本の十字路
萩森
本の十字路
彼とは今まで沢山話をしてきたけど、どんな話をしたのかと聞かれてしまうと、具体的な言葉は出てこない。彼との会話は、酷く曖昧で他愛も無い話ばかりだったのだと気付いた。天気だとか、新聞の一記事だとか、最近食べたものとか、多分そういうものの話をしていたんだと思う。
思い出そうとすればするほど、思い出すことがない。彼の名前だって、髪の色、目の色、好きなものだって知っているけど、それだって全て、私の捏造したものかもしれない。私は彼のことを、何も知らなかったのかもしれない。小さなテーブルの上の本だって、私は読んだことがなかったし、目を閉じた彼が座る樫の椅子が、彼のお気に入りだったことも、私は後から知った。
私が彼のことを知ることは、もうなくなったのだ。彼が死んだ今、私は彼を少しだけ分かろうと、彼そっくりの行動をしてみるしかないのだ。所詮、自己満足に過ぎない。けれど私は、彼を分かりたかった。理解したかった。彼は私を理解してくれたけど、私が生前の彼を理解することはなかった。恥ずかしいことに、私はそれを、彼の死と共に初めて知った。
〇
彼は、へらり、と気の抜けたように笑う人だった。彼のその顔を見ると、自分の中の薄暗い部分がなりを潜めて、穏やかな気分になった。
彼は物知りだった。雑学から専門的なものまでよく知っていた。大量の本を読み、壁という壁に本棚を置いていた。けれど彼の持つ本達は、それにすら入り切らないものだから、床にはいくつもの本のビルが立っていた。
彼はコーヒーよりも紅茶を好んだ。たまにコーヒーを飲んでいるのを見たことがあるけど、彼はへらりと笑って、「やっぱり香りは紅茶の方が良いね。私は紅茶が好きだよ」と言っていた。
彼の目は、オリーブ色をしていた。とろりとしたその瞳が、私は苦手だった。彼自身の中身は見えないのに、自分の中身が見透かされているような、一方的な気持ち悪さがあった。けれど、暗い場所では、例えば夜のベランダだとか、彼のオリーブ色の奥に、確かに光があるのだとわかる。ふわふわとタバコを吐き出す彼の目を見て、私はそっと安心していた。私はタバコを吸わないが、彼がタバコを吸う時に隣に居たがる理由はこれだった。
彼は私に、よく故郷の話をしてくれた。海があって、山があって、高い建物なんてほとんど無い。港のある海はそんな綺麗なものじゃなくて、水の中は見えないし、ゴミが打ち上げられた砂浜は、裸足でなんか歩いたらすぐに硝子片が刺さってしまう。けれど、そのさらさらした砂を踏むのが好きで、よく裸足で海を歩いては、傷を作って帰って怒られた、と。いつもは相手の目を見て話す彼が、この話をする時だけは、遠くの方を見ていた。
彼と話すと、彼はうんうんと頷きながら聞いてくれる。けれど、その頷きもなく、彼がフリーズすることがある。何かを考えているのか、説明の下手な私の話が理解できなかったのか、それともそのどちらでもないのか、私にはわからない。そういう時は、しばらく周りをぽかんと眺めて時間を潰す。長くもないその時間が過ぎると、彼はゆっくりとティーカップを持ち上げて、紅茶を飲む。そうしてへらりと笑って、「さて、なんの話しをしていたんでしたっけ」と言って、またいろんな話をしてくれるのだ。私が話す時は、時々そうなってしまうので、私は聞き手に回ることが多かった。相槌を打ったり、たまに質問したり、彼は紅茶を、私はコーヒーを飲みながら。
〇
紅茶を淹れて、彼の部屋の真ん中、小さなテーブルにソーサーを置いた。樫の椅子に座る。背もたれの装飾が痛い。彼はいつも、この椅子に背筋をすっと伸ばして座っていた。カップの縁に、スプーンをかちりとも当てずにミルクをかき混ぜる彼を真似して、丁寧にかき混ぜてみたけど、かちり、と金属と陶器がぶつかり合った。
左手でソーサーをもって、細いカップの持ち手に右手をかける。彼の指は細いから、人差し指と中指をかけられていたけれど、私の節の太い指では、中指は入らなかった。不安定なまま持ち上げると、独特の香りがする。私はこの香りが苦手だったが、彼を理解したくて、そっとカップを口に運んだ。なんとも言えない味が口の中に広がる。やっぱり紅茶は苦手だった。用意していた角砂糖をドボドボと入れて、雑に掻き混ぜる。砂糖水のようになってから、私はやっとそれを飲み干した。空になったカップをソーサーへ戻す。やっぱり、彼のことは理解できなかった。
彼の部屋を見渡した。乱雑に立っていた本のビルは、綺麗な並べられていて、そのビルの間の、フローリングの床が十字になっているのを私は知っている。彼は十字の中心で、樫の椅子に座って、眠るように死んでいた。どうして死んだのかはわからない。彼のことはわからないだらけだ。色白の肌を、いっそう青白くさせていた。だけど苦しそうな表情ではなく、私にとって、それだけが唯一の救いだった。夜に彼の瞳を見た時のように、安心した。
私は彼の名前を知っている。家を尋ねた時に、へらりと笑うのを知っている。キャスターの甘い匂いをさせているのも、私のためにコーヒーの淹れ方を練習したのも、人と話すのが好きなのも、紅茶に合う菓子を持っていくと喜ぶのも、知っている。知っているけれど、それと理解するのとは意味が違った。私は彼を知っているけど、私は彼を理解できなかった。
ベランダで、彼の持ち物だったキャスターの箱を取り出す。肺に入れないように、ゆっくりと吸った。不味い。彼のことが分からなかった。彼だって実は分かっていなかったんじゃないのか。自分のことも、私のことも。私が理解されていると思い込んでいただけで、彼もまた、私を理解しようとしてくれたのだろうか。
わからない。わからないのは嫌いだが、もう機会は失ってしまった。
彼は良い友人であった。そうやって締めくくって、記憶の片隅に放り込んで、私は時々思い出すのだ。脚色された会話を、美化された景色を、捏造された思い出を。
本の十字路 萩森 @NHM_hara18
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