17.パン屋
その途中、昨日ジェイコが言っていた、アブマンが働くというパン屋に立ち寄った。まだ開店前だったが、中で仕込みをしている音が聞こえた。もう焼き始めているのか、煙突からは煙が上がり、辺りには香ばしい臭いも漂って来ていた。店主らしき男がアスコラクに気付いて笑顔で寄って来た。いかにもうまそうなパンを作っていそうなごつごつとした厚い手とふくよかな顔をしていた。
「もうすぐ焼けるから、もう少し待っててね」
店主はアスコラクを客と勘違いして、そう声をかけた。
「この中にアブマンという青年がいると聞いて来たんだが」
「ああ、いるよ。呼びましょうか」
アスコラクは「助かる」と顎を引く。
「少しだけ、話があるんだ」
そうアスコラクが言うや否や、店主は作業場に向かって「おーい」と大声でアブマンを呼んだ。粉だらけのアブマンは、意外そうな顔で現れた。昨日とは打って変わって白い上下の作業服を着ている。肩まで伸びた髪を後ろで束ね、焼き窯の煤で汚れたのだろうか、黒い汚れがついている。店先はきれいでも、パンを作る作業は思ったより過酷そうだ。
「よくここが分かりましたね」
「たまたま散歩中に美味しそうな匂いがしていたのでな。それでお前のことを思い出したんだ」
これはアスコラクの大嘘だった。アスコラクもその従者も、人間と同じ食事の必要はない。ただ、人間として仕事をする時には、形だけ食事をすることがあるというだけだ。人間と同じ姿であっても、アスコラク達には空腹もなければ、食事の満足感もない。だから、パンを焼く香が「美味しそう」とは、全く思っていなかったのだ。
「そうですか」
アブマンは相変わらず女性的な柔和な笑顔で対応する。腕まくりをして、手を真っ赤にして息をきらしても、まるで余裕があるような雰囲気をアブマンは醸し出す。
「アブマンの知り合いか?」
店主が会話に割って入ってくる。
「はい。昨日会った旅行者の方です」
アブマンはアスコラクのことを「観光客」ではなく、「(見学)旅行者」という差別的な語を用いた。アブマンが差別的な思想を持っているということではなく、相手によって使い分けているのだろう。そして、おそらく昨日の様子を見ていて、アスコラクがこの程度の言い回しで気分を害することはないと見抜いていたのだ。アブマンにはそうした底知れないものがあると、アスコラクは再認識した。
「お兄さんもかなりいけるくちだが、この看板野郎にはかなわないな。こいつ目当てで女の客が増えて、売上倍増。手先も器用だし、助かってるよ」
店主がアブマンと肩を組もうとしたが、アブマンはそれを身をよじって拒んだ。ジェイコとは肩が触れ合うほど近づいて歩いていたのに、アブマンにも好き嫌いはあるのだとアスコラクは思った。
「もう、店長、旅行者さんを困らせないで下さいよ。すみません、忙しいので中に戻りますね」
そう言ってアブマンはアスコラクに一礼して、奥の作業場に消えて行った。
「おい、アブマン。彼はお前に話しがあるそうだぞ」
「構わない。用は済んだ」
「はあ」
店長は気の抜けたような返事をして、店の中に入って行った。
アスコラクはできたてのパンを一斤買って宿に戻った。アスコラク一行は飲食だけでなく、睡眠も必要としない。だがアスコラクは、このパンに何故か惹かれるものを感じた。シャクヤと人間の姿に戻ったイネイはアスコラクからの土産を喜んで口にした。二人とも、こんなに柔らかいパンは初めてだという。イネイが生きていた時代にはもちろんのこと、シャクヤが生きていた時代にもパン屋はあったが、ここまでパンの製造技術が発達していることに二人とも驚いていた。
「どうしたらこんなに柔らかくなるのかしら」
「それに、噛めば噛むほど、甘く感じられませんか?」
「そうそう。チーズも何もいらないわね」
二人の様子を見ていたアスコラクは、パンの上部に白い粉がかかっていることに気が付いた。
「シャクヤ、これを作るときに使う粉をペン先にくっつけたらどうなる?」
アスコラクはパンを「これ」と言った。
「小麦粉のこと? そうね、そうなったら随分書きにくいんじゃないかしら。変なことを思い付くのね」
シャクヤはイネイと仲良くパンをほおばりながら言った。
(小麦粉、模写の天才、師弟関係)
何かつかめそうでつかめない。アスコラクは朝のマスハの街を見下ろしていた。クランデーロはついに帰らなかった。人間界、特にマスハに行くと聞いてから、クランデーロは積極的になった。おそらく、マスハに自分の師がいることを確信していたのだろう。だからここに着いてからすぐに単独行動に出ようとしていた。こちらの問題も何とかしなければならない。むしろこちらの問題の方が先決だ。クランデーロとイネイは仲がいい。それを失念していた自分が悪いが、言いつけを守らなかったイネイに非がある。従者のしりぬぐいなど、考えたくもない。ここは、イネイに名誉挽回の機会を与えてやろう。
「イネイ、今日も倉庫の見張りに付け。何かつかんだらすぐに私に報告しろ。いいな」
きつい物言いで、アスコラクはイネイに命じた。
「人使いが荒い割にはシャクヤさんびいきなんだから。分かったわよ。行って来ます」
イネイは蝶の姿となって窓から飛び出して行った。動植物は北の寒い地域に行くほど色褪せ、南の熱い地域ほど色鮮やかだ。ここマスハは広大なエルの中では南に位置するが、動植物はそれほど色彩が鮮やかではない。そんな中、薄紅色の翅は目立っていた。朝早いと言っても人通りはある。何人かの人々は、珍しい蝶の姿を目で追っていた。無論、その胴体が少女だということは考えもしないだろうが。
アスコラクは不本意ながら、フィラソフの作った鏡の中に捕らわれたことがある。奇襲を受け、月光に照らされた瞬間には、白いアスコラクだけ鏡の中にあった。鏡だらけの空間で、迷路の様な空間が広がっていた。もちろん、いつも冷静沈着なアスコラクは、その時も狼狽したり、焦ったりしなかった。現実につながる鏡を見つけ、その時には鏡を破壊することで、外の現実世界に出ることが出来た。ともかく、本人に出ようとする意思がないと絵も鏡も出て来ることが困難だろう。イネイの報告ではクランデーロは自ら絵の中に入って行ったという。つまり、アスコラクの時とは違い、自分の意志で絵の中にとどまることを決めたのだ。そして気になるのは、「時の女王」ことリョートの存在だ。今回の首狩りの対象はこのリョートだ。リョートは絵の中とはいえ、三〇〇〇年を生きながらえている。クランデーロもそうだった。リョートの術と、クランデーロの術は似ているのだ。二人ともフィラソフの鏡の原理を応用し、リョートは寿命をとどめているが、絵の中でしか生きられない。一方クランデーロは老いる代わりに、寿命を延ばしていた。再び師に出会い、それについて行ったことをアスコラクに対する反逆というのは容易いが、クランデーロにも何か考えがあったとも思える。とにかく今はイネイの報告を待つことだ。
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