18.サイン
イネイはカンバスとカンバスの間に隠れていた。蝶の大きさになっているため、誰にも気付かれずに隠れることが出来た。昨日同様、閉館のアナウンスが流れ、続々と人々が画材を片づけにやってくる。館内に人の気配がなくなったとき、一人の男が倉庫に入ってきて身をかがめた。イネイが男の顔をうかがうと、アスコラクやシャクヤが話していた男の特徴と一致した。それはアブマンだった。アブマンは人気のない館内に出て行き、しばらくするとまた倉庫に戻ってきた。警備員が館内を巡回するのをやり過ごした後も、アブマンは倉庫内にまだとどまっていた。誰かを待っているようだ、と考えたイネイの勘は的中した。アブマンの所に見たことがない男がやってきたのだ。白髪で鼻に特徴のある病弱そうな男だ。その白髪の男をアブマンは「マルク」と呼んでいた。アブマンとマルクは倉庫の中でしきりに指を立てながら、話し込んでいた。イネイが近づくと、その指の本数は何かの金額を示しており、アブマンとマルクは何かしらの商談をしていることが分かった。しかしこんなところでこんな時間に、何を売買するのだろう。イネイは蝶の姿であることをいいことに、さらに二人に近づく。
「あなたは好運の持ち主ですよ。あれが手に入る唯一の人なんですから」
アブマンの声には少しばかり毒を含んでいるようにイネイには聞こえた。少なくても、美術館を案内した時の知的な声ではない。まるでとろりとした蜂蜜の中に、無味無臭の毒を混ぜたような印象を受ける。その毒は蜂蜜とよくかくはんされて、もはや見た目も臭いも、味も分からない。しかしその毒はゆっくりと摂取した者の体にしみこんでいき、確実に害をなすのだろう。
「はい」
マルクは消え入りそうな声でそう言った。
「その代り、約束は厳守でお願いしますよ。でないと、僕たちは皆死刑になってしまいます。何と言っても、あれは国宝ですからね」
「もちろんです」
「国宝」と言う言葉に、イネイは瞠目した。この画材置き場の倉庫があるのは、エル国立美術館の二階だ。そして「時の女王」という国宝の、いちばん近い画材置き場でもあった。つまり、アブマンとマルクが取引しているのは、「時の女王」ということになる。何とも大胆なことだ。もしも「時の女王」が盗まれれば、マスハは大騒ぎになるだろう。マルクがそう答えた時、イネイが身を隠していたイーゼルが倒れ、大きな音を立てた。マルクとアブマンに緊張が走る。
「誰だ」
アブマンは鋭く、しかし小さな声で言った。イネイはこれ以上隠れている方が危険と判断し、ふわりふわりと倉庫内を飛んで見せた。
「何だ。蝶じゃないですか」
「しっ! 確かに少しですが人の気配がします」
アブマンは人差し指を鼻の上に乗せ、マルクをたしなめたが、倉庫内を調べた結果、本当にこの蝶一匹しかその場にいなかったことを確認し、緊張を緩めた。
「おかしいな」
アブマンはまだ疑っている。
「この蝶かもしれませんね」
マルクの冗談にアブマンがうなずくので、イネイは冷や汗をかいた。
「気味の悪い蝶だ。こんな色の蝶はマスハで見たことがない」
アブマンがそう言って払うので、イネイはおとなしく奥の方で翅を休めるふりをした。
「今の音、職員に聞かれたかもしれませんね。どうします? 次の機会を待ちますか?」
マルクはすっかり弱気だ。案外さっきの冗談は、自分を奮い立たせるためのものだったのかもしれない。
「いいえ。カフラーが指定してきた日は絶対に大丈夫です。カフラーにはよい占い師がついているようで、その占い通りに遂行して計画が破綻したことはありません」
そしてしばらくすると、また一人、男が倉庫に入って来た。今度はえらの張った小太りの男だ。この男は「カフラー」と呼ばれていた。警備員の動きをチェックしながら、アブマン達三人は倉庫から飛び出した。イネイも彼らと一緒に館内に出る。三人は「時の女王」の前で何かしていた。アブマンとカフラーが二人がかりで額縁を慎重に持ち上げ、マルクがペンで何か絵の裏に書き込んだ。その作業をすませると、三人は逃げるよう美術館からに去って行った。イネイは「時の女王」の裏板を覗き込む。するとそこにはマルクのサインが書き込まれていた。
イネイはすぐさまこのことをアスコラクに詳しく報告した。すると、アスコラクは「そう言うことか」と頷いた。
(大国期の板。模写の天才。小麦粉。サイン)
クランデーロとリョートの動向を探ろうとしていたが、思わぬ魚がかかった。もしかしたら、この魚は、クランデーロやリョートともつながっているのかもしれない。
「アブマンとジェイコの動きに注目だな」
アスコラクはそう言って宿を出て行った。そのアスコラクにシャクヤとイネイが続いた。イネイは蝶の大きさと人間の大きさを自分で自由に選ぶことができた。翅の出現と消失も自由自在だ。アスコラクは美術館に直行し、警備員にイネイが事の顛末を報告する。しかし警備員たちはイネイを逆に疑った。何故そんなに遅くまで美術館にいたのか。何故その時すぐに警備員を呼ばなかったのか。イネイとしては、自分の御手柄だったと思っていただけに、警備員たちからの言葉は納得いかなかった。そんなイネイを見かねたのか、アスコラクは落ち着いた様子でものを言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます