって、バスに乗り込んだ。権蔵じいさんは、今日はおかしな日だなあと思いながらそれを見送った。

その数日後の事だった。

「あ、こんなところに旅館があった。ここで泊めてもらえるかな?」

一人の若い男性が、都築旅館の玄関前にやってきた。丁度、玄関の掃除をしていた華代がそれに応答する。

「すみません。泊まりたいんですけど、部屋は空いておりますでしょうか。」

「ええ、空いておりますよ。どうぞお入り下さい。」

華代は、そういって彼を旅館のなかに通す。

「あの、妻と息子も一緒なんですか。」

と、彼は言った。旅館の入り口近くに、タクシーが一台止まっていて、その窓から、一人の女性と、10歳くらいの少年が、ちょっと会釈したのが見えた。

「ええ、空いていますので、どうぞお入りください。」

華代は、二人にも、タクシーを降りてもらうように促した。二人は、すみません、よろしくお願いしますと言いながらタクシーを降りた。

「それでは、二階の五号室があいております。ご案内いたしますので、中にお入りください。」

といいながら、三人に二階の階段を上らせて、一番奥の五号室へ案内した。部屋は小さな和室で、きれいに掃除も行き届いていた。華代は、三人を部屋に入らせて、旅館全体のシステムと、お風呂について説明した。先ず、華代は、三人に宿帳を書いてもらう。お客さんは、宿帳に加藤と名前を書いた。そして、お食事についての説明を始めようとしたその時、父親が、もったいぶるような、申し訳ないような、顔をして、こう切り出し始めた。

「あの、ちょっともうしわないお願いなんですが、うちの息子の食事についてなんですけど、、、。」

「困ったわねえ。」

厨房に戻ってきた華代は、困ったことを話し始めた。丁度、お客さんの夕食の準備に取り掛かろうとした保も、どうしたんだと華代に声をかける。

「いやね、あの今日飛び込みで入ってきたお客さん、あの加藤さんっていうんですけど。」

と、華代は困った顔をする。

「加藤さんがどうしたんだ?」

保が聞くと、

「あの加藤さんの息子さん、病気なんですって。肉料理一切ダメだって。困ったわねえ。もうお客さんのお料理は、しゃぶしゃぶ定食と決まっているじゃないの。」

と、華代は答えた。

「まあ確かに、うちの料理は、毎晩しゃぶしゃぶと決まっているのだが、、、。」

保も考えこんでしまう。さすがに、もう業務スーパーは閉まってしまっていて、新しく魚を買いに行く時間もない。ほかの業務スーパーを訪ねてみようと思ったが、余りに遠すぎて、間に合いそうにもなかった。それに旅館という建前もあって、どのお客さんのお料理も、豪華な料理を出さなければならない。

「わかった。少し、夕食の時間を遅らせてもらえないかと、加藤さんに打診してくれ。すぐに材料を買ってくる。」

保は、急いで鞄を持って、遠方にある魚屋さんに行くことにした。すぐに、旅館の正面玄関から、クルマを取りに行こうと外に出る。

すると。

「あれ、お父さんの靴がない。」

と、保は言った。

「おい、お父さんどこ行ったか知らない?」

厨房にいた華代も出て来て、靴がない事を確認した。

「何処に行ったのかしら。何処かに置手紙でもないかしら?」

華代はそういって、置手紙を確認したがどこにもない。

「まあ、もしかして、誰かの家に行ったのかもしれないわ。それでは、一寸電話をかけてみましょうか。」

そういってスマートフォンを出し、親戚の家の番号をダイヤルして、

「あの、お宅に、お父さんが行ってない?」

と聞いてみた。ところが来ていないという。おかしいなと思って、又別の親戚の家に電話したが、そこにもいない。

「変ねエ、もしかしたら、具合が悪くなって病院にでも行ったのかしら。ちょっとかけてみるわ。」

それでは、と思って、地元のクリニックに電話をかけてみた。そこにも来ていないという。それでは、地元の麻雀クラブに電話してみたが、そこにもいない。ほかに行きそうな場所などどこにもなく、これはもしかしたら、どこか道路で倒れてしまったのだろうか。たしかにそうなってもおかしくない歳だ。

