Page 30 おにいちゃん
「あ、ピンポーンだって」
リリスが反応する。
そして、「あちゃ」と訪問客を透視したのか、顔をしかめた。
「なんだ、誰だよ」
言いながら俺は玄関へと向かった。なんとなく予想はついていたけれど、それでも、まさかなって。けっこう、はっきり断ったはずだし、いいかげんこの暑い中、麦茶一杯飲むためにやってはこないだろうって、期待して。
しかし、彼女はタフなんだろう。今日はノースリーブの紺色ブラウスに、涼しげなブルーのデニムという恰好で参上した。美丘だ。
「おはよー、倉田くん。あのね、すず、プールに行こうかなって思って」
「え、プール。行く行く」
はしゃぐリリスの声に、「だーれー?」と間延びした妹の声が重なる。
俺は、「ひっこんでろ」と叫び、リリスにも黙るように一瞥をくれた。
まぁ、これで黙るなら苦労はない。
「もしかして妹さん? ミクちゃんだっけ」
「あ、ああ」
なぜ、妹の名前を知っている。貴様も魔女か。
俺が気色ばんでいる間に、妹がドタドタと走って来る。
美丘は、「はじめまして。お兄ちゃんのクラスメイトです」とにこやかにあいさつをして、男どもか「きゅーん♡」しちゃうと絶賛の、控えめだが愛らしさ抜群のスマイルをした。妹は、「あ、ども」と無愛想に答えると、じろじろと上から下まで美丘を観察する。
「もしかして、兄貴の彼女ですか?」
「えっ」これは美丘。
「ううん。セフレだよ」これは、バカ。
「おいっ」
ダンッと足を踏み鳴らしたくなるが、グッと堪える。美丘は「え、まだ、そんな……」とポッと頬を赤らめ、長いまつ毛を震わせながら目を伏せるというポーズを完璧にこなした。妹は「ふうん」と腕組みだ。
「で、プールに行こうって約束してたの? へぇ、兄貴、今日は一日家にいるって言ってたけどなぁ。あたしには、家に誰も呼ぶなって言ってさ。なんだよ、女連れ込んで、やらしいことしようって」
「してねーだろ。バカ言うな」
「や、やらしいことっ。ナオ、ほんと? 私、見ててもいい?」
「こっちもバカかよ。黙ってろ、マジで」
両脇でガアガアうるさいバカ二名は放っておくとして、まずは美丘を追い出そうと、「ごめん、家で用事あるから」と誘いを断った。それに、美丘は「そう?」と小首を傾げたあと、なぜか図々しくも、サンダルを脱いで、玄関をあがる。
「それじゃあ、お勉強する? 私、倉田くんに教えてもらいたい箇所があって」
「えー、兄貴に何を教えてもらうんですかぁ。高校生の夏は、あたしたちとはちがいますねぇ」
「な、なにすんのっ。ね、なにすんのさ」
「いいかげんにしないと、殴るぞ」
「いいよ。母さんに訴えるもん」
「やれるもんなら、やってみな」
「ふふ。二人とも仲がいいね」
どこが。頭痛がする俺とは反対に、美丘はるんるんで廊下を進もうとする。「お邪魔しまーす」との言葉に、妹があとを追う。俺もついて行こうとして、肩をつかまれた。リリスが「プールは?」と、名残惜しそうにジタバタ足踏みして、ぐいぐい腕を引く。
「プール、プール」
「プールは、水遊びのことだぞ。薬品くさい水に、半裸で子供から年寄りまで浸かって、鼻水やらなんやら、きったないゴミが浮かんでんだ。お前、そんなところ行きたいか?」
俺が耳元で訴えると、リリスは「げー…」とやっと納得したのか、「行かない、プール」と肩を落とした。
「だろ? 家でゴロゴロしてるのが一番だって」
「ゴロゴロ、あきた。私、ちょっとブラついて来る」
「え、おい」
すいっと身軽に移動すると、リリスは消えるように、玄関を出ていってしまった。いつ帰るのか、なるべく早く帰れよ、とか、そんな声をかける間もない。美丘が来ているのに関心がないのかよって。さっさとどこかへ行ってしまったことに、俺は拍子抜けして、思わずあとを追いそうになった。
「兄貴ぃ、あの美丘って子、ヤバイよ」
つんとシャツの背を引かれて、顔を向けると、ご立腹中の妹がいた。
「アイツはない。化粧美人だよ、きっと。地はブス。ぜったい」
「いや、すっぴんじゃないのか、あれは?」
そんなに、化粧が濃いようには見えない。目元だって、さっぱりしているし、女子でたまにいるような、目とまつ毛とどっちが大きいのかわからないようなタイプとは、美丘は違う。そう思っていたのだが、この発言は妹を怒らせたらしい。
「けっ」と罵ると、「バッカだね。あんなんテクニックじゃん」と思いっきり腕をグウで叩く。
「あんなの彼女にしたら、あたし、怒るからね。兄貴、趣味悪すぎ」
「いや、その心配ないって」
「心配だって! ぜったい性悪」
「じゃなくて。美丘は彼女にならないし、彼女自体、作る気ないって話しただろ? 騒ぐな、うるさい」
「ほんと、彼女いらない?」
「ああ」
「超美人が現れても?」
「現れても、だ」
パアと表情が明るくなる妹。見事な変化に、つい吹き出してしまった。
「なんだよぉ。笑うなぁ」
「わるい。でも、俺は自分より、お前の彼氏話のほうが興味あるな」
「か、彼氏なんていねーもん。テニスラケットが相棒だもん」
「はいはい、そうかよ」
「そうだもん。男なんかクセーだけじゃん」
「そうか、俺も」
「兄貴は、男じゃないもん」
いや、男だろ。なんだと思ってんだ。
ついっと頭を軽く押すと、妹は「むうぅ」と小さくうなる。と。
「わぁ、ほんと仲いいのね」
うふふぅ、といつの間にやら、廊下を戻って来た美丘が、手をパチンと打ち合わせて感激する。が、よく見ると、目は笑っておらず、俺を見ているようでいて、妹に視線が集中している。不穏。ぶるっと震えそうになるのをごまかして、「麦茶でよかったら、飲む?」と、美丘に勧めた。
「うん。ごめんね。ありがとう」
「ごめんって思うんなら、帰ったら?」
「おい、ミク」
咎めると、妹はタコかとツッコミたくなるほど唇と尖らせ、
「おにいちゃん」
ここしばらく言ったことのない呼びかけだ。なつかしい……とは思わないが。それに、急に、がしりと腕に抱きついてきた。
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