第三話 アスレイの灰
足音がした。こんなノート読むんじゃなかったと、切ない苦しさに溺れそうになっていた私は、急いで涙を拭って振り返る。
「リリス」
「メリベさま」
主人である第三王女さまだ。結婚を控え、最近ぐっと大人びた。
彼女はまだ十六になったばかりだったが、凛とした佇まいに幼さは微塵もない。
「あら、どうしたの?」
メリベさまは私の赤らんでいた目に気づいたのだろう。眉をひそめ、心配そうな顔をする。私の肩にそっと手を置き、まるで姉のような態度で言った。
「ノート、読んだのね。わかってたわ」
「なにをです?」
鼻をすすりながら問う私に、メリベさまはいたずらっぽい笑みを浮かべる。下級市民出身である私と身分は雲泥の差があるにもかかわらず、砕けた関係を好む王女さまは、いつも気楽に話すよう要求して聞かず、すっかり私自身もそれになれてしまっていた。
「リリス。ごめんなさい。ほら、私の家庭教師ってエイダでしょ?」
「……もしかして、ご存知で?」
ぺろりと舌をだす。私は苦笑した。エイダは当時、私の試験官だった。彼女なら、すべて知っている。いつの間に、この話を王女さまに話したのかはわからないが、「ノートを見たい」という願いを申し出たとき、メリベさまの目がキラキラ輝いた理由がわかったような気がした。
「リリス。あなたに、もう一つ、プレゼントがあるの」
「こんどは何をからかってくるつもりです?」
「まぁ、からかうだなんて」
むくれるふりをしながら、メリベさまは、手のひらサイズの包みを取り出すと、私に軽く振ってみせた。
「これ、なんだ? 驚くわよ」
手渡されたそれは、なんと『アスレイの灰』だった。
世界を越える術のときに使う粉。以前は受験者に使用許可が出ていたのだが、あれから、ますます希少価値が上がり、いまではよほどの理由がなければ手にすることも叶わなくなっていた。
「どうしたんです?」
思わず声をひそめる私に、メリベさまはカラカラと陽気に笑う。
「あなたにプレゼントよ。使って。大丈夫、盗んだわけじゃないから。結婚祝いの中にあったの。珍しいでしょ?」
「使うって」
なにを言い出すのか。すると、メリベさまは私の肩を抱き、顔を寄せた。
「会いに行ったら?」
「む、無理ですよ。ありえません」
「あら、どうしてよ」
きょとんとするメリベさま。どこまで冗談で本気なんだろう。
「だって昔の話ですよ。それに相手は私を忘れています」
「会えば思い出すんじゃない?」
「まさか」
自慢じゃないが私の魔力はあの頃から絶対の効力を発揮した。
記憶を消す魔法は、そう簡単に無効にできるものではない。
だから、そう説明する私に、メリベさまは「それなら、また一から始めたら」と、わけのわからないことを言い出す。
「始めるって?」
「恋よ。ね、あなた、もう一度彼に一目会いたくないの?」
「まさか」
私は笑いながらため息をつき、ノートをメリベさまに開いて見せた。
「読まれました? なかなかの純度の恋心です」
「ええ。ほんとね。私、うらやましくてよ」
あ、でも結婚がいやではないの。
昔から知ってる相手で、王子はいい人だもの。
メリベさまは明るく笑うと、「リリス。あなた、勇気だして」
そう言って、励ますように私の肩をゆさぶる。
「違うんです、王女。たしかに思い出して、気持ちが揺れました。でもそれは、このノートの純度のせいです。いまの私は、もうなんとも思って」
「だったら」
最後まで言わせまいと、メリベさまは食い気味に割り込む。
「だったら、休暇を与えるから、どこでもいいわ。異世界旅行を楽しんだら?」
「いえ、準備があるので」
「結婚の?」
「はい、メリベさまの。私も住まいが変わりますゆえ」
メリベさまは「強情ね」と腰に手を当てる。
「彼が今頃どうしてるか、気にならない?」
「まったく」
「あ、わかったわ。彼、結婚してるかもしれないものね」
それは、たしかに見に行きたくないかも。
メリベさまの苦悩そうな顔に、つい噴き出してしまう。
「ああ、リリス。私、のんきだった? あなたの恋を応援したかったんだけど」
しょんぼり肩を落とすメリベさまに、込み上げる笑いをかみ殺す。
「いいえ。お気遣いは嬉しいです」
「残念だわ」
それでも、と王女さまは『アスレイの灰』が入った包みを、拒む私の手に無理やり押し付けると、「あげるわ」と言って、つかつかと足音高く部屋を出て行ってしまった。
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