13.師弟
イネイは身震いした。使い魔のイネイが幽霊を恐れる姿は滑稽だったが、クランデーロはそれに言葉を返す余裕がなかった。クランデーロが若かりし時に、唯一敬愛した女性。誰もが彼女の持つ圧倒的な覇気に魅了された。クランデーロもその中の一人だった。それが東の大国から亡命してきた女性・リョートだった。リョートは東の大国同様、フェルズの称号をほしいままにした。だが、彼女の研究が法に触れるものだとした司教庁によって、処刑されたことになっている。リョートの弟子であったクランデーロだけが彼女の最期を知っている。しかしそれから三〇〇〇年がたち、師は行方不明になった。きっとどこかで偉大なる師は生きていると、クランデーロは信じて疑わなかった。首狩りと言う残酷な形ではあるが、三〇〇〇年の時を超えて、師弟は再会を果たそうとしている。
やがて、美術館職員が閉館を知らせに回った。倉庫には続々とカンバスや三脚が運び込まれた。クランデーロはさらに身を小さくしてそれをやり過ごした。もともと目立格好はしていなかったから、目を凝らして探そうとしない限り、クランデーロを見つけるのは難しいだろう。そう、クランデーロは踏んでいた。クランデーロはまだ乾ききっていない油彩の臭いが充満する部屋で、膝を抱え、頭を下げ、これ以上小さくなれないというほど体を丸めた。天井の高さはイーゼルが入るくらいで、照明はない。人々が画材を出し入れするときだけ、光が倉庫内に差し込み、埃をちらちらと輝かせた。絵具が入った木箱がむっとする臭いを放っていた。クランデーロは読み通り誰にも見つかることはなかったが、閉館時間までの短い時間が、長く感じられた。
しばらくすると、館内から人の気配が消えた。
「イネイ、ちょっと手を貸してくれないか?」
「本当は駄目なんでしょうけど、いいわ」
またアスコラクに怒られるな、と思いながらイネイは快諾した。アスコラクには内緒、と言うように、人差し指を鼻の先にくっつけて、悪戯に笑う。
「館内の様子を見てくればいいんでしょう?」
先ほどの館内放送で、来館者はこの美術館を出て行っただろう。しかし中には絵のきりの良いところまで粘っている人も中にはいるかもしれない。それに、来館者が出払ったタイミングで、美術館職員が見回りに来るだろう。そして、夜になれば警備員が巡回に来る。クランデーロは、誰もいない所で、再びあの絵と対面する必要があった。
「ああ、助かる」
イネイはアスコラクに恋をしている。それも天使の方ではなく、悪魔の青年であるアスコラクに、である。親しみを込めて悪魔のアスコラクだけ「アス」と呼ぶほどだ。その思いはイネイが生前、人間として生きていた時から変わらない。イネイは生前、一人の平凡な少女だったが、町に伝わる「雨篭り」の禁を両親を助けるためにおかして、村八分にあった。そこをイネイに拾われる格好となったアスが、助けたのである。その結果、イネイとアスはお互いのことを思って離れ離れになった。一度アスと離れ離れになったイネイはクランデーロの手によってアスと再会できたという恩を感じている。アスコラクはクランデーロを無下に扱うが、イネイにとっては恩人であり、腕のいい薬屋なのだ。イネイは倉庫のドアをそっと押し開けると、「時の女王」の周りを見回した。辺りに誰もおらず、あれだけ活気に満ちていた建物がしんと静まり返っている。今まで見ていた絵が、逆にこちらを見返しているようで不気味だった。薄暗い空間は幽霊たちの独壇場に見えた。昼間はクランデーロについて歩くだけでよく観察できなかったが、この美術館自体が美術品であるかのようにイネイには思えた。それはまるで教会や聖堂にあるような細かな彫刻の数々が、石の都・カーメニ出身のイネイでさえうなるほどの出来栄えだったからだ。しかしそんな彫刻も細かければ細かいほど、月明りの下では不気味に見えた。彫像たちは昼間にははっきりとした輪郭を保っていたが、夜にはその輪郭がぼやけ、建物自体が融解していくように感じられた。その印象は恐怖でしかなかった。イネイは文字通り飛んでクランデーロのもとに引き返した。
