第30話 「……知ってますよ」
「うう……素晴らしかったです、アイ×スピ無印劇場版に勝るものなしです。るいくん、全力でありがとう!!」
「どういたしまして」
半泣きになりながら、両手で親指を空に向けて立てる唯子に苦笑いしながら彩花は手招きする。それにとてとてと開いた空間を埋めるように近づくと、唯子は自然に差し出された手を握る。
東京駅の駅ビル最上階で映画を見た2人はコーラやポップコーンのごみをホールで捨てて駅を出てふらふらとしていた。いや、ふらふらしている様に見えて彩花は迷いなく進んでいることからどこかに目的地があるのはわかるが。しばらく映画の話で盛り上がっていた(と言っても、唯子が一方的に話して彩花はそれに頷いていただけだが)2人。
だんだん人通りが少なくなっていく方へと歩いていた彩花。ふとなんとなく前を向いたとき、そこに既視感があることに唯子は気付いた。違う、既視感なんて曖昧なものではなく。ここは知ってる、だってここは。
「彩花さん、わたしここ知ってますよ! ここをまっすぐ行って右手に美味しいホットケーキの喫茶店があるんです!」
「はい、そこを目指してるんです」
「彩花さん、そこの常連さんなんですか? わたしが最後に行ったのは高校生の頃なのでまだあるかわからないですけど」
「いえ、一度しか行ったことはありません。でも店はありますよ、なんでも息子さんが継がれたようで。電話して調べました」
「?」
一度しか行ったことがないのに、わざわざ電話してまでなぜその喫茶店にこだわるのかわからない唯子は首をかしげることしかしなかったが、ただ。
その一度しか行ったことがない場所を話す彩花の声は大切な宝物をわけてくれるようにひそやかだったことが。まだ夏ではないのに早く出てきてしまったのかみーんみーんと鳴いている蝉時雨の中でよく覚えていた。
そこは隙間に生えたような、知っていなければ気がつかないような店だった。白い壁をところどころに埋め込まれたレンガが飾っている、赤い屋根の喫茶店だった。看板は古くて文字がかすれて見えないようなものがゆらゆら風に揺れている。
チョコレート型の年季の入ったドアを押すと、からんからんと軽快にベルが鳴る。まだ中に入ってもいないのにふくいくとしたコーヒーの香りが唯子の鼻先をかすめる。
(懐かしいな……)
懐かしかった。ここでよくテスト期間なんかは1人で勉強しながらホットケーキを頬ばっていたっけ、なんて思いだすとなんだか気分が落ち着いてくる。
「中、入りましょうか」
「はい!」
一歩進むごとにぎいっと鳴る床も、店の中になぜかある大きなグランドピアノも、カウンター内の大店に所狭しと並べられているコーヒー豆や小鳥の置物や花のガラス細工も。すべてが懐かしくて仕方ない。
繋いだ手を引っ張るようにして、いつもの定位置であった窓際の席に行く。彩花もそこで特に異論はないのか大人しくついてきてくれる。
やがて席について、置かれているメニュー表を見ることもなく唯子は呼び鈴がわりの小さなベルを鳴らした。それから、我に返る。彩花が頼むものを聞いてなかった、メニュー必要だったかもと。しかし彩花は柔らかい笑顔のまま「頼むものは決まってますので」と胸の前で手を振った。しばらくして、男性の店員が来て、注文を取り始めた。
「ご注文は?」
「えっと、ホットケーキと。あ、あれありますか? チョコレートコーヒー!」
「ございますよ。お好みで縁のところに生クリームもお付けできますが」
「お願いします!」
「ぼくも同じものを、生クリームはなしでお願いします」
「では、ホットケーキ2つとチョコレートコーヒー2つ、生クリームなしとありでよろしいでしょうか?」
「はい!」
「では少々お待ちください」
注文を取り終えて、メモをエプロンのポケットにしまうと。店員は下がっていったかと思うとすぐにまた来てレモンの香りのする水を置いて今度こそ本当に下がっていった。たぶんホットケーキを焼くんだろう。
「るいくん、知ってますか? ここのホットケーキ、分厚くて3段なんですよ!」
「バターが大きな星の形をしてるんですよね」
「はい! とっても可愛くて、わたしついてくるはちみついつも全部かけちゃってました!」
「……知ってますよ」
「え?」
彩花が呟いた言葉が小さくて、聞こえず。なにか言ったかと唯子は聞きなおしたがなんでもないですと断られる。不思議に首をかしげるが、それ以上は何も言ってくれなさそうで唯子は早々に諦めた。そして、さっきの映画の素晴らしさについて語っていると、あっという間にホットケーキとチョコレートコーヒーが運ばれてきた。バターの香ばしい香りとチョコレートとコーヒーの甘苦い香りがどこか食欲をそそった。
「えへへー、いただきまーす」
「いただきます」
まずバターがとけたのを見計らってから、そこに小さなミルクポットに入ってついてきたはちみつをたっぷりかける。粘度の濃いはちみつが白いお皿にゆっくりと垂れていくのをうっとりと見つめ、次にチョコレートコーヒーについている生クリームをフォークで掬うと。唯子はそれをコーヒーの中に突っ込むと思いきや。ぱくんと口に含んだ。
その様子を苦笑いで見ていた彩花。自身も一口チョコレートコーヒーを口に含むと、カップを置いてホットケーキに取り掛かる。
「るいくんも生クリームつければよかったのに。ここの生クリーム甘すぎなくて美味しいから、今度してみるといいですよ!」
「……そうですね、今度来る機会があったらそうしてみます」
そう言って、はちみつをかけたホットケーキに綺麗な所作でナイフを入れる彩花を、唯子は。
まるで(今後来ることがないみたいな言い方だなあ)と思いつつも、自分も懐かしの味に挑むため。小さな手には明らかに大きいナイフとフォークをもって。3段重ねのホットケーキに臨んだのだった。
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