11.宿

 アスコラクはシャクヤのために珍しく宿をとっていた。アスコラクたちは人の記憶に残らず、宿帳に書いた名前すら消えてしまう。アスコラクは美術館に近い宿をとろうとしたが、シャクヤが「こんな高級な場所は落ち着かない」と言うので却下した。シャクヤが選んだ宿は安宿だったが、アスコラクはシャクヤの選択なら文句はなかった。だいたい、アスコラクたちは本来眠りを必要としない。それなのに今回に限って宿をとったのはシャクヤのことを考えたからだ。シャクヤは必ずここでリョートと再会する。いつも気丈に振る舞うシャクヤだが、今回ばかりは心労が大きすぎる。初めからシャクヤのための宿なのだから、シャクヤに一任したというわけである。どうやら「憧れの生活」と「実生活」を、シャクヤは無意識のうちに分けているようだった。アスコラクはシャクヤにあまい、と言っていたのはイネイだった。アスコラクにはシャクヤを依怙贔屓している感覚はまるでないのだが、傍から見ればそう見えるのだろう。イネイは無駄な会話が多すぎる、とアスコラクは思っていた。しかしシャクヤが意外にもイネイをかわいがり、会話を楽しんでいたようなので、今回もイネイが同行することを許したのだ。


「今回はずっとそっちの姿でいるつもり?」


そう言われて、「そっち」の意味がアスコラクには分からなかった。シャクヤが頭を抱えて苦笑し、言い直す。


「だから、今回は男の姿で過ごすのかってきいたのよ」

「そのつもりだが、何か問題でも?」


アスコラクの即答に、シャクヤはくすくすと小さく声を立てて笑う。


「問題はないけれど、イネイやクランデーロは驚くわね。彼女たちは貴女が男にもなれることを知らないんでしょう?」


笑顔の奥に血の気が引いたシャクヤの顔があることを、アスコラクは見逃さなかった。部屋につくなりシャクヤを布製のソファーに導いた。美術館の皮製の高級ソファーとは違い、触っただけで埃が舞う。色はあせ、ところどころ糸がほつれているが、シャクヤはこういったところの方が落ち着くのだ。おそらく娼婦宿にいた時の名残なのだろう。


「今日は早く休もう。それにシャクヤは無理に同行する必要はない。リョートのことが気にかかるのは分かるが、足手まといになりかねない」

「まあ、その言い方は何? いいわよ。私はここでイネイからの報告を待つわ」


シャクヤは口をとげてそっぽを向くが、それはアスコラクの優しさにあまえるための意思表示だった。「時の女王」を目の前にした時、ジェイコがリョートとシャクヤが似ていると言ったのは的を射ていた。それもそのはずである。前にも少し述べたが、リョートとシャクヤは姉妹なのだ。シャクヤの方が姉で、リョートが妹になる。このエルという東の大国に置き去りにされた姉妹は、姉が社会的に周縁の売春婦、妹は社会の中心にいる女王という正反対の人生を生きてきた。そして今、リョートの首を狩るためにアスコラクと共に実姉のシャクヤがリョートがかつて築いた都に赴いている。何という数奇なめぐり合わせだろう。しかしこれが運命だとは、アスコラクには思えなかった。何か大きな闇が「運命」を作り出しているような気がしたからだ。実はリョートの身代わりにシャクヤを選び、死へと誘ったのがラサルという白悪魔だったのだ。今回も奴がかかわっていると考えてもおかしくない。

 シャクヤは安宿のソファーにそのまま眠っている。シャクヤは前髪で隠しているが額に針で刺したような傷があり、手や胸の下にも傷跡がある。それらは「聖痕」と呼ばれるものだったが、本人は無頓着だった。アスコラクはそんなシャクヤにそっと布団をかける。それからアスコラクはイネイの帰りを窓際で待っていた。シャクヤの規則正しい寝息がアスコラクの心を穏やかにさせる。幸せそうなシャクヤの寝顔はアスコラクを許し、全てを受け入れてくれるようにも感じられた。

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