Page 38 あのとき

 その日の放課後だったか、それとも別の日だったのか。もう思い出せない。部活前に帰宅しようとしていた萩谷を俺は捕まえて、話をしたんだ。場所は昇降口の近く。部活に行く奴らや帰ろうとしている奴が行きかっていて、多少人目はあったのだが、裏まで引っ張って行こうという気にはならなかった。


 もしかしたら、そうしていたほうが良かったのかもしれないと、自分の配慮のなさを、いま、思い返し後悔している。それで何かが大きく変わったとは思えない。それでも、あの時間、あの場所にいた萩谷は苦痛を感じていたはずだ。


「あのさ」


 俺の声は、いつもより響いていたと思う。萩谷はうつむき、耐えていた。苦痛そう。そんな姿に気づいていた。


 いや、気づいて、わざとそうしていた。苦痛を感じさせてやろうと、内心いじわるに思っていたのは事実だ。すべてじゃないが、確かに俺はそう思う気持ちがあった。あの場所で、人目を気にしながらも、声をひそめるわけでなく、また、通り過ぎる視線を煩わしく思うどころか、「じゃあな」と手を振り、陽気に答えていた。


「お前、嫌われてるぞ」


 どういう流れで、そう口にしたのか。俺はためらうことなく、この言葉を選んでいた。萩谷はうつむいたままで、特に反応を示さなかった。その態度が、無性に腹立たしくて。だから、ちょうど横を通った女子数人に、俺は話しかけていた。


「萩谷のこと、どう思う?」

「え?」


 当時、同じクラスだったのか、それとも二年のときに同じクラスだったのか。それすら思い出せないけれど、彼女たちは、びっくりしたような顔をして立ち止まり、ぎこちない笑顔をみせた。


「こいつ、萩谷っていうの、知ってる?」

「あ、うん。知ってる」


 互いに目配せし、肩を軽くつき合わせている。ふふという笑い声。俺は萩谷に、「よかったな。お前のこと知ってるって」と、わざと声を大きくして言った。くすくす笑いが広がる。


 萩谷は顔を赤くしていた。「この中に好きな子でもいた?」そう、問いかけそうになって、さすがにやり過ぎだと自制した。


「じゃ、バイバイ」


 手を振り、さっさと女子たちを追い払う。ちらちらとした視線は長い間まとわりついていた。萩谷はずっと赤い顔をしたままで、なかなか色が引きそうにない。


「なぁ、退部届だせよ」


 先ほどよりも、声を低めた。「それとも、続けるつもりなのか?」

 反応のなさに、つい、声がでかくなる。


「はっきりしてくんなきゃ、困るんだよ。俺、部長だし。お前、無視するわけにもいかないじゃんか。練習時間減ってるの、お前、わかってる?」


「ごめん」


 小声だ。ずっと、顔を上げない。俺と目も合わせない。うっとうしい。ため息。数秒、沈黙のままにした。萩谷は身動きひとつせず、直立不動。俺はというと壁に手をかけ、足を曲げたり伸ばしたり。で、また、ため息だ。


「なぁ、どうすんの。お前、変だよ。そんな暗いやつだった? 一年にも、お前を心配してる子いるよ。『萩谷先輩は?』って聞かれるんだ。顔くらい出せよ。制服のままでいいからさ。な?」


 本当は「萩谷先輩は?」なんて聞かれたことはない。ただ、周りから伝わってくる情報では、どうしたんだっていう声はあって、一年や二年の間では、三年がもめているって話で騒がしい。


 試合が近い。大事な時期に、部内がごちゃごちゃするのは困る。どうして、萩谷が部を辞めないのか、態度をはっきりしないのか。そればかりが気になっていた。どうして部に出てこないのか、何があったのか。あの頃の俺には、そんなこと、ひとつも思い浮かばなかった。


「退部届は顧問の木口に出せばいいんだよ。辞めますって書くだけだって。べつに引き留められないから安心しろよ。しつこく退部理由きかれもしないから。『合わないから』とか『勉強集中したい』とか。あるだろ、そういうの。緊張すんなら、職員室まで、俺がいっしょに行ってやろうか?」


 これは嫌味でいったわけじゃない。親切心だった。

 俺は本気で萩谷に気をつかい、同情げにそう言ったのだ。


「受験勉強に集中しますって言えば、はい、そうですか、で終わるって。なに悩んでんだよ。あ、もしかして、親が反対してるのか?」


 萩谷の親、厳しいんだろうか。親の仕事は知らないが、彼には兄がいて、県内でも有名な進学校に通っていたはずだ。部活を途中で辞めることに、いい顔をしないのかもしれない。内申書に影響すると、先生はそんなことはないと話していたが、やはり気にする奴は多い。推薦狙いならなおさらだ。


「萩谷。なんか言えよ。まさか俺が怖いわけじゃないだろ」

「怖くは」

「だろ?」


 やっと反応した。そう思い、喜んだのだが、また、萩谷はだんまり。猫背になり動かない。何分経過したのか。そろそろ切り上げて部活に出たいと思っていた。


「倉田は……悪くないよ」

「なに?」


 聞き取れず、身を寄せる。俺の背がまた伸びたのか、萩谷が丸くなりすぎているのか。ずいぶん身長差を感じて、脅しているような気分になる。わずかに距離をとり、やさしく問いかけた。


「なんて言った?」

「倉田は」と、萩谷はつぶやく。「知らないんだろ?」

「なにが?」


 倉田は。倉田は。そう、萩谷は繰り返した。なにが言いたいのかさっぱりで、肩を揺さぶって問い詰めたい衝動を押させるのが難しかった。萩谷はちらと上目づかいになり、俺と、それから周囲に視線を走らせてから、再び、「ごめん」となぜかあやまって、身を縮めた。


「ごめん、ごめんじゃなくて。部活出るのか、出ないのか、はっきりしろよ。俺が責められるんだ。部長、どうにかしてくれってさ。ほら、城田や飯島あたりがせっついてくるんだよ。『部長、幽霊部員ってアリですか』とか言いやがって」


 城田や飯島は同じ三年だ。クラスは違う。同じになったこともない。バスケ部では、スタメンキープ組ではなく、練習試合くらいしか活躍の場所がない奴らで、特に親しくしていた部員じゃない。それでも、同じ部の仲間だ。お調子者タイプの奴らだと思って、きらってはなかった。


 その二人の名前を出して。ふと、そうか、萩谷は城田たちは仲が良かったな、と思い出した。クラスが同じだったろうか。なんとなく、彼らとつるんでいたイメージが浮かび、俺は、「あいつらも呼んでこようか」と良い提案だと思って口にした。俺と二人よりも、彼らがいたほうが話やすいかと思ったのだ。


 でも、うつむいていた萩谷が顔を急に上げ、あごをガクガクとさせ、それでも、声を出さずにいる姿を見て、マズいことを言ったのかな、と瞬間だけ、さっと頭をよぎった。でも、すぐに忘れてしまった。


 あとになって、あの話をきいたとき、この一瞬の場面をよく思い出した。サインだったかもしれないと。そう思い出すたび、苦くなる。でも、俺はあのとき深くなんて考えてなかった。さらさらとした川の流れのように眺めて、本当は泥の中にいたあいつに手を伸ばそうなんて思わなかった。


「なんだ、ケンカしたのか? それで、気まずいってわけか」


 反応はなかった。それでも、さっきの様子で、部に顔を出さない理由を引き当てたと思った俺は、ガッツポーズしたくなった。自然と顔がにやけていた。

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