第7話 早朝の逢瀬と理想像

 早朝。薄暗闇の中、日は昇ったばかりで気温も低い。私は城の中庭に出ていた。草木に囲まれた小さな広場に人影はなく、中庭に面した部屋もまだ眠りについているようだった。


 私だって、用事もないのにこんなにも早く目を覚ますつもりはなかった。自然と開いたまぶたを閉じたところで、同じように自然と眠りにつけるわけではない。無為に過ごすよりはと飛び出してきたのは、これまで積み重ねてきた悩みのためだった。


 私はもう、一人でこの国の頂点に立つ必要はない。隣には、頼りになる人がいる。お父様の代わりとして務めてきた日々は、悩む暇もないほどに降りかかる責任に耐える必要があったのだが、今ではそれも半分以下。それもほとんど感じられないほどにまで少なくなっていた。


 隣に彼が立ってくれただけで、こんな状況になるわけがなかった。原因は、私に任せられる仕事が圧倒的に少なくなったこと。私が背負ってきたもののほとんどを、彼が背負い込んでしまったからだった。


 どうして自分には仕事を任せてくれないのか。今までの経験から、自分は充分役目を果たせていると思っていたのだが、それはただの勘違いでしかなかったのだろうか。


 私は自室から持ってきた剣に手をかけた。それはまだ私が幼い頃、最低限の護身のためだとうそぶいて、お父様から無理やりいただいたものだった。

 今の私には小さすぎるその剣を、悩みを絶つかのように振った。


 今の私の役目とは、一体何なのだろうか。王女から女王となった。正式にこの国の頂点に、彼と共に並び立った。

 彼は国王として執務に励んでいる。その間私がしていることは……。


 剣はキンと冷え切った空気を刻む。大きく三回、振りかぶっただけで息は上がり、手首や肩回りが痛くなった。幼い頃は悩みも無く、底なしの体力を消費するためだけに庭を駆け回って城内を探険したいうのに、これまで体に取り入れてきた栄養はどこへ行ったというのだろうか。


「レイ様?」


 背後からかけられた声に驚いて、私は剣を構えたまま振り返った。


「これはっ! ……失礼いたしました」


 私はすぐさま剣を下ろし、軽く膝を曲げて視線を下げた。そこに立っていたのは、私の悩みの種となっているその人。こんな朝早くから身なりを整えて、寝間着のまま出てきていた私とは大違いだった。


「剣を振っていたのかい? 懐かしいね」


 ライオットはこの姿に言及することなく、笑って私の手から剣を抜き取った。王女として、恥ずべき状態であるというのに。


「今日は早くに目が覚めてしまったもので。このような格好で出てきてしまったこと、誠に申し訳ありません」


「顔を上げて。そんなに畏まらなくていいから。私はレイと話がしたくて来たんだよ」


 ライオットが私を咎めることはなかった。恐る恐る顔を上げても、彼は笑ったまま。


「もしかしてあの頃のものかい? こんなにも小さかったんだね。軽すぎて不安になりそうだよ」


 彼が軽々と振り回すそれは子供用。私にとって重たいものでも、元騎士団団長である彼には軽すぎたようだ。


「昔はよく三人で庭を駆け回っていたよね。他にも勉強しなければならないことがたくさんあったはずなのに、レイ様は剣の稽古にまで顔を出して。相手をしていると鎧の騎士に睨まれているようで怖かったなぁ」


「国王様も立派な騎士になるために必要な知識を学び、日々鍛錬を重ねていらっしゃいましたでしょう? 今では国王としての振る舞いまで必要となりました。私のは勉強の合間の息抜きで、ただのわがままに過ぎませんから。付き合わせてしまって、申し訳ありませんでした」


「謝らないで。共に過ごすことができて楽しかったし、あなたには何度も勇気づけられてきたのだから」


「分かりました。あなたがそうおっしゃるのなら」


 王様は楽しそうに笑った。その笑顔は昔と変わらない。もう随分と古い記憶だが、つい昨日のことのように思い出せるほど鮮明なのは、そんな毎日が幸せで仕方がなかったからだろうか。


