19.贋作

「証拠がなければ信じてもらえないと思ったんだ。サインは今なら残っているはずだ」


珍しくアスコラクがイネイを擁護したので、イネイは内心「雨でも降るんじゃないかしら」と、思った。


「今なら?」


警備員が訝しげに鸚鵡返しする。まるでサインが、消えてなくなってしまうかもしれないように聞こえたからだ。


「急ぎましょう。証拠が移動してしまう前に!」


アスコラクとシャクヤ、イネイは「時の女王」の前で立ち止まった。そこには相変わらず時の女王が鎮座していた。殺風景な背景を、まるで引き立て役にしたかのような、威圧感のある女性。波打つ黒髪に灰色の双眸。その瞳は来館者と同じ目線の高さに飾られているにもかかわらず、見に来たものを睥睨しているかのようだった。ポールもロープも貼られたままだし、ガラス版が絵を守っている。豪奢な金の額縁もそのままだ。動かされた形跡はない。


「何ともないじゃないか」


警備員が声を荒げるが、アスコラクは動じない。


「絵の裏に、買い手のサインがある。それは絵が本物だという証拠に買い手が自分でサインしたものだ」


仲間の要請で集まってきた警備員たちと学芸員は、ガラスケースを外し、すぐに絵を壁から慎重に持ち上げる。すると絵が壁から剥がされ、二人がかりでようやく床に置かれた。そしてカンテラの明かりを絵の裏側に寄せる。絵の裏側の右端に、明らかに書きなぐった文字があった。「マルク」と読めるサインだった。


「こ、これは!」


今まで緊張感を失っていた警備員たちは息をのみ、言葉を失った。絵の管理、修繕、保存を行ってきた学芸員たちは、本当の絵の価値が分かっている人ならこんなことはしない、と怒りをあらわにした。


「あった。確かにマルクと書いてある。貴重な絵になんてことを!」


この時は警備員ですら声を荒げた。「時の女王」はこの美術館にとって特別な絵だ。この絵だけを見るために、遠方から訪れる人々も多い。この絵はエルにとっての宝であり、この美術館の象徴でもある。それをこんな形で損なわれたのだ。そして、アスコラク達の報告がなければ、絵が本当に盗まれるまで気付かなかったのだ。イネイの言葉を信じなかった警備員たちは、自分たちの失態に居心地が悪そうな顔をしている。そして、学芸員たちはどうすればこのサインを消すことができるのか、途方に暮れていた。絵の修繕は難しく、時間もかかる。それまでこの美術館は「時の女王」抜きで開館しなければならない。来館者からの文句はもはや必死だ。


「その眼は節穴か? そのサインは本物の絵に書かれたものではない。二枚目の贋作の裏に書かれたものだ」


アスコラクが腕を組んだままそういうと、今まで深くうなずいていたイネイは、

「え、そうなの?」という顔をして、絵とアスコラクを二度見した。警備員と学芸員が半信半疑で確認する。すると確かに本物の絵の裏にもう一枚「時の女王」が張り付いている。ここの学芸員たちが有能であることは、最初にこの美術館に入った時に確認している。その学芸員たちですら、先入観と贋作の出来栄えに欺かれたのだ。


「何故、こんなことに。一体誰が?」

「贋作の絵師はジェイコという大学生。贋作を本物と信じ込ませるために、詐欺師と闇ブローカーが買い手にサインさせていたということだろう。おそらくジェイコは自分の作品が闇市場で売られていることを知らない」


もしも、本物の「時の女王」が盗まれたなら、大騒ぎになってすぐに足が付くことも考えられる。それに、本物一枚を売るよりも何枚もの贋作を本物だと信じ込ませて売った方が金になる。買い手には、美術館の本物を偽物だと言っておけば納得させられる。こうしてアブマンは多額の金を手にしていたのだ。あの柔和な女性的な笑みが思い出され、アスコラクは見かけによらず、アブマンは大胆なことをやっていると思った。もしもこのことが闇ブローカーや買い手に知られたならば、殺されてもおかしくない。ジェイコはともかく、アブマンは金銭に困っている様子はなかった。それなのに、どうしてこんな危ない橋を渡っているのか疑問が浮かんだ。知的なアブマンのことだ。よっぽどの理由がない限り、こんなことはしないはずだ。そう思う一方で、本物の裏に贋作を貼りつけ、何枚も売るという考えは常人には思い浮かばなかっただろうとも思った。


「ねえ、アスコラク。本物の絵は鑑定書が付いているはずよ。いくら似せても鑑定書の偽造は不可能じゃないかしら?」


シャクヤの言い分には皆が頷いた。鑑定書も絵も年代測定をしたらすぐに贋作だと分かってしまう。つまり、絵も鑑定書もフィラソフが生きていた大国期の物でなければならないのだ。アスコラクは小さく頷き、慎重に言葉を選んだ。


「そこでアンティークショップだ。大国期の板に大国期に使われていた顔料で絵を描けば、年代測定も通ってしまう。まあ、絵の方は自分で本物にサインしたという証拠があるから、買い手は疑う余地を持たないのだろう。そして鑑定書の紙も同様だ。アンティークショップの紙に当時と同じインクで書けばいい」

「あら、そうかしら。インクは年を経るごとに劣化していくものよ。いくら材料をそろえても、劣化具合まで再現するのは無理じゃないかしら?」


シャクヤは頭の回転が速い。特に自分が暮らしていた土地であり、時代の話となると、教育を受けなかったとは思えないことを口走る。本当に侮れない。しかしアスコラクはこの経年劣化についての裏付けも、既にとっていた。


「小麦粉だよ。小麦粉が付いた部分だけインクを邪魔して文字を劣化してみせるんだ。小麦粉は各家庭にあるし、パン屋のアブマンには容易い細工だよ。奴は考古美術が専門だしな」


美術館関係者はここにきてようやく事の重大さに気づいたらしく、慌てて関係機関に連絡を取り始めた。

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