15.画才

 ジェイコの記憶は貧しい孤児院から始まる。ジェイコは生まれてすぐに、孤児院の門の前に捨てられていたのだ。置き去りにされたのが夏だったから良かったものの、冬だったら確実に凍死していた。食べ物が十分ではなく、いつも体の大きい子が小さい子の食べ物を取り上げているような状況だった。そんな殺伐とした日々の中で、ジェイコが心ひかれたのは町で出会った絵描きたちであった。マスハは芸術の都。無名だが腕のいい絵の描き手はたくさんいた。そんな人々は朝から自分の場所取りをして、大体は決まっている自分の場所に簡易椅子とイーゼルを立てて、観光客の似顔絵を即興で描いたりマスハの風景画などを描いたりして生活費を稼いでいた。ジェイコは孤児院が門を開いてから閉ざすまで、一日中絵描きたちに混じって絵を描くまねごとをしていた。そんな中、ジェイコが川岸の石で地面に絵を描いていると、突然後ろから声がかかった。


「これは君が描いたのかね?」


幸薄そうな男が一人、立っていた。若いのに生命力が感じられない男だった。ただ、鼻の形や頬のそばかすが自分に似ていると思った幼いジェイコは、男に親近感を持った。男は名乗りもせずに、幼かったジェイコに食べ物を与え、黒炭棒と安い紙を買ってくれた。知らない人から何の理由もなく物を貰ったのだから、本来警戒すべきだったのだろうが、当時のジェイコはただ単に欲しかったものが手に入って嬉しかったのだ。男もジェイコが喜ぶ姿を見て、幸せそうに笑っていた。だからジェイコはこの人が自分の父親ではないかと思ったのだが、もし違っていたら気分を害すかもしれないと考え、何も言わずに男と別れてしまった。男とはそれ以来会っていない。ともあれジェイコは様々なものを観察し、少しずつ描いていった。植物から建物、時には人物画も描いた。そんな中でもジェイコが得意だったのが、風景画や静物画であった。ただ、何故かジェイコの絵はその生い立ちを示すかのように、どこかもの悲しさが漂っていた。ジェイコのことはすぐに評判になった。

 孤児院は十五歳までしかいられないという規則になっている。マスハでは十二歳から働くことが許されている。そのためジェイコは三年で自立のためのお金や人脈を用意することを迫られた。ジェイコはその資金を自分の絵を売ることでまかなった。絵の才能は孤児院でも認められ、特別にジェイコはエル国立美術館に連れて行ってもらうことさえあった。その時、ジェイコは少年と言われるまで成長していた。

そこで出会ったのが『時の女王 カーミュ・デ・コーメニ』をはじめとするフィラソフの絵画だった。一目見て、自分の絵がフィラソフの絵と似ていると思った。それは運命と思えるほどだった。しかしだからこそ、ジェイコは『時の女王』はフィラソフの絵ではないと思った。フィラソフの作品は一貫して物寂しいのに対して、『時の女王』は鮮烈過ぎたのだ。だが、当時は美術に対する知識もなく、大人たち、とくに学者なる偉い人々がそういうのであれば、『時の女王』もフィラソフのものなのだろうと納得した。

 フィラソフは孤児院を出て三年間独学で絵の勉強をして、エル国立美術大学を受けた。結果はもちろん合格で、寮に入ることも決まり、ジェイコは最下層から自力で国立最難関の美術大学の学生となったのだ。ジェイコは孤児院出身のため、奨学金を得ようとしたが、ジェイコの成績が芳しくなかったため、出願できる奨学金はなかった。奨学金には様々なものがあった。利子のあるものとないもの。さらには、返納義務があるものとないもの。しかしそれらは皆、学年の平均点を大きく超えることが申し込みの条件になっていた。実技の「模写」以外でいい成績をとれなかったジェイコは平均点をどうしても越えることができなかったのである。

孤児院時代に稼いだお金は、独学していたころにほぼ使い切ってしまい、ジェイコは途方に暮れた。せっかく大学に合格したのに、入学料と授業料が払えなければ、退学になってしまう。入館料がただになった美術館に、ジェイコは足しげく通い、さらに絵の世界に没頭していく。その一方で、重労働して必死に学費を稼いだ。

アブマンと出会ったのもその美術館で、『カーミュ・デ・コーメニ』を模写している時だった。


「これ、君が描いたの?」


聞き覚えのある言い回しに、思わず筆を止めた。いつの間にか自分の後ろに立っていたのは、女性のような顔立ちをした青年だった。同じ制服だがボタンの色が違っていたから、すぐに同じ大学の違う科の学生だと分かった。彼はアブマンと名乗った。


「才能あるよ。そうだ。良かったらアトリエを見せてくれないか。君の絵がもっと見たい」


自分が今までいたところには無縁だった品の良さと柔らかな人柄に、ジェイコは陶酔した。しかもアブマンのために様々なことを教えてくれ、ここまでいい人なんているのかと、ジェイコは疑ってしまったほどだった。アブマンは『時の女王』の熱心な信奉者だった。そんなこともあって、ジェイコはいつしか『時の女王』がフィラソフの絵ではないという考えを知らず知らずのうちに捨てていた。それほどまでにアブマンの存在は大きかった。そしてアブマンのことを知るうちに、ジェイコはアブマンの経歴に圧倒されてしまった。アブマンは有名で格式高い家々からパトロンになってもらっており、学年最優秀生徒賞にも選ばれているほどの逸材だったのだ。この賞は約一万人いる学生から毎年たった一人しか選ばれない。ジェイコはそんな雲の上にいるような人が、自分と親しくしてくれることに喜びを感じていた。もちろんアブマンの交友関係は広く、ジェイコはアブマンにとって自分を尊敬してくれる後輩の一人にすぎないのだろうが、それでもジェイコの気持ちは変わらなかった。

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