12.裏切者

 アスコラクから離れて行動するクランデーロの後を、イネイは必死に追いかける。老いたクランデーロの歩みは決して速くないが、転びそうになるくらい必死にクランデーロは足を運んだ。猫背のため、「肩で息をしている」と言うよりも、「背中で息をしている」と言った方が的確な息切れの仕方だった。それでもクランデーロは、エル国立美術館に一直線だ。クランデーロが珍しくアスコラクに同行を願い出たのは、マスハに行くと聞いたからだ。また、「フェルズ」という名前にもクランデーロは反応していた。おそらくクランデーロが単独行動に走ったのは、フェルズがマスハにあるからなのだろう。しかしイネイはそこまで頭が回らない。イネイにとって、この東の巨大な国ですら初めての場所なのだ。二大大国期を知らない世代に生まれたイネイは、生前も東の国に興味を持たなかった。それはイネイが特別なのではなく、西の人々はおおむねそのような態度を取った。所詮東は自分たちに及ばなかった国、という印象しかない。狭いカーメニに狭い見識。しかし恵まれた時代の子供であったイネイにとっては、それが当たり前だったのだ。今回も、東の国・エルのマスハに行くと言われても、イネイはどこなのかさっぱり分からなかった。だが、黒いアスコラクに会える機会を逃すわけにもいかず、こうして迷子にならないように必死にクランデーロについて行くのだ。しかしクランデーロも西の出身だった。それなのに、このマスハを熟知しているように足を運ぶ。それをイネイは不審に思ったが、博識のクランデーロならば東にも詳しいのだろうと、頭の中で片付けた。


「少しゆっくり歩きましょうよ、クランデーロさん!」


薄紅色の蝶が言葉を発したが、正確には羽を背負った少女だ。虫ほどの大きさしかない少女の背中から二対の翅が生えているのだ。一見妖精のような風貌をしているが、悪魔のアスコラクに仕える使い魔だ。


「これがゆっくりしていられようか。あの御方がこのマスハにいまだにいらっしゃるのだから」


クランデーロは入場料を無視して美術館に足を踏み入れた。


「ちょっと、駄目だよ。お爺ちゃん」


入場券売り場の若者が、クランデーロの前に立ちはだかった。


「邪魔するな。金か? 金ならいくらでも払ってやる」


クランデーロは若者に金の入った麻袋を投げつけ、押しのけた。あまりの乱暴さに若者がよろけるけ、なじる言葉を発したが、クランデーロはこれを無視した。


「クランデーロさん、落ち着いて」


イネイの制止も聞かず、クランデーロは足を引きずるようにして館内を歩き回った。血走った目を見開き、首を揺らし、壁を舐めるように見て回る。一階にないと分かると、すぐさま手すりにかじりつくようにして階段を上りはじめる。汗が滲み、息を切らしながら、人ごみを掻き分ける。そんなクランデーロを、来館者たちは迷惑そうに見ていた。そしてついに、クランデーロは「時の女王」の前にやってきた。殺風景な背景に、豪華なドレスと手袋の女性が描かれている。女性は窓から身を乗り出そうとしているように、手袋をはめた両手を組んでいた。黒髪に灰色の瞳。イネイでさえ、これがシャクヤの姉であるリョートだと分かったほどだ。姉妹と言うより双子のように、二人は似ている。確かにここまで似ていれば、二人が入れ替わったとしても気付く者はないだろう。しかしシャクヤにある妖艶さが、全くこの絵のリョートからは感じられない。感じるのは、厳しさだった。己に妥協を許さず、ひたすらに高みを目指す、意志の強さがにじみ出ていた。圧倒され、怖いとさえ思うのに、引き付けられる。イネイは何故この絵が人々を引き付けてやまないのかが、分かった気がした。


「おお、これはまさしく……」


クランデーロは涙をたたえた眼差しで絵に近づく。進入禁止のロープが、いや、「時の女王」の眼差しが、クランデーロの接近を拒んでいた。今はまだ、その時ではない、と。絵の両脇には警備員がいて、明らかにクランデーロを警戒していた。それに気が付いたクランデーロは、辺りを見回し始めた。そして人々が画材道具を出し入れしている倉庫に目を付けた。クランデーロは一度頷き、その倉庫に入って行った。倉庫は立派な美術館とは程遠い作りだった。もともと、人が入ることなどは考慮されていない造りだから仕方ないことだが、コンクリートで四角に空間を切り取ったような場所に、さすがのクランデーロも辟易した。唯一救いだったのは、絵のための空調設備が機能していたことだろう。油絵具は乾燥に時間がかかるため、油絵の独特の臭いが鼻をつく。だからと言って、乾かないうちに次の色を乗せると、色がカンバスの上で混じり合ってしまう。中の棚には、描きかけのカンバスや道具箱がぎっしりと詰め込まれていた。そしてイーゼルも、壁に寄り掛かるようにして並んでいた。クランデーロは体の大きさが選べるイネイをうらやましそうな目で見つめながら、奥へ奥へと体をねじ込ませていった。そして奥まったわずかなスペースにクランデーロはうずくまった。イネイはアスコラクの時同様、クランデーロの耳の裏に隠れた。


「ここで何をしているの?」


イネイは何となく声をひそめた。


「ただ、待つだけだよ」


クランデーロは声を小さくして答えた。


「待つって、何を?」

「夜だよ。幽霊騒動は夜に起きていたんだろう? だからその幽霊に会うために夜を待つんだ。それにな、イネイ。幽霊騒動はただ夜に起きていたわけではないんだろうよ。月の輝く満月の夜だったはずだ」

「ゆ、幽霊?」

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