西方国境にて

南総 和月

切符




 私の友人は少し変わっている。


 少し……というと常識人の様な印象を与えるかもしれないが、これはあくまで私の主観であって世間一般の評価ではない。そもそも私の友人が世間に広く知られているのかといえばそうではなくて、我らが祖国プロイセンの諜報機関に属している一員として市中に紛れている。そして今、私たちはフランスとの国境近くであるラインラントを走る列車内にいた。国境自体があやふやな戦時下ではあるが、グラヴロットでの勝利をおさめたプロイセンにとってここら一帯は占領地であり、もはや領土である。かつてない近代戦争にこちらは新式の鋼鉄製の野砲を持ち出し、参謀幕僚制を敷いた。その結果、エムス電報をきっかけに始まった此度の戦争に私たちは勝利しようとしている。


「そこのお嬢さん、ちょっといいかね」


 私の友人は困ったことに早くも後ろの座席のご婦人に声をかける。私たちの任務はフランス軍に一刻も早く休戦させるためパリ市内に浸透し、世論の流れを正確に捉えること。つまり今はただのしがない旅行者というわけだ。もっとも、この列車はパリまで通ってはいないので途中で馬車を利用することになりそうだが。


「おい、アダルベール……」


 彼が声をかけたご婦人はその身を黒衣に包んでいた。それこそ帽子や髪留めまで見事に黒一色で、おそらくは喪に服しているのだろう。ご婦人というには若いだろうか、艶のある金髪やハリのある肌は少女といってもよいほど。私の観察では二十代前半といったところだ。このご時世では未亡人などありふれているが、この列車に乗っているところを考えると、夫か婚約者の屍に顔を合わせるか、それとも愛する者無きプロイセンから生まれ育ったフランスへと帰るのか。推測はとどまることを知らず、私の想像を掻き立てる。経緯を知らない私は帽子を深く被るしかないが、そんな女性に声をかける紳士とはほど遠い友人を私は止めようとした。


「お嬢さんも旅行かい? わたしもそうでねぇ、戦争中ではあるけれどフランスの美しさは変わらないだろう? 以前にも何度か行ったことがあるんだが、まわり損ねてしまってねぇ、今回は満喫したいものなのだよ」


 葉巻を右手に挟んだまま、灰のジャケットに赤い蝶ネクタイの男は話し続ける。丸眼鏡をかけ、帽子を被った髭面の中年が若い女性に話しかけている時点で鬱陶しいが、相手が未亡人かもしれないときては一層まずい。そっとしておくべきだろうに。きっと今の私は友人に冷たい目を向けているのだろう。


「おや、その鞄。重そうだねぇ、何が入っているんだい? 着替えに時計、あぁ手帳も忘れてはいけないねぇ、旅の記録を取らなくちゃ勿体ない」


 うんうん、と一人納得したようにアダルベールは葉巻を口に含んだ。


 一方の女性は特に反応することなく、顔を右方向に傾ける。視線の先に座っていた若い男が彼女の頬に涙でも見たのか、義憤に満ちたような瞳を私の友人に向けている。ドイツ人かどうかは知らないが線の細い男で、比較的がっしりとした体つきのアダルベールの腕をつかもうとはしない。不快には思っているが自分では何もできないといった面持ちだ。


「アダルベール、いい加減に」


 私は柄にもなく声を荒らげた。


「なんだ、アルフレート。いまは彼女と話しているんだが」


「話している、ではない。一方的に話しかけているだけだろう。彼女に迷惑だ。お前さんは一人静かにクロスワードでも解いていればいいさ」


「そうは言ってもなぁ、こちらの女性はフランスには入れんよ。伝えておくのが親切というものだろう? 次の駅で


 最後の言葉は私ではなく女性に向いていた。どうやら私の友人は、私とは異なる角度でこの黒衣の女性を見たようだ。私は腰を浮かせて椅子に座り直し、筆記用具を鞄から出す。私はメモとペンをアダルベールに渡し、彼はペン先を滑らせる。文章はフランス語で書かれていて、私はようやく状況の整理がついた。


 彼女のほうはアダルベールの言葉に反応して、大きな灰色の瞳をより大きくしてこちらを向いた。先ほど通路から見た時もそうだったが、やはり若く、そして綺麗だった。目元が潤んでいることさえ、彼女を飾っていて。


「美しき人よ。同じ列車に乗り合わせただけではあるが、これも何かの縁。試練多き貴女に幸あらんことを」


 アダルベールの言葉とともに列車は減速を始める。

 どうやら次の駅が近づいてきたようだ。


 メモを手渡された彼女は少しばかり驚いて、言葉を発した。


「ありがとう……本当にありがとうございます……」


 黒衣の女性は皮手袋の指を絡み合わせて祈るようにしていた。


 私はただ見ているだけだった。



 ♦♢♦――――――――――――――



 プロイセンの軍服に身を包んだ二人組は列車が駅に到着するなり、軍靴のカツカツとした規則的なリズムとともに車両内に入ってきて、彼女を連れ去っていった。彼女の頬に涙は流れず、それどころか口元は微笑んでいた。


 見送るアダルベールはいつもの剽軽な様子と対称的に沈んでいるようだった。

 終着駅につくなり『柄じゃねぇことはするもんじゃねぇな』などと言ってはいたが、私の友人が常日頃披露するようなジョークもないところを見ると、それなりには黒衣の女性に思い入れがあったようだ。


 私は見ていることしかできなかった。


 私はただ見ているだけだった。


 きっと、私は見ているだけなのだろう。


 黒衣の女性の後姿も、此度の戦争すらも。




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