「ねえ、保さん!もしかしたら家出人捜索願でも出さないといけないかもしれない!どこにもいないのよ!お父さんが!」

華代が言う通りこれは大変なことかもしれなかった。

「こまったなあ。これでは、お客さんのご飯も作らなきゃいけないし。もう宿帳を書いてもらった以上ほかの宿へ行ってくれっていうことも出来ないだろう。俺はとりあえず、料理を作るから、お前は、一寸警察へ行ってきてくれ。」

保は、困った顔をして、そういうしかできなかった。入り婿ではなくて息子だったら、もうちょっと身内のことについて、真剣になると思うのだが、こういうことに対して、一寸他人事みたいになってしまうのでる。それを、華代はじれったくてしょうがない。でも、口に出して言ったら、夫婦関係も壊れてしまうので、それを言えないでいる。

「わかったわ、私行ってくる。」

華代は、華代で、こういう時に、男の保さんが、もうちょっとしっかりしていれば、もうちょっと事がうまくはこぶのではないかとじれったくなってしまう。こういうときに限って、家族というものはまるで役に立たないことが多いというのはそのことだ。

「じゃあ、もし、この時にお父さんが帰ってきたら、すぐに電話して頂戴ね。そして、二度と遠いところには行かないでねと、それをうんと強く叱っておいて。」

と言って華代は、気ぜわしく玄関の戸を開けて出ていってしまった。それではと保は夕食の材料を買いにクルマのあるところに行く。

二人が帰ってきたのは、もう夕食の時間もとうに過ぎた、夜遅くなってからの事であった。もう遅い時間なので、二人は、父親の靴が置いてあるかなんて確認することを忘れていた。さて、遅くなってしまったが夕食を作ってしまおうかと保が厨房へ向かって行ったその時。

「あの、先ほどはどうもありがとうございました。」

と、例の加藤さんが声をかけたのである。

「先ほど?なんのことでしょう?」

華代が、そういうと、加藤さんはにこやかに笑って、こう切り出した。

「決まっているじゃないですか。大輔の夕食の事です。急な申し出で、やっぱり無理だったのかなと思っていたんですが、ちゃんと夕食を出していただいて、おまけに鯛のおかしらつきまで出してくださって、大輔も大変喜んでおりました。肉を一切食せない哀れな子ですが、あんな大きな鯛まで出して下されば、もう大満足です。本当にお気遣いしてくださって、ありがとうございました。」

あれれ?鯛の尾頭付きなんて出した覚えはないのに。それにまだ夕ご飯はこれから作り始めようというところだったのに。それでは鯛を誰が料理したのだろう?

それに、鯛をどこで入手することができたのだろうか?其れも、不思議だった。魚屋は、ここから少なくとも、クルマで一時間以上走らないとないことは、華代も保もしっていた。

ふいに外で海の音がざぶーんという音がする。

「もしかして、、、。」

華代と保は顔を見合わせた。

「それでは、取ってきたのはお父さん?」

「そうだよ。其れしか考えられない。お父さんが、あの素潜り漁で鯛を取って来て料理して、食べさせたんだわ。」

自分たちには決してできないすごいことだった。

「あの、本当に、誰がどうのということは、僕たちは気にしませんが、うちの大輔が、満足出来る料理を作ってくださって、御礼だけはさせてください。過去には、料理が合わなくて、旅館の予約をキャンセルしなければならないこともあって、たいへんだった時もあったんです。そういう事から判断すると、今回は、本当に素晴らしかったです。」

お父さんは、そういって、あらためて頭を下げた。またチェックアウトの時に、お礼しますと言って、しずかにへやへ戻っていった。

「お父さんはいまどうしているかしら?」

華代は、保に聞いた。

「わからない。今きっと部屋にいるんじゃないのか。」

「とにかく行ってみましょう。」

二人は、すぐに権蔵じいさんが寝起きしている部屋に行った。もう爺さんであれば眠る時間であったから、もう眠っているのかなと思われた。部屋の前にスリッパが置いてあるから、間違いなく爺さんは部屋の中にいるのだろう。鯛を取ってきたことが嘘ではない証拠に、部屋のふすまの前に魚を取るたもと、大きな石が二つ、主人のそばに控える部下のように置かれていた。

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杉と海とじいさんと 増田朋美 @masubuchi4996

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