誘惑
水瓶と龍
第1話
突き刺すような陽射しだ。
蝉の声が辺りに鳴り響く。身体中にまで纏わり付いてくるようだ。
辺りに人気はなく、視線いっぱいに田んぼが広がり、稲が静かに踊っている。そして少し先に見えるわずかながらのブドウ畑が日陰を作り、太陽の呪縛からの解放を誘っているようだった。
ブドウ畑の隣に辛うじて立っているボロ屋も今ならまるで、武家屋敷の縁側のようにさえ見える。
俺は白いスニーカーからわずかに砂埃を立てながら、そのブドウ畑の日陰に吸い込まれるように入って行ってしまった。
そのブドウ畑はあまり丁寧に手入れをされている様子はなく、足元の雑草は俺のジーンズをかすかに汚し、鉄製のブドウ棚は所々に錆が付いていた。
直射日光から逃れられた俺の皮膚が、少しだけ暑さからの緊張が緩和される。
俺はいくつかぶら下がっているブドウの実を見つけ、その一つへと歩み寄った。
そのブドウはこの畑の様子からは期待はずれな位に、立派な実を付けていた。
俺は、その丸々とした美しい輝きを見せるそのブドウを、無意識に見つめていた。俺の身体中からは汗が吹き出している。
ほんの数秒か、数十秒か、数分か、自分でもよくわからないくらい、とにかくその緑の房の誘惑に見とれてしまっていた。
そんな時、そのブドウの象徴とも見える一番下になっているブドウの粒が、俺に囁きかけてきた。
“なぁ、食ってみろよ。この俺様を。
手なんか使わずに下品に卑しく俺様を見上げながら口を開けて、さぁ、一思いに俺様をお前の中に入れてみろよ。
なぁ、分かってんだろ?
俺は甘いぞ。お前の口の中で弾けてやるよ。それでなぁ、お前の口の中は俺様の果汁が飛び出してさぁ、そうだなぁ、ファンファーレでも鳴らしてやるよ。この俺様の甘味でお前はまるで天使から祝福を受けた様に何も考えられなくなるんだよ。
え?なんでか分かってんだろ?この俺様の美味さでお前はぶっ飛んじまうんだよ。
あ?お前は本当に鈍いやつだなぁ、どうでもいいから食ってみろよ。他人のモノだからとか他人の土地だからとかどうでもいい事だろうが。
この俺様を今、味わえるのは宇宙の果てまで探してもお前だけなんだよ。
そして、その美味さを出せるのもこの、今だけなんだよ。
お前は本当に本当にアホだなぁ。アホになりたくて生きてるのか?
お前は何も知らないこのクソ田舎にあてもなくこのクソ暑い中をわざわざ歩いてここまで来たんだろう?何だよその汗ビッショリの顔は。汚ねぇなぁ。Tシャツまで濡れてんじゃねぇかよ。
そんな思いまでしてさぁ、偶然にしろ何にしろこの俺様を見つけたんだろ?
それでお前はこの俺様を口に頬張るとどうなるか知ってるんだろ?
それなのにたかが他人の土地だからって理由で、見るだけで、それでまた汚い汗をかいて帰るのか?
お前は本当の馬鹿じゃないだろ?
いいよ、分かったよ、俺様が背中を押してやるよ。
あのなぁ、お前がこの俺様を口に頬張り、一噛みした瞬間から、この俺様の甘味がな、お前の口の奥底から口中に広がっていって、お前がそれに気づいた時にはもうその甘さがお前の中にまで侵食して、あっという間に俺様の甘さに支配されてしまうんだよ。
そしたらな、お前はもう一度、無意識に噛み砕くんだよ。この俺様を。
そしたらな、皮から実から甘い果汁がどんどん溢れ出てきてお前は何度も何度も噛み続けてしまうんだよ。それで気が付いた時には俺様はお前の喉を通り、そうするとどうなると思う?
次はお前の体がこの俺様の甘さに支配されてしまってな、喉から胃へそして体へと、この俺様の恩恵が通り抜けて行くんだ。
わかるか?通り抜けていってしまうんだよ。
そしたらお前は喉の渇きに気づくんだよ。このクソ暑い中汗びっしょりかいてなぁ、この俺様がお前の喉を一瞬だけ潤して行くんだよ。それでよぉ、お前はアホだからその潤いを感じた時にはもう、この俺様が口の中にはいない事に気がつくんだよ。
そしたら後はわかるよなぁ?
もうこの俺様はお前の中に入っちまってるから次にお前を潤してくれるモノを探すんだよ。
お前が呆然としちまうのは目に見えてる事なんだよ。当たり前の事なんだよ。
それからお前は渇望してるのに気がつくんだよ。この、俺様をな。
もっと甘味を感じていたいのに、もっと喉を潤したいのに、お前の中から段々と、この俺様の記憶が消えていっちまってるんだよ。そしたらお前はどうすると思う?分かってんだろ?このアホが。
お前はまた探すのさ。
自分を潤してくれるものを、あの甘美なファンファーレを。
それでな、お前はまた、目の前にあるこの俺様を見つめるんだよ。
おぅ、次は今よりもちったぁまともな面になってるかもしれねぇなぁ。
そしてまたお前は下品に卑しく見上げながら俺様を食っちまうんだよ。
なぁ、そうだろう?またあのファンファーレが聞きたいよなぁ?プレリュードが終わらねぇなぁ。
なぁ、早く食えよ。
この俺様を食らっちまえよ!“
まるで深海魚の醜い口から発せられた様なその囁きは、俺の思考回路のパズルにぴったりと張り付き、支配していった。
辛うじて残っている脳の別の回路がそのパズルの完成を邪魔している。
俺は曲げた肘から汗を垂らしながら、その甘美な誘惑と見つめ合っている。
誘惑 水瓶と龍 @fumiya27
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