第23話 「約束……素敵なサイン、考えておくって言いました」
「出なきゃ……行かなきゃ……」
「ちょっと、唯子あんた大丈夫!?」
最初は大丈夫だったのだ。
早めに出て、会場の準備をしようとユノから持ち掛けられた、唯子は元気に「うん!」と頷いていた。そしてユノが来る前からルビー色の宝石のはまった赤い短めのネクタイを締めて、白い小さな丸いフリルのついたエプロンその下には変わった星のマークにレースが一列の黒いワンピース。ただし肩のあたりが膨らんでいて、袖口にはカフスが止まっている。フリルとレースは同じ色で後ろで大きくリボン結をしている。足は白いタイツで頭にはネクタイと同じ赤いリボンをカチューシャのように巻いていた。どう見てもメイドさんである。
それが、玄関までは嬉しそうにスーツケースをひいていたのに。玄関を出て扉を開けて待っているユノが振り返ったら、脂汗をたらしながらうずくまっていた。ぼそぼそと口からこぼれていたのは呪詛のような謝罪だ。ごめんなさいごめんなさいと晴れ渡る快晴に相応しくないその昏い謝罪がいつまでも続いていた。
「だい、丈夫。大丈夫だから、外に……行かないと」
「なんなら欠席したって! 私がなんとか言っとくから」
「ダメだよ、14人……ううん、今回の抽選でもっと多くの人が泣いてるかもしれないんだよ? だから、こんなこと、で」
「唯子……待ってなさい、私が最強のお守りに電話してあげるわ」
足が震える、脂汗がひどい。呼吸が苦しい。そんなこと最初からわかってた。今日のために、何度も外に出る練習をしたから。それでも1回だ、1回たりとも外に出ることはできなかった。扉の縁を踏み越えることがどうしてもできない。
耳鳴りがする、すべての人に嘲笑われている気がする、完全な被害妄想だと唯子は自覚していた。それでも、言葉が耳から離れない。「赤い目なんて気持ち悪いよね」そんな言葉が胸を、耳を、心を離さないうちはまだ苦しくてたまらなかった。ここから、この扉から出てしまったらなにかが変わってしまう、その変化がどうしようもなく恐ろしくて、自分が惨めだった。他者から惨めだと言われるのではない、自分で自分の価値を貶めている状態が。惨めでたまらなかった。自分を哀れんでいるのではなくただただ空しかった。
「彩花さんが、魔法、かけてくれたのに……」
「……」
「なんで、わたし。こんなにことも、できないんだろう。なんで、普通なことがやれないんだろう……」
「唯子……」
過呼吸に脂汗、尋常じゃない様子に唯子がただ好きで引きこもっていたわけではないと知るユノ。引きこもっていたわけじゃない、引きこもらざるを得なかった。いまだぷるるるるるるると音をたてる自分のスマホが恨めしい、早く、早く繋がれ。あの唯子馬鹿はこんな時になにしてるのよ! 苛立ちが最高潮になった時。ぷつっとスマホが音をたてた。そして繋がった先では嫌になるくらいクールな声がした。
「はい、彩花ですが俺。先生ですか? どうかしま」
「あんたの大好きな先生が大変なのよ! 脂汗と過呼吸起こして! 玄関先でうずくまってんの! なんとかしなさいよ!」
「先生が!? ちょっと小宮山さん、設営よろしくお願いします。俺。先生、先生に代わってください!」
後ろで小宮山がセンパイずるいですよーとかわめいていたがそんなことはどうでもいい。彩花にとって大事なのは唯子だ。あのクソ愚弟!! とユノは内心毒づいた。
ひゅっひゅっひゅっ、満足に呼吸もできない様子に、ユノはスマホを渡しても受け取れないんじゃないかと思い。唯子の耳にスマホを当てる。
『先生、先生! 大丈夫ですか!?』
「あははかひゅっ、おかしいな、彩花さんの声が聞こえ」
『聞こえて当然です。先生、昨日約束しましたよね? 先に会場でお待ちしていますって。誕生日プレゼントくれるんでしょう?』
自分のこと、自分の都合のいいように約束されたことしか話さない彩花に。ユノの苛立ちが募る。なんだこいつは。唯子馬鹿じゃなかったのか、だったらこいつにだったら唯子を任せてもいいと思った私が馬鹿だったのか。
苛立ってスマホの通話画面を切ろうとしたユノは、ふと唯子の脂汗が消えていることに気付く。
「約束……素敵なサイン、考えておくって言いました」
『でしょう? 先生は大丈夫です。他のことなんか何も考えなくていい、ぼくとの約束にだけ耳を傾けてここまで来てください』
「彩花さんとの約束だけ……」
約束、あんな嘲笑よりも、ひどい言葉よりも。自分との約束だけを考えて会場に来てくれという彩花に、ひどいなあと思った。ひどいなあ、ひどいなあ、わたしが彩花さんに弱いってわかってるくせに……。ぽつりと頬に涙の筋が伝った。雫はやがて玄関に落ちてアスファルトむき出しの靴場を汚した。そしてそのころには。ふらりと立ち上がって、唯子は。
「唯子……」
「大丈夫、ユノちゃん。いまなら、彩花さんとの約束があるいまならね、わたし外に出られそうな気がする」
「……じゃあ、早く行きましょ。会場の準備しなくちゃ」
「うん!」
そうして震えた足が踏み出した一歩は。ドアの境界線を越えた一歩は。高校を中退して、この部屋に入った時よりも。とても身体が軽いがした。
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