ミライ
右肩ヒサシ
第1話
僕は未来からやって来た。だからこうして歩いている街は廃墟であり、この空間を埋めて流動する人はみな亡霊である。
建物の間のわずかな更地や、街路の植え込み、狭隘な公園に見えるひと塊の草の密生。そこに鳴くエンマコオロギだけが、僕にとって直接の知己だ。僕の暮らす未来の荒れ地にも、小さなエンマコオロギがまったく同じ音で羽をすりあわせているからだ。黒い外皮が包む体の中に、さらに微細な歯車をぎっしり内蔵し、それらが忙しく噛み合って動作していることも変わらない。
僕は都市の遺構を破砕し、激しく繁茂する未来の植生を知っている。巨大な葎や茅、蓬の類、太々と肥えた蔦の蔓。草の葉も茎も奇妙に変形し、輪郭は一つとして滑らかな連続を得ない。
火災の後に繁茂した陽樹と、それを押しのける陰樹の大木。地に潜るかと思えばたちまち跳ね上がって露出する走り根。その根の支える樹皮のただれた幹も、みな傾きねじ曲がっている。甘酸っぱく淀んだ熱気が地表に垂れ込めて、やがて来る凄まじい勢いのスコールを静かに待つのだ。
そんな夜にもやはり虫が鳴いている。
この交差点の信号機の信号部分はやがて焼け落ちてなくなるが、鉄柱だけが頑強に生き残り、夜も昼も真っ黒いシルエットとして直立する。今はまだ美しく点灯する青色燈を眺めながら僕は横断歩道を渡る。左右に停止する車列に転覆した車はないし、何よりどの車にも生きた人間が乗っている。
正面にあるコンサートホールは一階部分が潰れて地下に陥没し、屋根は半分も原型を留めず内部の客席の上へ崩落してしまう。生き埋めになる人々の、泥と血に塗れた呻き声。程なくその上に大粒の雨が降り注ぐ。死んでしまった人たち、いや、これから死んでいく運命にある人たちよ、みんな、すまない。僕はあなたたちのために何もしてあげないのだから。
しかし、当面は良い。そうなるのは今日明日の差し迫ったことではない。
待ち合わせてホールの座席に着いても、あなたははっきり僕の方を見なかった。緞帳の下りている正面の舞台をじっと見据えている。昨日僕とあなたは何かの理由で互いに傷つけ合い、それが今日まで尾を引いているのだ。「怒っているの?」と聞くと「別に。」と答えるだけであなたは頑なに押し黙る。「そう。」とだけ僕は返していた。
未来から飛ばされてくる途次、僕はあなたの死骸を見ているはずだ。変色した皮膚ののっぺりとした広がりの中にあって、両眼も唇も固着した亀裂に過ぎず、瞼の裏から眼球が、唇の裏から歯が僅かに覗く。感情を移入する余地のない、即物的な造型が持つ不思議に、僕は深く打たれたはずなのだ。そして今、怒りを押し殺すという所作において、あなたはあなたの死骸と良く似た相貌を形作りながら、まったく逆に、生気に満ちあふれて見える。辛いことである。
而ルニ、女遂ニ病重ク成テ死ヌ。其後、定基悲ビ心ニ不堪(たへず)シテ、久ク葬送スル事无クシテ、抱テ臥タリケルニ、日来(ひごろ)ヲ経ルニ、口ヲ吸ケルニ、女ノ口ヨリ奇異(あさまし)キ臭キ香ノ出来タリケルニ、踈ム心出来テ泣々ク葬シテケリ。其後定基、「世ハ踈キ物也ケリ」ト思ヒ取テ、忽ニ道心ヲ發(おこ)シテケリ。
(『今昔物語集』巻十九・二)
客席の照明が落ちてから、緞帳が開き演奏が始まるまでの間、僕はあなたにキスすることにした。短く、長いキスだった。あなたは何も言わず、僕も何も言わなかった。僕が何も言わなかったのは、自分がひどく混乱し、しかもその混乱は沼の水面を掠める風、そこに立つ波でしかなく、心の本体は膨大な容量の水の、その総体として暗く沈黙するほかなかったからだ。
ぼやけた月が凄まじい早さで夜空を渡る。雲ばかりでなく濃紺の虚空も遠山の輪郭も足元の暗闇も、どこも歪んで渦巻いている。堆積する土砂の起伏から幾本ものビルディングが立ち、それらもことごとく漆黒のシルエットだった。言葉もない、文字もない。音はあるが音を聞き取る人がいない。風の音、遠雷、ものの崩落する音、断続する天象地象の揺動の間隙を、コオロギの声が充たしている。
緞帳が上がり始め、ステージの上の様子が見えて来る。最初に目に入ったのは何本かの奏者の足、それから足の間のバスサクソフォンの一部だった。金色に輝いている。
ミライ 右肩ヒサシ @migikata1
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