第6話 複雑な距離

 約束が白紙になってから何日過ぎても、ライオットから声がかかることはなかった。私も政治に関わっているため、その多忙さは身にしみて分かる。しかし私に回される仕事は日ごとに減って、ライオットたちが働いている時間は遅くまで及ぶことが多くなった。


「何か他にお手伝いすることはないでしょうか?」


 何度そう声をかけたか。それでも帰ってくる言葉は決まっている。


「ありがとう。でも今はないかな」


 その言葉を聞いて、私は執務室に引き返す。ないと言われてしまったら、私は手を出すことができない。執務室までが、ひどく遠く感じる。




「最近、国王様と会話されていますか?」


「えっ、ええ。毎日執務室を訪ねているわ」


 執務室で数少ない書類を片づけていると、心配そうにアンが尋ねてきた。執務室を訪ねたところで、話すのは仕事の確認だけ。彼女が求めているような会話をした覚えはない。


「もう祝言を上げてからしばらく経ちます。たまには夫婦らしく過ごされてはいかがでしょう?」


「今はまだこの国を立て直すのに大変だから。また落ち着いた後にね」


 その言葉に、私は苦笑いしか返すことができなかった。夫婦らしいと言えば、私たちは共に食事をしたことも、他愛のない会話をしたこともない。そんな時間は無いと、仕事を理由に目を背けていたのだ。


 こんな毎日を過ごしているから、自分たちが本当に夫婦であるか疑ってしまう。わざわざ彼を失ったことは、何の意味もなかったのだろうか。心の底で忘れられないその気配が、邪魔をしているというのだろうか。


「無理はなさらないでくださいね」


「ありがとう」


 私がニコリとほほ笑んでも、彼女の表情が晴れることはなかった。


 私の心がどこにあるのか、アンもライオットもたぶん気付いていた。それを知っていて、アンは私を気遣ってくれて、ライオットは気付いていないフリをしてくれている。夫婦という名称を書類の上だけに留めていたのは、二人の気持ちに甘える私の方だったのではないだろうか。




「片付いてしまったわね」


 これまで一人で抱えてきた仕事を王様と分担することになったとはいえ、その量は圧倒的に少なくなっていた。時刻はまだ昼過ぎ。昼食を終えた私は、その退屈をしのぐようにアンに声をかけた。


「では久しぶりに城下へ参りませんか。公的でもお忍びでも、どちらにしても民に寄り添うことは大切ですよ」


「それはいい考えだわ。王族の者として、国民の元へ伺いましょう」


 私が最後に城の外へ遊びに出たのは、まだお父様が元気だった頃。それ以来、自ら外に出ることはなく、国民の状況は城に仕える者たちの報告でしか把握してこなかった。


「では、騎士団の方に護衛の要請をしてまいります」


 アンのいなくなった部屋で、私は一人ため息をついた。彼女が心配してくれるのはとても嬉しいのだが、私がその気遣いに応えられる気はしない。その申し訳なさを少しでも忘れたくて、この提案をされたときはほっとした。




「ごきげんよう」


「女王様!」


 私は城下町に降り立つと、姿を見た人々がわらわらと集まってきた。その様子はお父様が生きていたころと変わらなくて、私はお父様の真似をするように、彼らの手をとって短く声をかけていった。


「女王様。こちらは私の店で人気の料理です。ぜひお召し上がりください」


「ありがとうございます」


 付き添いに来てくれた騎士に毒見をしてもらった後、私はその料理を口にした。この国の郷土料理。様々な野菜をトマトで煮込んで、酸味のあるフルーツで味を整えたもの。それはどこか、懐かしい記憶を思い起こさせるものだった。


