7.鏡ふき

ソファーに腰掛けて、遠くから正面に『時の女王』を観る。ただそれだけで有意義で贅沢な時間を過ごしている気になった。こんな時でもアブマンの口は休まらない。


「この絵の作者は、謎の画家、フィラソフです。大国期のもので、今は値段が付けられないほど、価値がある作品です」

「謎? それはお前にすら解けないものなのか?」


アブマンは残念そうに「はい」と答えて肩を落とした。アブマンにとっては「知らない」ということはすなわち「無知」であり、自尊心を傷つけられることのようだ。


「フィラソフについて書かれた一次資料が極端に少ないのです。いつの間にか脚光を浴びて、いつの間にか忘れ去られていたのが、フィラソフですから。今は国宝になっている絵もあります。しかしそれ以前は、全くの無名でした」

「まさしく高嶺の花だな」


アスコラクは皮肉を込めて言ったが、それでもアブマンは笑顔で答えた。


「はい。その通りです」


すがすがしいほどの笑顔のアブマンに、ほどなくアスコラクは眉を寄せた。


「フィラソフ? 鏡ふきではなかったか?」


アスコラクはしばらくして自分の従者の中に、同名の者がいることを思い出した。アブマンはそれを聞いて嬉々とした表情を浮かべた。ジェイコも珍しいものを見たように顔を上げた。


「よくご存知ですね。これは知っている人が少ないんですよ。そうなんです。フィラソフは従軍絵師として当時植民地だったアトラジスタに赴き、そこで鏡ふきとして晩年を過ごしたとされています」


アブマンは自分の声が高くなっていることに気付かぬ様子で語り始めた。


「嬉しいな。フィラソフを知っている人と話せるなんて」


アブマンはそう言って笑った。まさかアスコラクたちがフィラソフの生前の姿や現在のフィラソフのことまで知っているとは、アブマンでも夢にも思わないだろう。

フィラソフの絵は初め、誰も目もくれなかったが、絵画研究が進み、自文化復興運動の中で注目されるようになり、今ではどれも国宝級の値が付くという。そんなフィラソフの最高傑作と呼び声が高いのが、今四人が正面にとらえている『時の女王』だという。国宝級と言う割には、ロープで立ち入り禁止の制限があるだけだ。警備員が絵の両端に立ってはいるものの、緊張感は伝わってこない。警備に問題はないのかとシャクヤがジェイコに尋ねると、ジェイコは鼻にしわを寄せた。


「あんなに有名な絵を売りに出せるわけがありませんよ。買い手のつかない絵を盗んでも仕方ないでしょう」

「闇ブローカーやコレクターなら、自分の欲を満たすために盗み出すかもしれない」


アスコラクはつかさずシャクヤを援護した。アブマンもアスコラクに同調し、その場を和ませた。


「先ほどから何度も耳にしているフェルズは、古語で盤上遊戯の女王のことよね? そのフェルズの本名は、何と言うのかしら?」


シャクヤが不安そうに尋ねる。まるで身内の入院を見舞うような表情だ。


「これは失礼しました。マスハではフェルズの方が浸透してしまっていて。フェルズのあだ名は、偉大な女魔術師兼女王のリョートに贈られたものです」

「女魔術師?」


アスコラクの反応は早かった。

今回の標的の名前がリョートだったからだ。


「リョート女王は生きものの時間を操ることが出来たとか、自身の時すら操れたとか、そういった伝説のある方だったそうです」


悪意のないアブマンの解説。そこにあったのは、件の絵に対する並々ならぬ熱と、恋にも似た尊崇の念であった。


「リョート……」


シャクヤはその名を愛おしげに呼ぶ。私はこの絵に会うためにここまでやってきた、とシャクヤは思う。心臓の鼓動が、耳の近くで聞こえる気がした。呼吸が乱れ、眩暈を感じる。シャクヤは胸を両手に置いて、心臓の鼓動がしずまるように念じた。これは初めからシャクヤが想定していたことだ。しかし目の前にリョートを見ると、平静を装うのは無理だった。シャクヤは絵の中のリョートを見つめながら、息を大きく吸った。やっと会えたのに、どうしてリョートは絵の中にいるのだろう。これを「再会」とか「邂逅」と呼ぶのであれば、それは残酷この上ない。

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