16.個性

息を長く吐き出して、ジェイコが筆を投げ出した時、アトリエのドアをノックする音が聞こえた。朝早くから誰だろう、とドア穴をのぞくと、長い銀髪に青い瞳の男が立っていた。ジェイコと同じ制服を着ている。ジェイコは細くドアを開けた。


「貴方は、昨日の」

「これを返しに来た。礼を言う。それと、アトリエというのも、見せてほしかったんだ」


アスコラクは制服を脱いできれいにたたみ、ジェイコに差し出した。その制服は確かにジェイコの作業着だったが、絵具のシミなどはきれいになくなっていた。取れかけていたボタンもしっかりと縫い付けてあった。


「これは、もしかして、洗濯屋に出してくれたんですか?」

「借りたものはそうやって返すのが筋だとシャクヤが言うので、そうしただけだ」


実はシャクヤとイネイにかなりしつこく言われたのだが、話がややこしくなるのでイネイの方は割愛した。


「お金、かかりましたよね。すみません。言い忘れていたのですが、これは去年卒業した先輩の制服を譲り受けたものだったんです。だから、もともと汚いもので、これからも汚れてしまうものだったのに、本当にすみません」


ジェイコはそれを受け取りながら、困惑の表情を浮かべた。本来なら洗濯代を払うべきだということは、ジェイコにも分かっていたが、そうするお金をジェイコは持ち合わせていなかった。お金の代わりにアトリエを見せるということも、二つ返事で了承できない理由があった。


「それからアトリエを見せるのは、アブマンさんに禁止されているんです」

「何故だ? どうせ売り物として外に出すものだろう?」

「それが問題なんです。本当は大学の許可がないと、絵を売買してはならないという校則があるんです」

「なら、他言はしない。少し、ジェイコの絵を見せてもらいたい」

「本当ですか? アブマンさんにも黙ってて下さいよ」

「分かった」


ジェイコはしぶしぶといった様子で、アスコラクをアトリエに招き入れた。ジェイコの絵は見るからに古めかしく、静かだった。そして何より、作風がフィラソフに似ていた。ジェイコは模写、写実画に関してはとっくに学生の域を超えていた。


「うまいな」


アスコラクは正直に感想を述べた。アスコラクが何かを評価することは少ない。そんなアスコラクでさえ、一目で絵の完成度の高さを理解できた。


「でも、駄目なんです。個性や表現力に欠けると、先生方からは酷評されます」


ジェイコはそう言って肩を落とした。大学の講義では「表現は新しい個性に宿る」と、耳にタコができるほど聞いていた。過去の偉大な芸術家がやったことのない技法の発見が求められ、他者との圧倒的な差異こそが、芸術を芸術たらしめると。そしてその講義でジェイコはやりだまにあげられ、皆の前で大恥をさらすことになった。教授がジェイコを立たせ、「猿真似はいくら上手に描いても猿まねでしかない」と言ったのだ。そのときジェイコは顔から火が出る思いだった。


「模写の腕はこんなにあるんだ。本物と見分けがつかない」


アスコラクの言う通りだった。もはやジェイコの絵は、模写ではなく複写である。目が良いのかジェイコの絵は細部までフィラソフの絵と合致していたし、色合いも絶妙に合っていた。これでは専門家であっても、本物とジェイコの絵を並べたら見分けがつかないだろう。


「はい、アブマンさんも先生方もそこを評価してくれますが、自己のアイディア、それを表現する力を身につけないと単位が溜まらず、留年してしまいます」

「なるほどな。絵師になれるのは、ほんの一握りの人間だけか。これほどの腕があるのにもったいない」


そう言ってアスコラクはジェイコの模写の右下を見た。そこには作者の名前を表わす文字や記号が入るはずだが、ジェイコの絵にはどれにもサインらしきものはなかった。


「何故お前は絵にサインを入れない?」


ジェイコは痛いところを二度も突かれて、むっとした顔になる。


「さっきも言ったじゃないですか。大学の許可なく自分の絵を売ってはいけないって。僕の名前入りの絵が巷に出回っていたら、僕はそれこそ退学ですよ。アブマンさんはそこにまで気をまわしてくれて、僕にサインをしないように忠告してくれたんです」

「なるほど。アブマンは絵に自由にサインを書いて売りさばけるというわけか」


これだけの技術があるのだ。アブマンから見れば、利用しない手はないだろう。もしかしたらアブマンはジェイコの絵に、フィラソフのサインを入れて売り歩いているのかもしれない。しかし、フィラソフの本物はエル国立美術館にある。考えすぎだろうか。


「だったら、何だって言うんですか」


もはやジェイコはケンカ腰だった。自分のことならともかく、アブマンに不利なことを言う相手を、ジェイコは許せないという様子だった。


「いや、何でもない」

「もう、いいでしょう。帰って下さい」

「もう一つ、確認がある」

「今度は何ですか」

「お前は。そうだな?」

「そうですけど、それが何か。模造品で一番お金になるものを描くのは当たり前だと思いますけど、何か」

「いや、何でもない」


アスコラクは再度礼を言ってジェイコのアトリエを後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る