6.美術館

 美術館の中に入ると、別世界に迷い込んだような、それでいて空間が急に膨張したような感覚に陥る。入り口から奥の突き当りが見えなかったし、あまりに華やかだったからだ。三〇〇〇年もの間、何度も修復作業を繰り返しているはずなのに、そこにはまだ、女王の気配が息づいているようにも思えた。白く太い巨木のような柱が天上を支え、クリーム色の柔らかな壁に金の額縁に入った様々な絵画が大小様々に飾られている。額縁にも柱にも植物や神話に出てくるモチーフや人物が彫刻されている。壁一面に絵画が展示されていて驚いた。シャクヤは、「まあ」とため息を漏らしたほどだった。一点一点をじっくり見るための飾り方と言うよりは、壁一面にちりばめられているという印象を受ける。まるでマスハの満天の星。もしくは宝石をばらまいたような印象だ。写実的な宗教画が多い。収蔵数が多すぎて、収蔵庫に収まりきらないというのも一つの理由だろうが、東にも西にも一点一点展示するといった感覚がないのだ。よって、人の目の高さから見える範囲に絵を敷き詰めるような展示の仕方になっている。絵にあたる日光は計算され、直接絵画にあたらないようにしてあった。絵具もカンバスも日光による劣化に弱いのだ。人と絵の間隔も、計算されている。絵に人が近づきすぎるのを防ぐためだろう。絵と来館者の間には、赤いロープがあり、それ以上来館者が絵に近づくことができなくなっている。

 壁を見渡すアスコラクとシャクヤに、アブマンは優しくガイドを始める。エル国立美術館、別名・フェルズ美術館は、世界中の美術品を収蔵する世界最大級の美術館。展示してある美術品を観るだけでも、三か月を要すると言われている。すべての作品は模写が許されている。この美術館はフェルズが自国で優れた美術家を育成するために造った大学と、対になっている。そのため多くの学生がこの美術館に模写をするために通う。マスハは一般的にも美術熱が高く、マスハ市民だけではなく観光客を含むすべての人に、イーゼルなどの画材が持ち込み可能となっており、それらを保管しておく倉庫も整備されている。この、絵画好きにはいたれりつくせりの設備は、世界でも珍しいものだった。


「その倉庫と言うのはどこにある?」

「各階の隅にありますが、一番大きい倉庫は『時の女王‐カーミュ・デ・コーメニ』の階にあります。何にしろ有名な絵ですので、どうしても人が集中しますから」


エル国立美術館は三階建てだが、各階がとてつもなく広い。『時の女王』は二階の突き当りにあり、二階の倉庫はその近くにある。

「カーミュ・デ・コーメニ」。耳朶に馴染んだ感触がある言葉だ。元々、同じ主の下に一つの大国から別れた二つの大国の言語体系は、文字の差異を除けばよく似ている。西側では主に信仰上の祈りの言葉としてよく使われた。「オー」と「アー」の母音の入れ替わりは激しく、この言葉も元々「カーミュ・デ・カーメニ」となるのだろう。「カーメニ」は元々「石」の意味だが、ここでは「箱庭」という意味でつかわれている。それはカーメニという都市が、同じところの石で建物を造ったため、「神の箱庭」のように見えるからだという。アブマンは次々と絵画を解説していく。作品の意味だけでなく、その絵の作者の経歴。年代による派閥の移り変わりとその社会状況。絵の下絵や修復状況まで、主要な絵画についてはほとんど学芸員を必要としないほどの知識をアブマンは披露した。まるで歩く百科事典である。その知性あふれ、紳士的なアブマンを、ジェイコは尊敬の眼差しで見つめていた。その様子はまるでアブマンに恋をしているかのようだった。


「やっぱりアブマン先輩はすごいな」


ジェイコはぽつりと独り言をつぶやいた。あまりに小さいつぶやきだったため、真に迫る言葉のように感じられた。


「あそこにあるのが『時の女王』です。足は疲れませんか? ソファーがあるのでゆっくりしていきましょう」


アスコラクはシャクヤの方をちらりと見て、「そうしてくれると助かる」と、アブマンの提案を受け入れた。シャクヤはもともと娼婦だったため、ほとんど宿から出ることがなかった。そのため体力が他人に比べて極端に劣っているのだ。一階から二階へと続く階段を上っただけで、シャクヤは明らかに疲れの色をにじませている。それに、「時の女王」はシャクヤにとって、精神的加重もある。シャクヤは鼓動を鎮めるように、両手で胸を抑えた。


「大丈夫か?」


アスコラクは無表情な声でシャクヤにささやく。シャクヤはそれに無言でうなずく。


「外で待っていてもいいんだぞ」

「大丈夫。私はこのために今回は同行したんですもの」


大きな博物館や美術館には、展示をゆっくり見てもらうため、休憩できるようにソファーや椅子などがさりげなく置いてある。これほど大きな施設になれば、そのソファーも質のいい、それでいて景観を損ねないように十分に配慮されたものだった。絵を鑑賞する距離感やこうした休憩場所の配置は学芸員が計算しておくべきことの一つだ。たかがソファーでもその置き方一つで学芸員の、しいてはその美術館の質が現れる。さすが国名である「エル」を冠する美術館だけあって、ここの学芸員は優秀といえた。

 平日だというのに、『時の女王』の前には人だかりができていた。四~五人が模写のため、イーゼルを立てていた。その他はアブマンやジェイコのような学生や、観光客らしき人々だった。観光は今でこそ娯楽の一つとして市民権を得ているが、かつては「見学旅行者」と呼ばれ、金持ちが僻地の文化を壊して行くとして、現地の人々にあまり歓迎されていなかった。

 この美術館で最も有名で人気のある絵だけあって、『時の女王』だけは壁にぽつんと一枚だけ飾られていた。ガラスのカバーでいかにも厳重に守られたその絵は、一メートル以上近づけないようにポールとロープで囲まれていた。この絵だけはまさに「女王様待遇」だ。

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