1.警備員

 カンテラを持った警備員の男が、二階の奥にある一枚の絵の前で足を止めた。『時の女王‐カーミュ・デ・コーメニ』と題されたこの絵は、世界最大の収蔵施設であるエル国立美術館の中でも有名な絵画だ。その絵の前に、人影を見た気がした。カンテラをかざしながら絵に近づくが、そこには誰もいない。しかし男は確かに人影を見たのだ。そしてその人影も、確かに男を見つめていた。波打つ黒髪の長い幼女だった。男はカンテラを上下左右に動かして、人の気配を探った。しかし男の目に映るのは、壁一面に飾られた絵画と、自分の四肢だけであった。男の影はせわしなく動いた。


「おい、出てこい。もうとっくに閉館時間は過ぎているぞ」


男は辺りを見回しながら、声を張った。だが、男の声が反響するだけで、他に物音は一つもしない。聞こえるのは、自分の心音、そして飲み込んだ生唾の音だった。男の娘も幼女と同じくらいの背丈だった。娘は四つ。


「おーい。出ておいで。かくれんぼは終わりだ。早くお家に帰ろう」


男は歩きながら呼びかけた。だがやはり男の声と靴音が響くだけだった。灰色の双眸に白い肌だった。白いワンピースを着ていた気がするが、足は裸足ではなかったか。幼女を探していた男はその様子を思い出して妙な汗をかきはじめていた。その幼女の姿は、このマスハの人々の特徴とは異なっていた。マスハの人ならば女も男もブロンドの髪に青い目をしているはずだ。しかし幼女は違っていた。きっと観光客に違いない。それにしても黒く波打つ髪と灰色の瞳とは、一体何の冗談なのかと、男は思う。


(変じゃないか? こんな時間に子ども一人で泣きもせずにいるなんて)


男はマスハの昔話にある「寂しがり屋の彫像の話」を思い出していた。


「おい、誰か」


男は助けを求めるように、もしくは懇願するように、叫んでいた。早足の男は自分のカンテラの光の中からのぞく瞳に息をのんだ。自分が探している相手に、見つめられていた。男の全身からどっと汗が噴き出す。だが、ほどなくして男は肩の力を抜いた。男のカンテラが照らしていたのは、件の絵だった。幼女を探し回るうちに元の場所に戻ってきたようだ。絵の中で一人でたたずむ若い女性が、殺風景な岩山を背景に男を真っ直ぐに見つめている。まるで絵を見に来た者を睨んでいるようなこの女性も、灰色の双眸をしていた。


「見間違いだったか」


男は口元をゆるめ、自分を安心させるように呟いた。おそらく先ほどの幼女も、この絵と目が合っただけだろう。早く帰って娘に会いたいという願望が、女性を幼女と見間違えらせたのだろう。そう一人合点して男は再び歩き出す。開示されているすべての絵を鑑賞するには三か月かかると言われるエル国立美術館を見回るには、いちいち足を止めていては朝になってしまう。他の階を見回っている同僚たちも、そろそろ自分の担当を終える頃だ。男は足を止めることなく、次々と展示フロアを見て回る。いつものことながら、異常は見られなかった。男が安堵の息をこぼした時だった。反対側からカンテラの光と軽快な足音が近づいて来た。男を待ちくたびれた同僚だろうか。男はカンテラを揺らして答えた。


「今終わるよ」


相手は男の呼びかけに答えず、どんどん近づいて来る。男はその光がカンテラの光でないことに気付いた。カンテラの温かみのある橙色の光ではなく、冷たく青白く発光する大きな塊だ。男が見た幼女が、発光しながら飛ぶようにかけて来るのだ。男は大理石の床に尻餅をついて震えあがった。男に幼女が覆いかぶさるが、全く重さがない。幼女の奥に向こう側の風景が透けて見えた。半透明な幼女は微かに青白く発光し続けていた。


「ああ、助けてくれ。時の女王」


幼女は首を横に振った。


『私はフェルズ。貴方の時間を少し貰うわ』

「フェルズ? 女王陛下?」


男は恍惚の内に意識を失った。

 男が同僚に見つかった時、男は死んだように眠っていた。男が目覚めたのは三日後だったが、命に別状はなかった。深い眠りから覚めた男は、美術館の「時の女王」の前で女の子の幽霊に会ったと証言した。そしてその幽霊はマスハで最も親しまれている歴代女王、フェルズだと言った。初めこそ誰もこの話を信じなかった。しかし、男の同僚が同じ体験をするようになり、また、過去にも同じような事件があったことが明らかになった。そうすると今度は、臆病風に吹かれた警備員たちの集団ヒステリーと見なされ、調査団まで組織され、「時の女王」のフロアは数人で見回るようになった。だが、男と同じ証言をする者が続出した。噂はマスハの昔話と結びつき、エル国立美術館の入場者数をこれまで以上に増やしたのだった。それは怖いもの見たさでもあったが、一方ではやはりフェルズに会えるというところが大きかった。マスハの人々にとって、フェルズは愛すべき存在であり、今でも畏敬の対象だった。

 そしてそんな熱狂する来館者の中に、一人の青年と、一人の少年がいた。青年は女性のような顔をして眼鏡をかけ、堂々としている。一方の少年はそばかすが目立ち、不安げな表情をしており、猫背であった。青年はこぎれいな格好をしているのに対して、少年の服は明らかに古く、大きさも合っていない。青年と少年は人ごみの中、群衆と同じように「時の女王」の前で立ち尽くし、「彼女」に見入っていた。青年はわずかに頬を紅潮させ、まるで「時の女王」と二人きりで密会しているようだと思った。一方少年は、まるでいかがわしい物を見たような顔で、絵を見ていた。互いの存在を知らぬまま、青年と少年は同じ時を過ごし、別れた。二人が出会うのは、少年が青年と同じくらいに成長してからだった。

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