第40話 「本当は気づきたくないだけなんじゃないの?」

「って、感じなんだよ。最近ずーっと早く帰っちゃうの。どうしてかなあ?」

「……その牧野って女とあんた親しくしてない?」

「あ、牧野さんもアイ×スピやっててね! 同じユメトくん推しだから話が盛り上がって盛り上がって」

「あんた同担大歓迎だもんね……じゃなくて、間違いなくそれよ。ようは嫉妬ね」


 スカイプに、まじめな顔をしたユノが映る。牧野を連れてくるようになってからというもの、早く帰ってしまうようになり、『鳩目先生』と呼ぶようになった彩花に対しての疑問を夜にユノに話していた唯子は、ないないと顔の前で手を横に振りながら笑う。


「し……嫉妬って! 彩花さんがそんなわけないよ、だって動く美少年がアラサー寸前な喪女に嫉妬って。ないない!」

「美少年は動いちゃいけないわけ? ってか唯子、あんた本当に気づいてないの?」

「え」

「本当は気づきたくないだけなんじゃないの?」


 どくん。

 大きく胸が高鳴る。だってだってだってだって。気づいてしまったら、気づかれてしまったら、もし冷たくされてしまったら、今度こそ立ち直れなくなってしまう。

 無意識に思い浮かんだ、今度こそ立ち直れなくなってしまうという言葉にぞっとするのと同時に。また耳の中でぐわんぐわんと嘲笑が蘇る。違う、彩花さんはそんなことしないと思ってみてもわからない。彼だって人間だ、こんな自分に好かれて嬉しいはずがない。外に出ることすら、彩花の言葉が必要なのにそれすら否定されてしまったら。

 信じるものを失ってしまったら、きっともう唯子は二度と立ち上がれない。どんな物語も書けなくなってしまう。それは唯子にとってアイデンティティーを失うことに等しくて。

 でも知っている。本当は。牧野と会話をしている彩花を見るたび、牧野を連れ歩く彩花を見るたび、牧野の横に並ぶ彩花を見るたびに湧き出てくる黒いもやもやは。きっと嫉妬というのだと。でもそれを認めるには年を取りすぎていて、怯える体験が多すぎて。自分の感情に自分から鈍感になっていった。少しでも自分が傷つかないように、苦しまないように。でもそれは。

 ぱた。

 雫が、作業場のテーブルの上に落ちる。ぱたぱた、それは止まない雨のように唯子の目尻からこぼれていった。

 歪んだ視界の中で目を剥いたユノが見えて、歪んだ形のユノがあわてたみたいに口を開く。


「い、唯子? ごめんっ私」

「悲しいことだよね……きっと」

「え?」

「自分の感情にわざと鈍感になって、自分が傷つかないようにするのは。きっととっても悲しくて……それでずるいことだよね」

「唯子……そんなことないわよ。言い出した私が言うのもなんだけど、気づかなくてもいい感情ってのもあるの。気づきたくないなら、傷つきたくないならそれでいいってときもあるのよ」

「うん、でもこの感情は、気づかなきゃダメなんだ。だって……この感情をくれたのは彩花さんなんだから」


 馬鹿みたいに過去の囁きにとりつかれていた自分をこの部屋から連れ出してくれたひと、唯子に魔法をかけるために奔走してくれたひと、約束を、信じるものをくれたひと。それはきっと、愛おしい人だから。だから唯子は、もう気付いているこの感情に名前を付けなければいけない。そう、恋という名前を、愛という名称をつけなければならない。それが、自分なんかができる彩花さんへの心からのお返しだから。

 まだ止まらない涙に、ぐずっと大きく鼻水をすする。泣いているのに嬉しくて、笑いたくなってしまうのはきっとこれが恋だからだ。幸せな、一番幸福な感情だからだ。

 しばらくの間、ひっくひっくぐずっと唯子の泣きすする声だけがスカイプに響いていた。それでもスカイプが切られなかったのは優しい表情を見せてくれる、ユノが優しいひとだからだ。

 ああ、幸せだなあと、こんなに優しい人たちに囲まれている自分はいままでなにを見てきたんだろうと考えてしまうくらい幸せだ。目を乱暴にこすって、にっこりと赤くなった目元で笑ってみせる。


「ユノちゃん。ありがとう、もう大丈夫だよ。うん、わたしは彩花さんが好きなんだ」

「あんたは私なんかよりずっといい恋してんだから、胸張りなさい」

「……ユノちゃんも恋、してるの?」

「いまはしてないわ。でもね、大学の時に妻子持ちの教授と両片想いだったの。なにかあったわけじゃないわ、ただ『ああ、この人のこと好きだなぁ』と思って、相手もそう思ってるのが伝わってくるようなそんな恋だったの。ま、卒業以来会ってないけどね」

「素敵だねぇ」

「ありがと、恋はどんどんした方がいいわ。恋も愛も、女をより魅力的に魅せるスパイスだからね」

「えへへー、わたしはいまのところ彩花さん一択なのです!」

「うん、一途な女はよっぽどのバカやらかさない限り美化されるからいいと思うわよ」

「それ褒めてるー?」

「さあ?」


 お互いに子どもみたいに笑いあって、その日の通話は終わった。

 作業場もリビングも全部電気を消して、ロフトにある寝床に上がってから。唯子はユメトくんがプリントされた抱き枕を抱きしめながら、静かに目を閉じた。

 なんだか、あのもやもやを嫉妬、この感情を恋だと認めたら心がだいぶ軽くなった気がして。いままでの自分は自覚がなくてもいっぱいいっぱいだったんだと気づかされて、なんとなく恥ずかしくて毛布をかぶってそのまま眠りについたのだった。

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