第41話 (ああ、泣いてるんだ)
唯子は、恋という感情は甘いものだと思っていた。たとえ、もやもやすることがあっても、それすら恋という感情の前には甘いスパイスなのだと。だから。
「あ、そういえば鳩目先生知ってます? 今度、カクヨムがアメリカ進出するんですよ!」
「え、そうなんですか!? おめでとうございます!!」
「ありがとうございますー! ひいては一度抱きしめさせてもらえるとやる気がさらに高まるんですけど!」
「別に牧野さんがやる気を出すことはないでしょう。ゆえに却下です」
「なんで先輩が却下だすんですか……あーあー、そうですよねえ。先輩はプロジェクトチームのリーダーだからって」
「牧野さん!!」
とっさに牧野を大きな声で呼んで黙らせた彩花が、何を考えているのかわからなかった。怒鳴られた牧野は、やってしまったみたいな顔をしているし。彩花は困ったような表情で唯子を見ていた。
なにをそんな顔をすることがあるのだろうときょとんと見返した唯子だったが、会話の前後を考えなおしてざっと頭から血の気が引いた。
カクヨムがアメリカに進出しようとしている。つまりそういう計画……プロジェクトが組まれている。彩花はそこのプロジェクトチームのリーダーを任されている。ということは。
「……彩花さん、アメリカに行くん、です、か?」
「鳩目先生」
「いまみたいに、会えなくなっちゃうんですか?」
「鳩目先生」
「もう、わたしのことなんて、いらないんですか?」
「鳩目先生!!」
無意識に口から漏れ出た言葉に、名前を強く呼ばれてはっと我に返る唯子。「もうわたしのことなんていらないんですか?」なんて。彩花が唯子を必要としているような、そんな言葉を吐いてしまった。彩花にとって、唯子なんて初めて担当した作家というだけかもしれないのに。昔ちょっと会ったことのあるお姉さんというだけかもしれないのに。
彩花はアメリカに行くのだろう。そして立派に修業を積んでからなにか偉い立場に立つのかもしれない。それなのに担当作家である、栄誉にも彩花の初担当作家に選ばれた自分が、その妨げをしてしまうようなことは。29歳というアラサー寸前の自分が、なんにも持ってない自分が。たくさんのものを持って、これから未来を歩んで紡いでいく彩花の邪魔になるようなことだけはしたくない。それが、彩花に恋した唯子にできることだと思うから。
「な、なんちゃーって」
「……は?」
「アメリカ進出、おめでとうございます! プロジェクトのチームリーダーがんばってくださいね! 遠く離れてしまいますが、わたしはずーっと! 心から応援していますから!」
「……せん、せ、い」
にぱっと笑顔を浮かべた唯子に、信じられないものを見る目で彩花はかすれた声で呟き無意識にだろう唯子に伸びてきた手は途中で止まって。牧野はソファーに座りながら真っ青になっていた。
いま、きちんと唯子は笑えているだろうか。視界は歪まない、涙は出てない、大丈夫。顔色も悪くないと思う、平気だ。大丈夫、大丈夫。唯子はまだ笑える、唯子はまだ頑張れる、唯子はまだ彩花を想いたい。ちゃんと諦められる日が来るまで、せめて心の奥底で思うことくらい許してほしい。
表面は『応援』という皮をかぶって、覆ってごまかすから。なのになんで。唯子を先に切り捨てたはずの彩花が、そんな絶望に染まった目をするのか。一瞬でも期待を抱かせる行為をするのか。
みーんみーんと窓の外から蝉の泣き声がする。開けたカーテンから見えるのは青い空にもくもくとはえてきた入道雲。
「あ、彩花さん、牧野さん入道雲ですよ! 今日13時から突発的な雨の予報がありましたし、原稿濡れちゃうかもしれません。会社に戻ったほうがよくないですか?」
「あ……は、い。牧野さん、帰りましょう」
「で、でも先輩!」
「帰りましょう」
今日預けたぶんの原稿を茶封筒に入れ、紐で軽く封をすると。12時32分を示す時計を見上げて、こくりと頷いた。そして、まだ何か言い足りないような牧野に再度会社に戻ることを伝えて彩花は腰を上げた。いつも通り、台所まで自分たちに出されたお茶菓子と紅茶のカップを持っていってから。いつもよりなんだか緩慢な動きで牧野を引き連れて帰っていった。
笑顔で手を振りながら、がちゃんと閉まった扉。サンダルをつっかけてゆっくりとした動きで鍵を閉めて。振り返った瞬間、視界の端にきらきらしたものが散った。なんだろうと考えて、首を傾げる。なんとはなしに下を見ると、またきらきらしたものが自分から落ちていって。アスファルトがむき出しの靴場に落ちて黒い染みを作った。
(ああ、泣いてるんだ)
どこか他人事のように思いながら、不思議と力が抜けて。唯子は体育座りのように膝を抱え込んでしゃがみこんだ。視界が歪まなくても涙は流せるものなのだと唯子はこのとき初めて知った。瞬きをするたびにぼろぼろこぼれていく涙になにも思うものはないなんて言わない。
心の中がぐるぐるして気持ち悪い。大声で泣きわめきたい気持ちもあれば、このまま静かに泣いていたい気持ちもある。どうしたらいいかわからないくらい苦しいかと思えば心が無になる瞬間もある。わからなくて、しばらくその場でうずくまっていると。
雨が窓を強く叩く音が聞こえてきて、予報通りに雨が降ったのかなんて無意識に考えた。風も強くなってきたのか扉ががたがた揺れた。こわかった、自分が。ちゃんと笑えていた自身のない自分が、一番こわかった。彩花が遠くへ行って昇進することよりも、それを素直に祝えない自分が嫌で、こわくてたまらなかった。
唯子は、恋という感情は甘いものだと思っていた。たとえ、もやもやすることがあっても、それすら恋という感情の前には甘いスパイスなのだと。だから、こんなおそろしい自分を決して。彩花は好きになってくれないだろうと思った。
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