「もう大丈夫みたい。誰もいなかったし、警備員の気配もなかったわ」
おそらく昼まで勤めていた警備員と夜勤の警備員が交代するにあたって、引き継ぎをしているのだろう。このわずかな間だけ、この美術館は無人になるのだ。急がねばならない、とクランデーロは老いた体に鞭を打ち、立ち上がった。今まで曲げられていた関節が悲鳴をあげたが、クランデーロはそれを無視して身をかがめながら出入り口に近づいていく。好都合なことに、倉庫に鍵はなかった。ここで許されているのは、美術館内の模写だけだ。本物に価値があるのであって、無名のただの横好きが描いた絵には、何の価値もない。
「そうか。ありがとうよ」
そう言ってクランデーロは倉庫から這い出して、「時の女王」と向かい合った。イネ
イは遠くからその様子を見守っていた。クランデーロの足音だけが大きく響いていた。立ち入り禁止のロープを超えたクランデーロは、「時の女王」の前にひざまづいた。そして胸に右手を当てて、頭を垂れた。
「我が師よ。どれほどこの時を待ちわびたことでしょう。敬愛なる我が師よ、どうかこのクランデーロの前に今一度足をお運びいただければ幸いです」
すると、信じられないことがおこった。絵がクランデーロに語りかけてきたのだ。しかも、その言葉に応じて、絵が動いている。イネイは、幽霊よりも恐ろしい物を見た気がした。
「老いたな、クランデーロ」
威厳のある声が、まるで雷のように響いた。絵に描かれたはずの女性の口が、確かに動いていた。クランデーロはその声に、全身が粟立ち、震えているのを感じだ。「時の女王」は、絵からするりと抜けだし、クランデーロの前に降り立った。それは絵の中に描かれていた女性そのものだった。真紅のドレスに身を包み、金のバンダナには大ぶりのバラの髪飾りがついていた。帯のような物は緑色をしている。その姿は、棘を持つ大輪の薔薇を彷彿とさせた。クランデーロは目を潤ませながら頬は上気し、美しいままの師を見上げて微笑していた。
「はい、老いました。しかし貴女は若く美しいまま。そしてその覇気すら衰えることをしらない」
「それは嫌みか、クランデーロ。お前は老いたが今まで生きてきたのだろう。しかし私は現世にはない。このフィラソフの絵でのみ、生きられる。しかも現生の者の魂の時間を少しずつ貰いながらでなければ、この身を保つことすらままならない」
リョートの言葉の端々から、悔しさが滲んでいた。それでもリョートの存在感は圧倒的だった。それはイネイが思わず後ずさりして、身を隠してしまったほどだ。リョートはクランデーロに向かって手を伸ばした。
「私と共に来い、クランデーロ。お前の不死の技と、私の不死の技が合わされば、人間の完全な不死も夢ではないぞ」
クランデーロは何の躊躇いもなく、リョートの手を取った。そして師弟は絵の中へと消えた。それは満月が光り輝く深い夜の出来事だった。
「クランデーロさん!」
イネイは慌ててクランデーロを引き留めようとして、思い切り絵を保護していたガラスに体当たりしてしまった。
「クランデーロさん、クランデーロさん!」
何度呼びかけても返事はない。ガラスを両手で叩いてもびくともしなかった。ただ美しくも冷たいまなざしで、シャクヤに似た女性が見つめているばかりだ。イネイは一人、美術館に取り残された。警備員だろうか。複数の人間の声が聞こえ、カンテラの光が遠くで揺れて人影を作り出すのが目に入った。蝶の姿のイネイは天井の高さまで飛んで、美術館を後にした。
クランデーロが寝返った。
その事実を伝えるためにイネイはマスハの街を飛んだ。安い借り宿に着いたのは、夜更けのことだった。二階の窓からアスコラクの姿が見えた。
「大変、大変よ。って、アスコラク?」
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