「子供用の剣とはいえ、これは本物だろう?」


「はい。時折手入れをしておりましたから、刃はまだ曇っていないと思います」


 刃が朝日を反射する。その輝きは鈍ることなく、当時の鋭さのまま丁寧に保存されていた。


「これを一人で扱っていては、怪我をしてしまうかもしれないよ。それに、女性が持つには重すぎるんじゃないか? これではせっかくの綺麗な手にマメができてしまう」


 彼は剣を鞘に戻し、そのまま自らの腰へ据えた。自由となった両手で私の手を掴むと、少しかがむようにしてその掌を確認する。


 彼が見つめたのは普段と何も変わらない私の掌。剣を三回振ったところで、マメができるはずもない。皮膚が硬くも厚くもならず、指が節くれだつこともない。色は白く、掌は薄く、指は細くてしなやかで、何の苦労もしたことのない綺麗な手は、そのまま私のこれまでの人生を表しているようだった。


「大丈夫そうだね。時間を潰したいのなら私がいくらでも相手をするから、危ないことはしないで」


 彼は顔を上げて、また幸せそうな笑顔で私を見つめた。何の価値もないこんな手を、さも大事そうに両手で包み込んで。その手は硬く大きくて、自分の無力さを実感させる。彼がこれまで積み上げてきた努力が、そのままこの手に表されているような気がする。


 彼は私に仕事はないと言う。そしてこの手は、剣を握るものではないとも。私が彼にできることは何もないということなのだろう。私が求められているのは、このような姿ではないということなのだろう。彼が求めているような、そんな女王に変わらなければ。


「……そうだ! まだ時間があるのなら、私のダンスの相手をしてくれないかな? 練習はしたけれど、実際に踊ってみないと分からないこともあるだろうから」


 片膝をつき、左手を差し出す。仰々しいその態度は隙もなく、立派な王族の仕草そのものだった。


「喜んでお受けいたします」


 私は寝間着のスカートを申し訳程度につまみ、彼の左手に右手を重ねた。そこからは彼がリードするまま。腰に添えられた手は優しく私の体を支え、包まれた右手を介してステップを導いてくれる。


 二人で踊るのはこれが初めてなのに、初めてだと思えないほどスムーズに足が運ぶ。幼い頃から繰り返し練習して身に付けた動きでも、これほど無意識に踊れたことはなかっただろう。


 きっと何度も練習を重ねたはずだ。そのどこにも心配するところがないと分かった今、彼が私にダンスの相手を提案したのはこれ以上私が剣を振らないよう気を遣った結果なのだと確信した。


 彼は国王として必要な考えや言動を身に付け、私に正しい女王の在り方を求めている。私が人前で恥じることがないよう、素直に正しい道へと方向転換できるように。国王として最大の気遣いを伴って。


 そこには一切の間違いなどなく、甘えすぎている私を包み込むほどの器があった。であれば私ができることは、私がしなければならないのは、彼の願いに応えることだけ。


「さすが王様です。ダンスもお上手で、安心して踊らせていただきました」


「そうかな? ありがとう」


 これ以上迷惑をかけてはいけない。私はめいっぱいの笑顔を作った。


「皆様が起床される頃合いでしょうか。私は自室に戻りますね」


「分かった。また早く起きてしまったときは、一緒にダンスでも踊ろう」


「ぜひ、お願いいたします」


 王様に一礼して私は中庭を後にした。私が持ってきた小さな剣は、王様の腰に据えられたまま。


 もうここに来ることはないのだろう。私は庭を駆け回ることも、剣を振るうことも望まれていないから。街の子どもたちが遊んでいたように、はしゃぎ回ることは許されていないから。彼らのように誰かを守ることができる丈夫な体ではなく、綺麗で美しい華奢な体が求められているから。

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