8月12日(月)
page 43 母からの電話
母さんからの電話が鳴ったのは、昼を食べてすぐの頃だった。
妹はまた俺に「プール行こ」とうるさく誘ってきて煩わしく、リリスは「ぐるっとしてくる」と言って散歩に出かけていた。
「なお? ちゃんと留守番してるのね」
「ああ、してる、してる」
母さんの声は耳が痛くなるほどデカイ。どうやら、向こうでは工事中のようで、ドリルや重機の音がしている。
「家にいてよかった。遊びほうけてないでしょうね?」
携帯ではなく固定にかけて来た理由は、それか。
「いるよ。ミクもいるけど、代わる?」
受話器から耳を離し、妹に声をかけようとしたところで、「ああ、いいから」という短い指令が飛ぶ。
「そう? あいつ、プール行きたいってうるさいんだよ。昨日は映画行ったらしいけど。あと、寿司。きのう、晩に食ったから」
「プール? 誰と遊んでんの。男の子じゃないでしょうね。もしそうなら、お兄ちゃん、ついて行きなさいよ」
勘弁してくれ。俺は「ともちゃんだか、誰かと遊んでんだよ」と答えてから、「置いてった金、もう少ないんだけど。へそくりとかないの?」と要求した。
これを使ってと母さんが出て行く前に置いて行った二万円は、特に無駄遣いしたわけじゃないのに、残りが寂しくなっていた。あと数日、やりくりするには素麺ばかり食べるにしても、慎重にならざる負えない。
それに、今さらバイトしとけばよかったなんて言っても遅いわけで、俺の小遣いでは遠くへ遊びに行くには心細いのだ。リリスとちょっと普段とは違う思い出を作りたい気分だったから、臨時収入がほしかった。
でも、母さんの返事は意外なもので、「ああ、それなら」とへそくりの在処を言うのかと思えば、「あんたたち、こっち来なさい」だった。
「こっち、て?」
「こっちは、こっちよ。いまね、私がいるうちにと思って、下水道工事すませてんのよ。で、部屋の片付けもしてるんだけど、すっごくてね」
母さんは年寄り二人だとゴミを全然捨てないのよ、とプリプリ怒りながら話す。俺は大きくなる声に合わせて、受話器との距離をとった。
「で、なんだよ。俺たちがそっち行くってのは?」
「だから、手伝いよ、手伝い。ゴミ捨てたり掃除したり。ひどいんだから。母さんひとりだと、倒れるわよ。あんたたち、それでいいの? いやでしょ。だから、こっち来て泊まればいいの。ミクも合宿から帰ったんだし、ナオも部活してないんだから大丈夫でしょ? エアコンは動くから。宿題もって二人で来なさい。電車賃はある? ないなら、食器棚の引き出しにクッキーの缶かんがあるでしょ。紫で帽子かぶった女の子の絵。あれに入ってるから。あ、それと」
母さんは、こちらが口をはさむ余地なく続ける。
「エプロン持ってきてくれる? 白いやつ、タンスにあるからわかると思うんだけど。こっちで祭の手伝いしなくちゃいけないだってさ。当番だっていうのよ、年寄りなんだから順番飛ばしてもらえって言ったのに、そうはいかないんですって」
「白いエプロン?」
「そう、かっぽう着よ、かっぽう着。腕とおすやつ、わかるでしょ。わかんない? おばあさんが着るようなやつよ。あと、そうそう。桶、あるかな。こっちのカビ生えてて使えないから、うちの持ってこようかって」
「桶って。つうか、それ電車で持って行かすわけ?」
「それもそうね。こっちで買うか。ああ、隣に訊いてみるわ。借りられるかもしれないし。じゃ、すぐ来なさいね。ちゃんと着替え用意して、忘れ物ないように。あ、電気とガス、ちゃんと確認して戸締りしてよ。洗濯は終わらせて、部屋干ししとけばいいから」
ガチャリと音がして通話が切れた。
唖然としていると、ポンと肩を叩かれて振り返る。
「兄貴、母さんからだったの?」
ミクが棒アイスを加えて立っていた。俺はいまあったことを説明する。
「ばあちゃんち、行くの? いまから?」
「明日でいいと思うけどな。あと、ミク。かっぽう着どこにしまってると思う?」
タンスにはなく、押し入れをさぐり見つけ出したかっぽう着を確認していると、リリスが戻ってきた。
「そのドレス、何?」
「エプロンだよ。袖あり珍しい?」
どうやら珍しかったようで、リリスは「着てみよう」と俺から奪い取ると、かつぽう着を広げたのだが、着方がわからなかったようで首をひねる。
「あ、なんだ?」
「いや、どこの頭つっこんでんだ。わかるだろ、普通」
かっぽう着姿のリリスは、似合わな過ぎて、珍妙だった。
「フリフリね。誰の、これ」
「母さんの。で、実はさ」
リリスに話そうとしていると、妹がスマホ片手にやって来て、
「花火あんだって」とテンション高めに話し出した。
「ばあちゃんちの祭。地味かと思ったら、ま、地味は地味なんだけど、去年から打ち上げ花火してるんだって。百発もない数らしいけど。屋台もあるだろうし、なんだ、楽しみじゃん」
ウキウキしている妹に、リリスが「花火ってこっちにもあるの?」と言った。
「こっちにもって、まあ、あるけど」
魔法が存在する世界の花火とこちらの打ち上げとは違うかもしれないと思いつつ、妹がいるので詳しくは話さなかった。「楽しみだ」と騒ぐ妹に、「おい、ちゃんと準備しとけよ。向こう、ど田舎だから、いるもんは買えばいいなんて、ぜいたく、通用しないんだから」と脅して、急かす。
「兄貴、宿題持ってくの?」
背を押すなか、ふり返る妹に、「ああ」と答える。持って行かなければならないと思っているのは宿題ではなく、この「記録」ノートなのだが、まあ、せっせと書いている姿は宿題としているのと変わらない。
リリスは聞いているだけで、大方の話が飲み込めたのか、「お出かけするの?」と目を輝かせる。
「田舎だけどな。山はある。あと、川くらいはあったかも」
「どうやって行くの? あのハンドルでぶーんのやつ?」
「車のこと言ってんのか? ありゃ、免許ないからダメ。電車で行く」
リリスは電車ではわからなかったようで、「でん、なに?」と言ったのだが、俺が「あれだ。ガタンゴトンのやつ」と言うとわかったようで、「ああ」と手を打つ鳴らした。
「あれ、乗れるの?」
「乗るよ。人、乗ってるだろ?」
「囚人かと思ってた。それか、奴隷」
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