第10話 再びの約束と束の間の休息
「国王様、何か国外警備騎士団から報告は届いていらっしゃいますでしょうか」
「えっ、あ……はい。今朝、伝達係が戻りました」
国外警備騎士団が出立してから、王城の中は見るからに慌ただしくなっていった。長期間にわたる警備へ必要となる資材の供給に、これまでろくに集められなかった国外の新たな情報をまとめて分析すること。魔獣の出現は確かに確認されたわけではないが、その噂は国民に広く伝わっており、その対応にまで時間を割かなければならない。
「まだ魔獣と相対してはいないようです。その痕跡も見つけられないようですが、国民が自主的に外出を避けているから被害がなくなっただけかもしれません」
「とりあえず新しい被害がなくて安心いたしました」
私はほっと胸をなでおろした。行方不明者の話は時折届くが、以前のように何者かの死が確認されることはなかった。このまま何事もなく、全てが収束してくれればいいのに。
「そうですね。被害がないことが、何よりも重要ですから。……ですが油断は禁物です。ティムほど腕の立つ人でも、魔獣相手ではひとたまりもないかもしれません。できる手は打っておかなければ」
もう何日も寝ていないのではないだろうか。眉を顰めつつも書類に向けられた目の下には、しっかりと隈が染みついていた。
「それより、レイ様はお疲れではないですか?」
「いえ。私は大丈夫ですが……」
「それならよかったです。こちらの手が回らず、手伝ってもらってばかりで申し訳ありません」
ライオットは安心したように目を細めて笑った。
「私にできることがあれば、遠慮せずお声かけください。私よりも国王様のほうが、休息を必要としているように思えますから」
「そっ、そうですかね。まだ余裕があると自分では思っているのですが……」
「ちゃんと休まれてくださいね」
「……分かりました」
見るからに疲れているというのに、ライオットにはその自覚があまりないように思えた。私が念を押したところで、彼がその言葉を聞き入れてくれるかは分からない。私のような人がこの状況で休むように告げることも、正しいことなのか判断できなかった。
「そうです! もし時間があるようでしたら、今晩一緒に食事でもいかがですか? ずっと張りつめた環境で気疲れしてしまっては、いざというときに対応できなくなりますし。……レイ様がよろしければ……ですが」
「しっかり休んでくださるのであれば、喜んでお受けいたします。このような状況ですので、前回のように着飾ることはできませんが」
「ありがとうございます。今度こそ、約束は必ず守ります」
ライオットは頬を少し赤く染めて、それはもう嬉しそうな表情で言葉を告げた。これが彼の本来の姿なのだろうか。普段の国王として取り繕っている様子より、ずっとずっと子供っぽい。
「それでは、夕食の時間になりましたらまた伺います」
私は軽く礼をして彼の執務室を出た。
私も夕食までに終わらせなければならない執務が溜まっている。それはライオットとは比較にもならないほど少ないと思うが、それだけ広く深く気を配ることができるということでもあった。
「私がやるべきこと……」
今も自分の役割を定められずにはいたが、現実では悠長に考えていられない。とにかく目の前の問題を完璧にこなすことだけに集中して、私は明るい未来がやってくるのを待った。
「レイです。失礼いたします」
「レイ様っ! もうそのような時間でしたか」
夕食の時間が近づき、私はライオットの執務室を訪れた。扉の先では相変わらずライオットや宰相が書類の山と格闘していたようで、その忙しさにまた約束の時間を忘れていたようだ。
「申し訳ありません。すぐに準備いたします」
「いえ、ゆっくりで構いませんよ。私との約束は国王様に休んでいただくことですから」
「そうでした……」
呆けたような表情は、執務では見られない本来の彼の姿であるような気がした。こんな姿を見られるのは、疲れきった今だけだろう。
「後片付けは私にお任せください。せっかくのお二人のお時間ですから」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます」
「では、よいお時間を」
私はライオットに手を引かれ、宰相の残った部屋を後にした。
「お待ちしておりました。国王様、女王様」
そこでは、料理長が直々に私たち二人を待っていた。
「遅くなって申し訳ありません。食事の準備はよろしかったでしょうか?」
「お気遣いいただきありがとうございます。準備は整っております。本日はお二人で過ごされるということでしたので、私もテーブルが整い次第、退席させていただきます」
「ありがとう」
部屋の中心に置かれたテーブルに、私はライオットと向かい合って着席した。ほんのりと薄暗い部屋に、ろうそくの明かりがチラチラと揺れる。静かな空間に流れる穏やかな音楽は日々の喧騒を忘れさせ、テーブルの上には料理長の手で様々な料理が並べられた。
「あっ、今日はワインは……」
「飲まれないのですか? 確かこの銘柄は、国王様のお好きなものだったと記憶しておりますが……」
それはこの国で生産された一般的な赤ワインで、お酒を飲む席では彼がいつも手にとっていたものだった。
「このような状況ですし……。何よりも、レイ様はまだ口にすることができませんでしたよね」
「確かに私は十六ですので、ぶどうのジュースしかいただくことはできませんが、国王様がいただく分には問題ないはずです。何よりも国王様に休んでいただきたいので、どうかこの場では遠慮なさらないでください」
「いえ、ただ気分ではないだけですので。レイ様と同じものをいただいてもよろしいでしょうか?」
「はい。すぐに準備いたします」
ライオットが私に気を遣っていることはすぐに分かった。彼は昔から自分を隠すのが上手で、大切な場面などではいつも完璧な人間を装っていた。その完璧さが普段の彼と違いすぎて、私やティムにだけは嘘がバレてしまう。
