第42話 「先生、もう喋ってもいいですよ」
雨が降っていた。
電気をつけることも忘れて、玄関口でうずくまっていた唯子。その耳にまで、聞こえるほどの土砂降りが。時には雷の音もする、典型的な夕立だった。
あの2人は、彩花と牧野はちゃんと雨が降る前に会社に帰れただろうかと思って。胸が苦しくなる。牧野は『普通』だ。黒い髪、黒い目、普通の女性らしいからだ、そして。彩花の昇進を祝っている、唯子が喉から手が出るほどに欲しいものを全部持っている。彩花と多少歳は離れていても、彩花が大人になってしまえばわからない。きっと、お似合いになるのだろう。
ずきりなんてものじゃない、胸全体が痛む。呼吸すらするのが苦しい。くっと一回息を止めて、肺の中の空気を全部吐き出す。
やめよう、こんなのは自分らしくないと考えて、自分らしさってなんだろうと唯子は首を傾げる。それはいままでの彩花を知らなかった自分だ。なら、もうとっくに自分らしさなんて失われていていまは自分を作り上げている途中だったんじゃないのか。ならたぶん。
「こんな、牧野さんに嫉妬するわたしも。自分らしさの中の1つなんだよね」
実の両親でさえ、唯子の異端な容姿を認めてくれなかったように。誰も認めてくれないのなら、せめて唯子だけはこの感情を肯定してあげないと。そうしないと、この感情が可哀想だ。やっと、やっと見つけた、芽生えたばかりのこの感情が。
目じりを下げて仕方なさそうに笑った唯子は目尻からこぼれていく涙をTシャツの袖で拭って。にぱっといつものように笑った。大丈夫、唯子はまだ笑える。だからこの感情には振り回されない、平気だ。
いつまでも玄関の靴場にうずくまってても仕方ない、と考えた唯子はのろのろと立ち上がりリビングの方を向いたところで。
かちゃん。
鍵が外れる音がした。
え? と油の切れたブリキの人形のように振り返ろうとする唯子だったが、扉が開いた瞬間に雷が落ちたのだろう。轟音が近くに聞こえて思わず叫んだ。
「ひゃー彩花さん!! 助けて!」
「ひゃーってなんですか、もっと腹の底から声を出してください先生」
「え……ひゃ、ひゃあ? って彩花さんびちょ濡れじゃないですか!!」
「大したことありません。原稿と荷物は牧野さんが会社へ持っていってくれたので大丈夫です」
「そういう問題じゃありません!」
淡々と自分が、雨が滴るほどに濡れているのを気にせずに荷物と原稿は大丈夫だからと。唯子が心配してるのとは見当違いの安心してくださいをくれた彩花に唯子は思わず小さく叫んだ。
「彩花さん、とりあえずタオル持ってきますね! 待っててくだ」
「そんなことよりも」
着ていたワンピースのようになってしまっているTシャツの裾を翻しながら。あわててタオルの置いてある納戸に向かおうとする唯子の細い手首を、彩花は壊れないようにそっとつかんだ。
そっとには違いないが、ただ離さないよう、離れないよう頑丈に。
「先生、泣いてたんですか?」
「え、そんなこと」
「白目の部分が充血してますし、目の周りも腫れぼったいです。熱いですし」
「ひゃ」
目の周りが腫れぼったいと言いながら、納戸に向かおうとする唯子の身体をくるりとまわして自分の方を向けさせると。その少し赤くなった目元に静かに触れた。予想外に冷たい指先に、目を瞬かせた唯子。こんなに冷え切っているならタオルよりシャワーの方がいいんじゃ! と思ってそのことを口に出そうとすると、するりと切ってもらった時よりは少し伸びたショートカットの白金の髪をとられる。どうしたのだろうと思ってみていれば。
彩花は傷1つつけないようにとでも思っているのか、繊細な仕草で髪に触れるだけのキスをした。
「ふぇ!?」
「先生ちょっと黙っててください」
「あ、はい」
それから、掴んだ手首をゆっくりと持ち上げて。腕に1つ、手のひらを上にしてそこに1つ落とすと満足そうに頷いた。
言いたいことが多すぎて、エサを頬にため込んだハムスターのようにぷっくり頬を膨らませていた唯子に。その頬をもちもちと触りながら彩花は言った。
「先生、もう喋ってもいいですよ」
「ぷっは!! なにするんですか! せ、せくはりゃですよ!?」
「言えてないですし。それに先生は可愛いからぼくだけはセクハラしていいんです」
「だーめーでーすー!!」
「いいんです。先生になら脛でも足の甲にでもしてあげたいんですから。この程度ですんだことを感謝してください」
「あ、ありがとうございます!」
「まったくです」
あれ? なにかおかしいぞ? と、唯子が思う前に彩花は手首を解放するとくるりと踵を返す。そして、唯子に背を向けたまま。優しいトーンで言葉を放つ。
「先生、ぼくは。小さいころあなたを見失いました」
「え?」
「どこにいるかもわからないあなたに、ずっとお礼を言いたくて。でも見つけられなくて。『アオハル×メイカーズ』を読んだ時には心が震えました。そんな経験は初めてで……あぁ、もうなにを言えばいいのかわからないんですけど。とにかく、ぼくはあなたをやっと見つけました」
「……はい」
「もうどんなに遠く離れても、ぼくは絶対にあなたを見失ったりなんかしない」
「はいっ」
「だから、いまだけはさよならをしましょう。先生が先生らしく輝くために、ぼくがぼくらしくいるために」
「……はいっ」
涙があふれて止まらない。
アスファルトがむき出しの靴場、黒い染みがいくつもできる。それと同時に身を切られるような痛みがある。それはきっと恋心が、彩花への恋が叶わないと知ったからだ。
これがゆっくり愛になればいい、見失わないと言ってくれた、それだけで。この恋は幸福だから。そしていつの日にか、また笑いあえればいい。そのためだけに、唯子はきっと輝き続けていられるから。
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