「ここは?」


「このお店は最近建て替えられたばかりで、女王様もご存知だと思います」


「もしかして……ファシリエですか?」


「はい!」


 ファシリエとは、この国で唯一と言えるほど長い歴史を持つ服飾店だった。


「ここでは服の製作や修復を主な仕事としており、染色や刺繍もその中に含まれます。どちらかといえば、その服飾の美しさでここまで残ってきたと言われるほどです」


「はい。それは存じております。私も何度もお世話になっておりますので」


「そうでしたか! では中をご覧になられますか?」


「よろしいのですか?」


「はい。もちろんです」


 お店の中では何人かの作業員が、各々の服を仕立て上げていた。それはドレスだったり帽子だったり、髪飾りを制作している人もいた。


「素晴らしい腕ですね」


「ありがとうございます」


 制作された素晴らしい作品の数々を見学させてもらって、私は紺色の帽子を一つ購入してお店を出た。


「女王様だ」


 お店を出た私に近づいてきたのは、小さな子供たちだった。今ではもうその数も少なくなってしまい、遊んでいる様子を見ることも少なくなっていた。


「元気だね」


「うん!」


 子どもたちに連れられてたどり着いた場所は小さな広場で、古い水飲み場があるだけで何もなかった。


「女王様も一緒に遊ぼう!」


「そうね……」


 私は二人の護衛騎士に視線を送って確認した。


「申し訳ありませんが、これ以上は許可できません」


「ほんの少しだけ……」


「できません」


 城下で国民と触れ合うだけでも、護衛をする側としては気が気ではないだろう。それも長時間となり、すぐそばに控えられない状況ともなれば仕事を全うできない可能性がある。


「ごめんね。一緒に遊びたかったんだけど、ダメみたい」


「えー。じゃあ、お兄さん遊ぼう!」


「いやっ、私は仕事中なので」


 私と遊べないことが分かって、子供たちの注目は護衛騎士の一人へ移った。両手を引っ張られて困り果ててはいるものの、その表情は嬉しそうに歪んでいる。


「おうおう、行って来い。ここは俺が見ておくから」


「えっ、それは――」


 もう一人の騎士から許可をもらったからか、子供たちは容赦なくその騎士を連れていった。落書きされた石畳を指さして、子供たちは騎士に何やら耳打ちする。それからワーッと走り出すと、騎士の手から逃れるように体を翻しながら、地面に散らばった何かを拾い集めていった。


「女王様。この後の予定などはお決まりでしょうか」


 子どもたちの相手をまだ若い後輩へ押し付け、残った腕の立ちそうな中年の護衛の騎士は言葉遣いを改めて私に尋ねた。


「いえ、特には何も。この後のことはあの子どもたち次第、といったところかしら」


「承知いたしました」


 彼は私の言葉を受け取ると、近くで周りを警戒しながらも肩の力を抜いて、ゆっくりと寛いで佇んだ。その視線はチラチラと、定期的に若い騎士と子どもたちに向けられ見守っている。

 彼の優しげな瞳に誰かを重ねたわけでもなかったけれど、私も安心してその瞳が見つめる先を眺めた。

 

 私がその輪の中に混ぜてもらうことはない。ただ外側から眺めているこの状況も珍しいことで、本来なら私はこの場にすらいられないのだろう。


 楽しそうに遊んでいる子どもたちの、その無邪気な笑顔に私は昔のことを思い出していた。




「女王様、そろそろ」


 気づけば日も傾き、空が赤く染まっていた。町の全てを見ることは不可能だが、子どもたちの様子を知れただけでもう充分。


「えー。もう行っちゃうの?」


「ごめんなさいね。お兄さんもお仕事に戻らないといけないの」


「女王様がそう言うなら……仕方ないね」


「遊んでくれてありがとう」


「どういたしまして」


 子どもたちは駄々をこねることもなく、素直に私の言葉を受け入れてくれた。それは表も裏もない、疑いようのない人の姿。今の私にとって、眩しすぎる姿だった。


「さようなら。風邪をひかないように気を付けて」


「さよーならー」


 私は子どもたちと別れて、待たせてあった馬車に乗り込んだ。久しぶりの視察は楽しくて、また日常に戻ると考えると少し寂しさを覚える。

 大通りでは多くの国民が道の端に立ち、みんなが馬車に向かって手を振ってくれていた。その重すぎる期待に応えられるよう願いながら、私は馬車から彼らに手を振り返す。城の入り口まで途絶えることのない人の波に、自分が潰されないことを願って。




 寝室に戻ったのは既に月が空へと昇り、闇が境界を滲ませる頃だった。かつて私が一人で業務していた時でさえ、この時間には執務を終えていた。しかしそれは当時の私にとっての当たり前で、今の彼にとっては当たり前ではないのかも知れない。


 ライオットの執務室の前を通ったときに、部屋の中からは話し声が聞こえていた。それはライオットと宰相、それとたぶんティムの声。ぴったりと閉まった扉から聞こえてきたということは、相当な声の大きさで話しているということだろう。私たちの執務室は、基本的に外に音が漏れることがないはずだから。


 詳しい話の内容までは分からないが、何か重大なことで意見が食い違ったというところだろうか。この間私の手は必要ないと言っていた、例の話の続きかもしれない。


 しかしどんなに重要そうな会話が聞こえてきたとしても、私は扉を叩くことなく廊下を進んだだろう。そこに私の仕事はない。どうせ今尋ねたところで、断られて終わりなのだから。


 私は自分の無力さが恨めしくて仕方がなかった。


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