14.才能
そこにいたのは間違いなく天使のアスコラクだった。長い銀髪に青い瞳。凛とした佇まい。そこからにじみ出る清廉潔白な雰囲気。しかしその姿は男性だった。しかも普段は着ないであろう黒い上下を着ている。
「アスコラク⁉ 何で? どうしちゃったの?」
アスコラクはイネイの質問を無視して話を続けた。その声も男の声だった。
「奴がどうした?」
ため息交じりにアスコラクが問うが、イネイは警戒してにらみつけるだけだ。そんな光景を見ていたシャクヤはソファーの上から小さく声を立てて笑った。シャクヤがうつぶせになると胸の谷間が見えたが、目のやり場に困ることはなく、皆淡々と会話をする。初めはイネイでさえ目のやり場に困ったが、今はもう慣れてしまった。
「大丈夫よ。その人は本当にアスコラクだから。アスコラクはね、女にも男にもなれるのよ」
「え、ああ、そう、なの?」
シャクヤが言うからにはそうなのだろう。しかし朝は女だった人が用事を済ませて帰ってみると男になっていた、などということは何の冗談にもならない。
「報告しろ」
アスコラクが高圧的にイネイに言う。その言い方と他人遣いの荒さで本当にアスコラクなのだとイネイはようやく理解する。
「クランデーロさんが絵の中の女の人と一緒に、絵の中に消えちゃったのよ!」
イネイは見たままを報告した。
「何を言っているか分からない。初めから報告しろ」
イネイはクランデーロの言動を詳しくアスコラクに話した。そのイネイの声に、シャクヤも立ち上がる。そしてシャクヤは「まずいわね」ともらした。
「何がまずいの?」
イネイは小首を傾げる。そしてシャクヤも感嘆詞と共に、小首を傾げる。イネイは使い魔であり、白いアスコラクからは毛嫌いされている。しかし白いアスコラクの従者であるシャクヤは違った。まるでイネイを妹か女友達のように接している。そして双方がそれで納得している。初めこそシャクヤに注意していたアスコラクも、諦めてしまったほど、イネイとシャクヤの仲は良好だ。
「あら、忘れてしまったの? クランデーロは西の蛇と呼ばれるほどの天才よ。その師弟関係が復活したとなると、かなりの手ごわいわ。でも、あなたにとっては想定内かしら?」
アスコラクは、黙って頷いた。しかもリョートはフィラソフの技術までも自分のものにしている。「西の蛇」と「時の女王」が手を組んだとなれば、アスコラクはこの最強の師弟が不死を手に入れる前にリョートの首を狩る必要があった。しかし、その相手は絵の中だ。
「それでお前はこんなことになるまで何をしていた?」
アスコラクが相変わらず冷たく硬い声でイネイに問う。その瞳はイネイを睨みつけているように見えるが、それはイネイの被害妄想だった。アスコラクが感情を表に出すことは滅多にないからだ。
「それは、その、クランデーロさんを追いかけようとしたんだけど、できなくて……」
「結局何もしなかったのと同じということか」
わざと大きく、アスコラクは嘆息する。まるで、イネイの無能さを知らしめるようだった。
「……はい」
イネイも今回ばかりは、何も言い返せなかった。クランデーロのお目付け役を指示されながら、その役割を全く果たせなかったのだ。後ろめたさから、妙な汗をかくほどだ。
「次からは来なくていいぞ」
アスコラクは首狩りの対象者がいる場所に、天から遣わされる。その時、随行する従者をアスコラが選んでいた。アスコラクから首を狩られるのは、通常の生き方から逸脱した人間だ。よって、その死後も通常とは異なる。首を狩られた者は、アスコラクの従者として、魂がある限り働かなければならない。イネイはアスコラクから首を狩られた人間ではないが、悪魔のアスコラクを恋い慕い、ずっとアスコラクに付きまとっている。その想いは強く、使い魔となることさえいとわなかった。
「それは嫌! だって、いつアスになるのか分からないじゃない」
悪魔のアスコラクは、天使のアスコラクの感情が異常に高まった時に現れる。イネイはその時を待ちわびているのだ。
「では、働くことだな」
白いアスコラクは、鼻を鳴らした。
「分かってます!」
イネイは頬を膨らませて大声で答えた。
◆ ◆ ◆
ジェイコはカンバスに向かって筆を走らせていた。カンバスと言っても件のアンティークショップから貰ってきた家具の板だ。アンティーク家具の中でもマスハで人気なのが、二大大国期のものである。よって、約三千年前の物を復元したり、それと同様な材料と作りかたで再現したりしなければならない。しかも、生活様式は年代によって変化している。三千年前に屋敷で使われていたような大きくて重厚な物は、今の人々の家には不釣り合いであったし、悪趣味に見えた。そうした理由で、ジェイコの通うアンティークショップではサイズ違いの物も制作していた。店主曰く、小さいサイズの物の方が、値段も手ごろになっているので売れ行きがいいという。ジェイコはそんな中で出てきた規格外の物や、いらなくなった木の板を大学に入る前から譲り受けていたのである。
その板に下地を塗って、黒炭棒で下書きをする。指先でつまむように黒炭棒を持ち、力を入れずに下地の上に輪郭を描いて行く。新しい黒炭棒の横には、十数年前に見ず知らずの男性から買ってもらった短い黒炭棒が大事にしまってあった。もう棒ではなく、ただの墨の塊にしか見えなくなってしまった。それでもこれを捨てる気にはジェイコはどうしてもなれなかった。
昔は今のように革張りのカンバスではなく、壁や板に直接描いていたのだから、ジェイコの様式は古い年代の者とよく似ていた。アブマンはそれがジェイコの持ち味だと言ってくれる。フィラソフの作品群の模写を提案してきたのもアブマンだった。実際描いてみると、ジェイコの模写は高値がついたという。両親に捨てられ、孤児院で育ったジェイコにとってアブマンは父であり、母であった。アブマンに認められたい一心で、絵も上達してきた。しかしその一方で、早く有名になり、本物の両親に認められたいという願望も持ち続けていた。ジェイコはアブマンとの出会いを思い出す。
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