22.手紙

結局裁判で、ジェイコは無罪となり、アブマンには詐欺罪が適応され、死刑が確定した。詐欺罪と言っても、かなり重い罪となった。司法取引にも応じず、反省の色はなかったため、本人の希望通り水牢の刑が執行されることになった。裁判中無表情だったアブマンだったが、その刑が言い渡された時は薄く笑みを浮かべたという。初めて見る者は、アブマンが刑の重さで狂って笑っていると思っただろう。しかし警察の関係者たちは、アブマンが心の底から喜んでいることを知っていた。何故よりにもよってアブマンが、極刑の中でも悲惨な水牢の刑に執着したのかは、警察関係者であっても分からずじまいだった。とにかく、この裁判は、見ていて決して気持ちいいものではなかった。

 ジェイコは学生寮で絵の製作中にそのことを知った。学長にいち早く伝えられたその情報に、ジェイコは膝を折った。自分が不起訴となり、アブマンの裁判中、彼の無罪を願って描き続けたジェイコだったが、それも無駄になった。ジェイコは自分のアトリエに戻って、自分の描いた絵を下書きの者から完成品まで、全てを壊した。それは小さな怪獣が突然目を覚ましてアトリエを襲撃したか、竜巻がアトリエ内におこったのか、と言うほどすさまじいものだった。板を折り、筆もハケも折ってはイーゼルの絵に投げつけ、イーゼルごと壁に投げつける。油も水も床にぶちまけ、最後に火を放とうとしたところで、同期の学生や先生たちに止められた。ジェイコは、その後、大学を「一身上の都合」ということで自主退学した。しかしこの退学には、一度でも警察に世話になった人間が、大学に居場所がないということを示す意味もあった。大学には、アブマンを良く言う者はいなくなり、やがて、アブマンがいたことさえ、無視されるようになった。あれだけ人脈を広く持っていたアブマンがそういった状況に置かれたことは、ジェイコにとってはさらに絶望の淵へと追いやられるのと同じくらいに衝撃的なことだった。

このことで失意のどん底に突き落とされたジェイコは、筆をとることがなくなってしまった。ジェイコが絵を描く意義は、いつの間にか変質していた。アブマンに必要とされたい。アブマンに褒めてもらったり、喜んでもらったりする絵が描きたい。単に絵を描くことが好きだった少年は、完全にアブマンに人生を乗っ取られていた。ジェイコは自分が幼い頃に抱いていた純粋な気持ちを、アブマンに利用されてもなお、アブマンを憎めなかった。

 

イネイはカフラーの死体を、マスハ郊外の河川敷で見つけた。死体の状態から、殺された後に、川に落ちたとみられる。その死体は幸せそうな笑みを浮かべていたが、その体には、心臓がなかった。死体に血が残らなかったことから、生前に大量の出血があったのだと察せられる。まるで生きているうちに、心臓を抜かれたといわんばかりの死体の状態だった。


「ラサルか」


カフラーの死体の様子をイネイから聞いたアスコラクは、苦々しげにその名をつぶやいた。イネイはアブマンが、倉庫で「カフラーにはよい占い師がついているようで、その占い通りに遂行して計画が破綻したことはありません」と言っていたことを思い出した。おそらくこの「占い師」というのがラサルだったのだろう。心臓のない死体と結びつくのはラサルしか思い浮かばなかった。ラサルとは、人間の心臓を好物とする悪食の白悪魔で、外見だけ見れば天使より天使らしく見える。おそらく、アブマンの手助けをする代わりに、担保として自分の心臓を当てていたのだろうと予想はついた。このカフラーの死体から買い手のリストを記した手帳が発見され、芋づる式に数人の買い手が逮捕された。皆が自分は贋作をつかまされた被害者だと主張する一方で、贋作だと知っていて大金を払っていた初老の男がいた。


「何故、贋作と知りながら? これは犯罪行為ですよ」


警察に問われた初老の男は涙を流しながらうなずいた。


「分かっております。しかし私は自分のわがままで、息子を捨てました。そしてこれもまた勝手に、自分の息子と同じくらいの絵の上手な子供を見つけ、何かしてやりたいと思い、画材と菓子を買ってやりました。そしてその子と似た絵の描き手に、どうにか資金援助をしてやりたいと思い、偽物と分かっていながら、手を出しました」

「だったら、個人的に学費援助をしてやればよかった」


警察はあきれた顔で言った。昔から、金銭的に余裕がある人物が、将来有望な学生に学費援助したり、家をアトリエやアパートとして貸し出したりすることは珍しくなかった。


「はい。しかし、どうして女に目がくらんで息子を捨てるような父親が、今さら息子の前に現れることができるでしょう? 一体どんな顔をして、息子に会えばいいのでしょう?」


洟をすすりながら泣く男に、警察もさすがに同情した。そこに、別の警察官が入って来て、男に向かい合った同僚に耳打ちし、折りたたまれた紙を手渡した。


「本当か?」

「はい。間違いありません」


警察官の表情がわずかに優しくなる。吉報をもたらした警察官はそそくさと退散した。警察官は泣く男に語りかける。


「聞け。お前が買っていた絵の作者は、無罪だった。そして、お前のことも、ちゃんと覚えていたそうだ。お前が刑を終えるまで、アンティークショップとパン屋を掛け持ちしながら働くそうだ。お前がせっかく絵の道を開くきっかけをくれたのに、絵の道を手放したことを悪く思っていると言って、これを渡すように頼まれた」


警察官が手渡したのは、ジェイコの手紙だった。きれいな文字で、『あの時のおじさんへ』と書いてあった。


『あの時のおじさんへ

 あの時以来ですね。僕はジェイコと言います。僕はあの時のことをずっと覚えていました。あの時、あなたが画材を買ってくれなかったら、今の僕はいなかったでしょう。僕はあの時のおじさんが、自分の父親かもしれないと警察の方から聞いて、とても驚いているし、嬉しく思います。この地から離れるつもりはありませんが、筆は置きます。僕の恩人が、僕の絵のせいで死罪となり、もう描くことはないと思ったからです。僕の絵は、人を不幸にしました。それは事実です。けれど、アブマンさんをけして悪く思わないで下さい。彼は僕の誇るべき先輩であり、絵の師であり、父であり、母であり、無二の親友でありました。おじさんと同じように、アブマンさんがいなければ、今の僕はありません。だから、僕にとっておじさんも、アブマン先輩も同じように大切な人です。おじさんが刑期を終えた時には、一緒にまたお話したいです。僕は父親に対しては恨みも憎しみも抱いたことはありません。だから、安心してください。あなたの本当の贖罪が済むまで、僕は待っています。それでは、再会までお元気で。

                                     ジェイコ』


 手紙を読み終えた男は絞り出すような声で手紙に礼を言った。男は全身を震わせてむせび泣いた。大粒の涙が幾度となく頬を伝い、鼻水を垂らした。顔をぐっしょりと濡らしたマルクは、おとなしく刑についた。




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