第8話 苦悩との付き合い方

「何があったのですか?」


 それは私が王様の執務室を訪ねたときのことだった。扉を叩いた瞬間、室内に走った緊張は廊下にまで伝わっていた。


「これから騎士団の分隊を作って、国の周囲を巡回してもらうことになっただけですよ。ティムにはその隊長に就いてもらおうと思っているのですが、そうなると騎士団全体の編成を考え直す必要が出てくるので」


 そこには国王と宰相の他に、騎士団団長と副団長まで顔を出していた。ここまでの人物が揃うということは、よっぽどのことが起きているに違いない。しかも国の周りを巡回しなければならないような何かが。


「そうだったのですね。……私にできることは、何かございませんか?」


 王様は私が執務室を訪れてから笑顔を崩すことなく、また会話を再開しようとする様子もなかった。それに従うように他の人物も口を閉ざしたまま。となればここで行われていた会話に、私が入る余地はないということなのだろう。

 つまり私の質問の答えは一つ――。


「いや……、特にはないかな」


「分かりました。では、何かあればまた申し付けください」


 私はスカートの裾をつまみ、軽く会釈して部屋を後にした。このような事態になっても、私の日常は変わらない。私にできる仕事はないと、そう言われるためだけに執務室を訪れることが日課になりつつある。


 部屋にいても仕事はない。執務室を訪ねても回ってこない。そんな私の仕事とは、私は何をすべきなのか。一人心の中で繰り返す問答に、納得のいく答えが出る日は来るのだろうか。



「どうでしたか?」


 部屋で待機していたアンに、私は首を振って応えた。これで私の今日の仕事は終わった。これから増えるということもないだろう。


「城下へ視察に行かれては?」


「ダメね。前回からそれほど日が経っていないし、今は護衛に人を回す余裕がないわ」


「では城内での仕事の確認や顔出しなどはどうでしょう?」


「空気が張り詰めている中で、私のような者が訪れたらどうなるか」


 せめて暗い顔はしないように。笑顔で言葉を返そうと心掛けてはいたものの、それはなかなかに難しいことだった。

 アンが提案してくれたことは日頃から私個人でできる執務であり、上に立つ人間として欠かせないもの。今のような状況でなければ、その提案の通り、私は城内のあらゆる場所に話を聞きに行っただろう。


「息が詰まりそう」


 何もできずに有り余った体力は、留めておくつもりだった本心までも声にしてしまう。数日前から次第に濃くなっていった緊張感に、私は無関心のままでいられなかった。城内で出会う人々の話し声や物音、その仕草や視線に気を配り、私への関心が小さく収まるように動かなければならない。それはまるで人が鎖へと変化して、手や足に絡みついたかのように。


 私には何も情報が伝えられていないと知ったら、彼らはどう思うだろうか――。

 ろくな仕事もできずにただ無意味な時間を過ごしている私のことを、どう捉えるのだろうか――。


 これまでとは正反対の生活を送ることになって、私は自分に求められていることにも、為すべきことにも確信できなくなっていた。


 自分は本当に正しい道を進めているのだろうか――。

 どうしてこの道が正しいと言えるのだろうか――。


 それは短いながらも生きてきた人生の中で、味わったことのない恐怖そのもの。考えれば考えるほど悩みは根本的な問題へと収束していき、見つかるはずのない答えを探し求める、愚かな自分の姿を見せつけられているかのようだった。


 何を目標として、私は女王となったのか――。

 どうして私が女王でなければならないのか――。


「ここでは気を楽にされてください。この部屋だけは、これまでと何も変わりませんから」


「ありがとう」


 その言葉に、どれほど救われただろうか。


 この世界に変わらないものなど何もない。時計の針が刻む音に合わせて生き物の命は削られる。削られた分だけ成長を重ね、頭打ちになれば老いていく。ほんの少しの変化でも、数が集まれば大きな変化となり、時が長くなれば見る影もなくなる。


 この部屋もまた、変わらないはずがなかった。私は大人になり、アンは少しふくよかになって目元にしわができた。おもちゃや本が並んでいた場所にはこの国に関する様々な書類が置かれ、勉強の時間も執務の時間へと変わった。


 それでも彼女は、これまでと変わらないと言ってくれる。どんなに周りが変わろうとも、この部屋の中における二人っきりの時間だけは、昔のままの自分で過ごしていいと。


「どうでしょう。書庫で新たな知識を探してみては?」


「でも、書庫に置かれている本の大半には目を通しているはずよ。今さら読む本なんてあるのかしら」


 幼い頃、教育係であるアンが最初に教えてくれたことが本を読むことだった。


『人が何を見て、その人の人間性を判断するのか。それはその人の中の知識量であり行動であり、周りを取り囲む人々のそれです。知識は心や考えの広さに繋がり、その志に賛同した人々が、その人を取り囲むことになるでしょう。集まった人脈はそのままその人の力を示し、その広さによって世界に与える影響も変わります』


 私は女王となる身だった。国民全員が、私に強制的に与えられた人脈となる。その人脈が強制的なものから自主的なものへ、求められる人間性は通常より遥かに高かった。


『まずは本を読みましょう。本からは知識だけでなく、仮想的な経験を積むことができます。そして多くの人々と会話を重ねましょう。そこには本からは得られない、かけがえのないもので溢れています』


 彼女はまだ幼い私のそばで、その運命を良い方向へと導こうとしてくれた。まだ右も左も分からなかった。だから私は彼女の言葉のままに書庫で本を読み、あらゆる人々と会話を重ねた。そうして過ごしていくうちに世界の仕組みや人々の暮らしを学び、自らの考えや立場は確固なものへと変化していった。


「書庫に保管されている書籍は常に更新されています。また新しいものが入っているのではないでしょうか」


「そうね……。できることから始めてみましょうか」


 何もしないよりはずっとましだった。何もしなければ悩み続けて、自分でも抜け出せなくなってしまいそうだったから。

 今の私にできる正しいことは、無理やりにでもそこに光を見出して、明るく振る舞うことしかなかった。

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