今目の前にいる彼も、先ほどまでの疲れた様子も約束を忘れて焦っていた気配も隠してしまって、本当に威厳ある国王様だった。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
ライオットが手にしたグラスに注がれたのは、私のものと同じただのぶどうジュース。私の目では赤ワインとの見た目の違いも分からなかったが、香りを確かめたライオットは満足したように頷いた。
「では、私はこれで失礼いたします。ごゆっくりお楽しみください」
料理長が部屋を後にすれば、そこは二人きりの空間になった。祝言を挙げて王位を継承して、夫婦となっても訪れることのなかった時間。よくよく考えれば、夫婦となる前でもそのような時間はなかった。
「まずは、乾杯いたしましょう」
「はい」
ワイングラスを視線の高さに掲げ、互いの瞳をじっと見つめる。ライオットが小首を傾げてふにゃりと笑ったので、私もつられて目を細めた。
「おいしいですね」
グラスから一口。芳醇な香りに、雑味のないすっきりとした味わいが口の中に広がった。
「えぇ。この国自慢のぶどうが使われているのですから」
私の慣れ親しんだ味。そして私が思うこの国の魅力の一つ。既に国という概念すら怪しいこの世界の状況で、今の言葉は皮肉になってしまったかもしれない。
「守りたいですね。人の命や住む場所だけでなく、生活や文化も含めて。……かつてそうであったように、怯える必要のない世界を作りたい」
「……そうですね。道のりは大変かもしれませんが、国王様ならきっと導くことができると思いますよ」
そこにお世辞が混ざっていたのか、自分でもよく分からなかった。ただ一つ言えることは、ライオットは優秀な人で、私は彼を想像以上に信頼しているということだけ。
「ありがとう。……さぁ、せっかく
「そうですね。どれも美味しそうで迷ってしまいます」
私が様々な料理に視線を泳がせながら、ふとライオットの姿をその視界に捉えると、彼は幸せそうな表情でこちらを見つめていた。ボーッと固まったままの彼は、相当に疲れを溜め込んでいたのではないかと少し不安になってしまう。
「あの……。どうされましたか?」
おずおずとライオットに伺いを立てると、彼は少し驚いたように笑って答えてくれた。
「いえっ、すみません。レイ様に笑って頂けたことが嬉しくて。料理長には感謝の言葉を伝えておかなければと思いまして……」
恥ずかしげに伝えてくれた彼の言葉は、そのまま私が返したいと思ったことだった。
「それなら私も、彼にお礼を申し上げなければなりませんね。……こうして安らかな表情を作っていただいて、国王様に寛いでいただけたこと、誠に感謝いたしますと」
こんなにもゆったりとした時間を過ごしたのはいつ以来だろうか。悩みも忘れて笑顔になって、それも心からの喜びから来るもので、それを分かち合う相手がいてくれる。
幼い頃から付き合いのある彼だから、こんなことも言えるのだろう。日常の些細なことでも真剣に聞こうとしてくれる。力を抜いて笑った顔は、幼い頃から何も変わらない。
「レイ様は本当に美しいお方だ。前国王様から受け継いだ燃えるような赤髪は芯の強さを、星のような黄金色の瞳は未来を見据えて輝きある世界へと導く力を表しているようです。レイ様の笑った顔を見るだけで心が温かくなって、この時間が永遠に終わらなければいいのにと思ってしまいます」
お酒も飲んでいないのに饒舌になったライオットは、普段たどたどしくなって言えない言葉を恥ずかしげもなく並べ立てた。
「私はレイ様と夫婦になれて……」
ライオットがその言葉の続きを告げることはなかった。何を察したのか、何でもないと苦々しく笑って見せる。先ほどまで見せてくれた、心からの笑顔ではない。この場を気遣って作った偽物の笑顔。
また、失敗してしまったかな。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、お食事だけでなく部屋まで送っていただき感謝いたします」
あの後何事もなく会話は続き、食事を終えてもライオットの笑顔が崩れることはなかった。
「お身体を大事にされてください。私はこれで。……いい夢を」
「はい。国王様も、しっかりと休まれてくださいね」
寝室の扉を閉める直前、彼の瞳に映ったのは私の姿ではなく、部屋の片隅に置かれた鎧の山だった。
夫婦になれて……。その言葉の後に、ライオットが言いたかったことはいくらでも思いついた。しかしそれを言わせてあげられなかったのは、彼が告げた言葉の数々に、彼でない他の人物を私が重ねてしまっていたからなのだろう。
あの人だったら何と言っただろう。このままの言葉をくれただろうか。もしこんな言葉をくれたのなら私は……。
どうしても、ライオットからそれらの言葉を素直に受け取ることができなかった。あの人からだったのならどんなに嬉しかっただろうか。もうこの世にはいないはずの、私が殺したあの人からなら。
その人の姿を消そうと努力して、宰相に反対されながらも無理やり抑えこんだはずだった。なのにどうしてか、そばにいた時よりその人の姿が濃くなっていって、今更打ち明けられずにいる感情が滝のように流れ出てしまいそうだった。
「ごめんなさい」
何に対しての謝罪なのか。それは自分でも分からなかった。
あの人の命を奪ってしまったこと?
真っ直ぐ見つめてくれるあの人の目を、私は見つめ返すことができないでいること?
それなの変わらず接してくれる、彼の優しさに気づかないフリをしていること?
謝らなければならないことが多過ぎた。それはもうみんなに申し訳なくなって、自分がいる女王という立場が怖くなるほどに。
どこが強いというのだろうか。どこに輝く未来が見えるというのだろうか。
ライオットが食事の席で告げてくれた言葉に、今更ながら同意できない。彼の見つめる私の姿は本来あるべき女王の姿で、本当の私はそんなものではない。
考えば考えるほど深みにはまっていくようで、また私は目を逸らすことしかできなかった。
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